八重の桜 21 自己中慶喜

文聞亭笑一

政権交代というのは、新たに政権に就こうという勢力の政策や、政治駆け引きよりも、旧勢力側の失策の方が、交代を決定づけてしまうようです。新勢力の打ち出す政策というものは、目新しくて魅力的に見えますが、やってみるまではわかりません。砂上の楼閣であることが多いのです。

その意味で、明治維新を理解するには、ごく最近の2度の政権交代、復帰の軌跡をなぞってみることが、歴史の理解につながると思います。

小泉政権以降の自民党の凋落、そして、民主党政権の崩壊、いずれも、与党の失策が政権交代につながっています。その失策とは、内部分裂です。

幕府は、慶喜を中心とする一会桑政権と、江戸にいる与党幕閣の意見がバラバラでした。

しかも、一会桑政権内部で、慶喜と松平容保、定敬兄弟の足並みも揃っていません。空中分解に近い状態にありました。従って、慶喜が「討薩」の号令をかけても、全国の大名家は日和見を続けます。勝ち馬に乗ることだけしか考えません。維新後、佐幕朝敵と言われた藩ですら、鳥羽伏見ではまじめに戦ってはいませんでした。

佐幕、朝敵の烙印を押された主な藩を列記しておきます。

松江藩、姫路藩、松山藩、高松藩、桑名藩、小田原藩、川越藩、佐倉藩、松本藩、高崎藩ほか、奥羽越列藩同盟に参加した新潟および東北の諸藩

…石高、兵の数でいえば圧倒的多数が佐幕藩でしたが、結果は御存じのとおりです。

ただ、上記諸藩を見ると面白い共通点があります。世界遺産の姫路城、国宝の松本城など、古い城が壊されずに生き残ったところの多さも、共通しています。「廃城令」に抵抗したんでしょうね。新政府には協力しなかったようです。さらに共通点は、その多くが県(地方)の行政の中心であったにもかかわらず、県名に使われていません。県名と、県庁所在地が同一の県は親新政府派です。鹿児島、山口、高知、佐賀、・・・。日和見をしたところは、その後の態度如何で、名が残ったり消えたりしています。熊本、徳島などは「よい子」です。金沢、名古屋などは「悪い子」と判定されたようです(廃藩置県裏話より)

面白いですねぇ。

81、幕府軍は、大軍で押し寄せれば薩長連合軍は戦わずに逃げ出すだろうと思い込んでいたのではないか。作戦があるとは思えぬ行き当たりばったりの戦いぶりだった。
会津藩が援軍を頼んでも、幕府軍は動かないとも聞いていた。幕府軍の士気も低い。数の利も、全く生かせていない。

前回も触れたとおり、幕府軍は、軍隊の体をなしていません。総指揮官は誰なのか、それすら不鮮明でした。一応、慶喜が最高司令官ですが、現場指揮を執る気は全くありません。

「薩摩を討て。あとは良きに計らえ」というのですが、現場の総指揮官が誰だったのか、よくわかりませんが、従った諸藩は「幕府の親衛隊であろう」と思っていますから、伝令や、援軍要請は幕府親衛隊に走らせます。ところが…一向に指示が出ないんです。援軍も来ません。これは軍隊ではなく、烏合の衆です。

前線にいた会津、大垣、新選組などは薩摩の攻撃を受けたら応戦せざるを得ません。ですから、初日は防戦一方です。やられたら、やり返すという戦術ですから後手、後手になります。が、それなりに奮戦、善戦していました。

2日目、「幕府はあてにならん」と見切った会津が、反撃に出ます。午前中は一進一退、互角に戦っていました。

ところが、長州兵が現れるに及んで新政府軍に錦の御旗が立ちます。薩摩の大久保一蔵が、長州の品川弥二郎に託して下関で制作した偽錦旗なのですが、これが威力を発揮しました。幕府は大政奉還してしまっていますから、将軍よりも天皇の命令が優先します。

戦意の薄い藩は、我先に逃げ出します。初日に会津とともに活躍した大垣藩は、長州に合流して、鉄砲を幕府軍に浴びせます。最初の寝返りですね。その後も淀藩、伊勢藤堂藩など、寝返りが相次ぎます。淀藩というのは幕府の現役の老中です。節操がないというか…、春日局の末裔、稲葉正邦は機を見るに敏でしたね。

82、慶喜の隣に坐した容保は、この様子を複雑な思いで見つめていた。慶喜が気勢を上げる時こそ、信用がならないと、これまでに何度も思い知らされている。慶喜はまた危うい策を取ろうとしているのではないか。容保は危ぶんでいた。

それでも、慶喜は虚勢を張ります。日露戦争の東郷平八郎並に「明日こそ大決戦をやる。幕府の興廃この一戦にあり、各員いっそう奮励努力せよ」と言ったかどうかは知りませんが、名演説を吐いたといいます。会津はじめ、幕府軍の士気は盛り上がりました。

が、慶喜は戦場に姿を現しません。

幕府軍は押されてはいますが、善戦しています。この戦争の参加人数と失われた人命は

幕府軍 15,000人 戦死 279人 戦死率1,86%

政府軍  5,000人       63人      1,26%

でした。大差ありません。ついでですから戊辰戦争全部の戦死者のデータを整理します。

           幕府軍      新政府軍

鳥羽伏見の戦い     279       63

上野彰義隊        260       34

白河口の戦い      700       26

長岡城争奪戦     1190     1090

会津若松戦争     2557      395

函館五稜郭戦争     815      223

     小計        5801     1831   総計 7632名

このデータを見てお分かりの通り、明治維新は無血革命どころか、源平、関が原と並ぶ、日本三大内戦なのです。そのすべてが…東西戦ですね。根が深いですよ、この対立は…。

我々の時代は、巨人・阪神戦くらいにしておきましょう。

83、総大将がいない。容保の姿もない。

「上様が、会津侯、桑名侯と共に開陽丸に乗り込まれ、勝手に江戸に出帆してしまわれた」

逃げました!! 容保、定敬の兄弟を人質にして、慶喜は江戸に逃げます。一種の誘拐犯ですね。夜陰に紛れ、部下たちを欺いての出奔です。

江戸に戻った慶喜は、勝海舟を呼び出して、陸軍総裁にし、助命嘆願一筋です。

まぁ、これだけ自己中の人は、歴史上にも数少ないですね。思い当りません。勝海舟に託したのは自分の命の安全だけで、江戸に着くなり容保、定敬兄弟は見捨ててしまいます。浜御殿、浜松町から三田に近い上屋敷まで容保は部下も連れずに歩いたといわれています。

定敬の方も同様で、こちらは後に自分の藩が新政府軍に寝返ってしまいますから、江戸屋敷にもいられず、伝手を頼って長岡藩へ逃げ、さらに米沢藩に逃げています。

勝は、慶喜の性格をよく知っています。登用されてはクビになり、また登用されてはクビと何度も痛い目を見ています。今度こそ、と慶喜の妄動を防ぐために高橋泥舟を慶喜の護衛、兼、監視役として貼り付けます。上野寛永寺はその意味で慶喜の牢獄でしたね。

泥舟は勝海舟、山岡鉄舟、と並んで幕末三舟と賞されます。私の好きな歌

欲深き 人の心と降る雪は 積もるにつれて道を失う …が、泥舟の作です。

84、そのころ修理は、鳥羽伏見の戦いで惨敗したのも、慶喜と容保が兵を置いて江戸に戻ったのも、修理の誤った進言のせいだとされ、江戸上屋敷の一室に幽閉されていた。
しかし、修理のせいでないことを、誰よりも容保が知っていた。

トカゲの尻尾きりです。天皇に逆らったのは会津にそそのかされたからだ。その会津の進言によって、江戸で謹慎することにしたのだ…という、言い訳のストーリーになります。

トカゲの尻尾にされたのが覚馬の盟友、八重の初恋の相手・神保修理でした。

覚馬も、修理も、不戦論者でしたから、鳥羽伏見で熾烈な戦いをしてきた武闘派から恨まれます。いち早く容保に追いつこうと道を急いだことも、疑いを増すことになってしまいました。身内に疑われるほど辛いことはありませんね。

帰りこん 時よと親の思ふ頃 はかなき便り聞くべかりけり

なんとも辛い辞世の一種ですねぇ。親より先に死ぬという…親不孝を詫びる歌です。

会津藩は歌の道に優れた者が多く、教養という点ではトップクラスの水準にありました。

いくつもの悲しい歌が残っていますが、追々紹介します。