どうなる家康 第19回 信長包囲網の破綻

作 文聞亭笑一

三方ヶ原で家康はは徹底的にやられました。

総勢1万1千と言われた織田、徳川連合軍ですが2千ほどは浜松城の守備に残しました。

更に、織田の援軍のうち佐久間、水野などの2千は様子を眺めていただけで、徳川勢の敗色が見えてからは早々に戦場を離脱しています。

徳川と援軍の平手勢が懸命に戦いましたが、次々に新手を繰り出す4倍の敵に押されて総崩れで逃げます。

冬至を過ぎたばかりの頃、早い日暮れと地の利に助けられて逃げ帰りますが、それでも千人が戦死したと言われます。

それも銃弾が飛び交う戦いではありません。

刀と槍での白兵戦ですから壮絶、悲惨です。武田方の戦死は百人ほどと言いますから、如何に大敗したかが目に見えるようですね。

「空城の計」もありましたが、信玄は徳川を潰す気はなかったようで、織田を倒した後に立ち枯れになるか、武田配下に参加するのか、家康に選ばせるつもりもあったようです。

三河兵の強さは姉川の戦いでの評判などで信玄の耳にも入っていたようです。

一言坂の戦いでも、三方ヶ原でも、その強敢さを目の当たりにしました。

「できれば自分の戦力として使いたい・・・」そういう思惑もあったかもしれません。

信玄死す

死因には・・・色々な説があります。

勝頼の母・諏訪御寮人は結核に罹っていました。

信玄も感染していた・・・と言う説があります。信玄の行動からの状況判断で胃癌ではないか・・・と言う説もあります。

さらに、胃癌の末期であったのに無理をして進軍し、体力が弱まっていたところに風邪を引いた。

これが肺炎を誘発し、死に至った・・・と、まことしやかですが、実際のところはわかりません。

いずれにせよ信州・駒場で亡くなった時は高熱を発していたようですから、肺炎が直接の死因でしょうね。

現代の「コロナで死んだ」と同様でしょう。

「三年喪を伏せ」と遺言したと言いますが、後世の作り話でしょう。

情報手段が限られてはいますが、信玄のような大物の生死の情報が漏れないはずがありません。

突然の退却すら「おかしい?!」と忍者達がかぎ回っています。

現代の新聞記者や週刊誌のパパラッチよりもよほど情報力のある忍者達が嗅ぎ回ります。

3年どころか三月、いや3日隠すのですら容易ではありません。

「3年動くな。兵を休ませて国力をつけ、現状維持して勝頼体制を固めよ」

この遺言を破って、戦、戦に狂奔したのが勝頼でした。

そうさせたのは、事あるごとに信玄と比較して勝頼を批判した長老達だったでしょうね。

代替わりの難しいところです。

この教訓を生かして代替わりを行ったのが家康の「大御所方式、二元政治体制」です。

どうする信長

織田、徳川連合軍の三方ヶ原での大敗は、3日もしないうちにトップニュースとして全国に流れました。

忍者達諜報部隊はもとより、通運業者、武器商人達の情報網が大活躍します。

「織田、徳川連合軍の2万が武田の騎馬隊に完敗した。

大将格では家康、平手汎秀が討死し、一万人近い戦死者が出た。

武田軍は勢いに乗って三河を席巻し、尾張から美濃へと進むであろう。

美濃へは岩村城を落とした武田軍別働隊が迫っている」

京の都でも、こんな噂話が飛び交いますね。

信長包囲網を企画し、陰で全国の大名達に信長追討の御内書を乱発していた将軍・義昭は大喜びだったでしょう。

してやったり!

「やったぞ!信玄、その勢いで岐阜も落とせ」と信長と決別、対決姿勢を取ります。

この動きに松永久秀も同調し、奈良の多聞山城で反旗を翻します。

大阪の本願寺勢も勢いづき、その別院というか伊勢長島の一向一揆が信長軍を攻撃します。

長島での戦いでは、信長の弟を始め多くの将兵が戦死しています。

信長にとっては身中の虫でもありました。

姉川の戦いや、叡山焼き討ち以来、目立った動きのなかった浅井・朝倉連合軍も反撃のチャンス到来と矛を研ぎます。

1573年の正月、信長を取り巻く環境は最悪でした。

・・・が、4月になると「信玄死す」の情報が飛び交います。

一転して攻守ところを変えます。

信長に反旗を翻し、槇島城に籠もっていた将軍義昭が降伏、京から追放されます。

これで足利幕府は実質的に終わったのですが、将軍位を返上せず、大阪から福山の鞆に逃げて、そこで将軍を名乗ります。

京で将軍政務を代行する信長と、将軍を自称する義昭の二元政治になりました。

それができたのは、義昭が反信長連合のシンボル、旗印としての存在価値があったからです。

浅井・朝倉滅亡

信玄の死を聞くやいなや、信長は反転攻勢に掛ります。

まずは岐阜と京の間の大動脈、琵琶湖水運の安定化のために浅井討伐を始めます。

浅井家臣のうち佐和山城の磯野員昌は2年前に調略しています。

そして今度は琵琶湖西岸の阿閉貞任を寝返らせます。

これで浅井長政は両手をもぎ取られた形になりました。

頼りは朝倉の援軍だけです。

朝倉にとっても、浅井が陥落してしまうと信長からの直接攻撃を受けます。

浅井は越前防衛の生命線でもありますから、大量の援軍を送り込んできました。

これを、信長が風雨の中を自らの手勢だけ、親衛隊だけを率いて奇襲します。

風雨の夜間です。

朝倉軍は「奇襲はない」と安心していましたから、千人に満たない奇襲部隊にさんざんにやられて逃げ出します。

これを、信長に先駆けされ慌てて追いかけてきた柴田権六以下の織田軍が追撃します。

越前に入ってから朝倉は救援部隊を出しますが、勢いに乗った織田軍を止めることはできません。

本拠の一乗谷まで攻め込まれ、朝倉義景が自決して滅びてしまいました。

こうなると浅井長政の小谷城は自滅するしかありません。

この辺りはテレビにお任せします。

余談ですが、この奇襲作戦が、後世になると桶狭間の戦いと混同され「桶狭間・奇襲作戦」の物語になってしまったようですね。

江戸時代には多くの劇作者が信長物語を手がけています。

面白おかしく、江戸時代版・鬼滅の刃ですかね。

於義伊丸 誕生

家康に次男ができます。

後の結城秀康、越前70万石の大名ですが、次男でありながら、長男信康亡き後の徳川家の2代目は、弟の3男・秀忠に譲ることになりました。

そのいきさつ「なぜ?」を伝えるのが、今回の物語のようですね。

この時代、第二婦人以下の妻妾を認定する権限は、正妻・正室にあったのです。

家康の場合、瀬名さんが「うん」と言わなければ正規の側室と認められません。

認められないお万さんは正規の側室ではない、従って秀康は次男ではない・・・つまり相続権はない、と言う扱いになります。

秀康自身は武人としても、政治家としても優秀だったようです。

秀忠もそれを認めています。

この状態の秀康を救ったのが岡崎奉行の本多作左衛門と岡崎家老の石川数正でした。

後に秀吉に人質として赴く際に小姓として従ったのが石川勝千代(数正の長男)、本多仙千代(作左の長男)です。

仙千代は「お仙泣かすな・・・」の、あの仙千代です。