八重の桜 22 話せばわかる

文聞亭笑一

上野の山に立つ西郷さんは、犬を連れて着流し姿で…実に庶民的ですが、その半面で力の論理の信奉者でもありました。先週も書きましたが「西郷ドンのユッサ好き」は薩摩藩の者たちが口をそろえて評価するところです。ユッサとは戦のことです。

その西郷が、官軍の最高責任者として指揮しますから、「将軍慶喜と会津の容保、桑名の定敬の首をとる」が官軍の最大の目的になります。とにかく、徳川将軍家を徹底的に叩き潰して、反対勢力を根絶やしにしようというのが基本戦略です。

錦の御旗が立った。この一つの現象で、300諸藩は大混乱に陥ります。佐幕派と恭順派に分かれて藩内は激論の渦です。最北端の北海道松前藩ですら二派に分かれて、喧々諤々、自らの方針を決定できずにいました。が、西から順次、恭順派が佐幕派を押さえて、官軍に兵を送り込みます。そのいでたちは、戦国絵巻さながらです。鉄砲が中心となった戊辰戦争では物の役に立ちません。薩長土肥、それに大垣藩などの洋式軍隊の後に続き、ぞろぞろ行軍していくだけでした。

85、最新の戦術を学びに行った尚之助とて、会津藩が江戸を引き上げるという、火急の事態にあって便りを書くどころでないのだろう。
尚之助が便りを書けない、何らかの事情があるのではないか。
それは覚馬と三郎のことではないか。

恭順、降伏を決めた慶喜にとって、最も邪魔になるのが主戦論の会津と桑名です。クビにして江戸から追い払います。やられた方はたまったものではありませんね。四面楚歌、江戸に居場所はありません。会津は、帰る国許がありますが、悲惨だったのが桑名の藩主・松平定敬です。桑名藩も他藩の例にもれず、藩内で佐幕派と恭順派が争い、恭順派が優勢になっていました。それはその筈で、西の藤堂藩と、北の大垣藩は鳥羽伏見で官軍に寝返っています。東の尾張藩は新政府の参議です。佐幕の旗を建てたら、三方から攻め込まれて袋叩きにされます。降参するしかありませんでした。定敬は越後長岡藩を頼って、亡命するしかありません。

亡命と言えば、勝はイギリス公使パークスに会って、将軍慶喜のイギリス亡命の申し入れをしています。さらに、万国公法の解釈についてゆさぶりをかけています。幕府とフランスとの秘密契約なども持ち出しながら、イギリスが静観するように圧力をかけていますね。「俺がお前の都合のよいように事を運んでやるから、余計な口出しをするな」と、半分イギリスを脅迫しています。パークスは慶喜の亡命を支援する約束をしています。

この時期、外国勢力の動向に気配りをしていたのは勝海舟だけではなかったでしょうか。新政府は戦だ、戦だと浮かれています。トンヤレ節というものを流行らせました。

「♪みやさん、みやさん、お馬の後ろで・・・」という歌です。

これは長州の品川弥二郎の馴染の芸妓が作った歌ですが、「トコトンヤレ、トンヤレナ」というところは「とことん、やれ」という意味が含まれます。幕府を根絶やしにしてしまえ、賊軍を殲滅せよ、という軍歌になりました。

86、乾、改め板垣退助は、三条と岩倉を鋭い目で見返した。山内容堂の命を受け、退助は土佐の部隊を率いて一月の末に上京した。今では総督府参謀の一人として名を連ねている。「いよいよ、新政府の力を満天下に示すときじゃ」長州の木戸が座を見まわした。西郷らを参謀とする総督府は、錦の御旗を押し立てて、東海道、東山道、北陸道の三方から、東国へと兵を進めた。

土佐藩は官軍への参加が遅れました。山内容堂が将軍慶喜へ大政奉還の献策をしたことで、薩長から仲間外れにされます。「討幕に水を差す」と嫌われたんですねぇ。容堂も新政府の最初の会議で岩倉、大久保と大喧嘩をしましたから、臍を曲げて高知に帰ってしまいます。その空白の間に鳥羽伏見戦争が起きてしまいました。

新政府の主導権を握ろうという戦略が狂ってしまったのです。渋々、乾退助に兵をつけて官軍に参加します。

一方、岩倉具視は薩長だけでは新政府の体勢が危ういと、危惧していました。力の薩摩と論理の長州が喧嘩をしたら、基盤が脆弱な新政府は空中分解してしまいます。ここは、第三勢力としての土佐が必要なのです。乾を煽て、信玄の重職であった退助の祖先・板垣信方を持ち出し、東山道の指揮官に就けます。祖先の地、甲信を平定せよというのです。

こういうところが岩倉具視の真骨頂ですねぇ。薩摩は東海道、土佐は東山道、長州は北陸道「♪みやさん、みやさん…」の軍隊が東に向かいます。この三軍の特徴を言えば、

東海道を進んだ薩摩は基本的に融和策を取ります。ほとんどの藩を許しながら進みます。

一方、功を焦る板垣の土佐軍は、裁定が厳しかったようです。片っ端から「賊軍」のレッテルを貼って、「戦って口先だけの恭順でないことを示せ」と峻烈でした。

長州は筋を通します。「まぁまぁ、なぁなぁ」の帰順を許しません。その結果が、帰順してきた越後長岡藩を許さず、大きな犠牲を出してしまいました。

県民性もありますが、指揮官・西郷、板垣、桂(山県)の人間性の違いでしたね。

87、慶応4年三月、会津は、天明以来の長沼流軍楽を捨てた。部隊は、年齢別に玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊に分けられ、砲兵隊、遊撃隊などを加えると、約三千人の正規軍であった。

戊辰戦争では、白虎隊ばかりが有名ですが、白虎隊というのは予科練のことです。正式な戦闘員ではありません。16歳、17歳のいわば学徒動員です。白虎、青龍、朱雀、玄武は、」奈良のお寺で仏様の四方を守る四神のことで、青春、朱夏、白秋、玄冬と人間の一生にも使われます。会津藩の主力は言わずもがなの青龍隊、朱雀隊です。

会津戦争のすざましさは、これに女子軍が加わったことです。八重の友人として登場している女性たちは、それぞれに男以上の戦働きをしています。このことが、会津を悲惨な結果にしました。官軍は女性も敵兵とみなして無差別攻撃をしてしまったのです。それは、武士でない一般人にも及びます。会津と長州の世紀をまたがる怨念、どちらに原因があったとは言い切れませんが「無差別攻撃」というのは禍根を残します。

テロ対策と称して、中東で展開されるアルカイダと国連軍の戦闘も、悲惨なことになっています。女子供と年寄りは、戦闘には参加しない方がいいと思いますね。しかし、男女同権論者は、こういう考え方を「差別だ!」と言います。が…私は、そう思いません。

男と女は、生まれつき違う役割を担っています。それぞれの役割を果たすことこそが、生き物としての人間社会を豊かにするものではないでしょうか。

88、「万国公法では、恭順した敗者に、死罪を申付ける道理はありませんぞ!」
腹にドスンと響く声で、勝が続けた。西郷の眼元がひくりと動いた。
万国公法は、国際社会が順守すべき法規と、理念として、世界中の国家が平等である権利を有することを説いたものだ。幕末に中国から日本に伝わり、憂国の志士を始め、有識者が争うように読んだもので、あたかも経典のような権威があった。
薩長が攘夷論から開国論へと対外政策を転換する契機になったともいわれる。

東京・京浜東北線田町駅のコンコースには、モザイク模様の大きな壁画・タイル絵があります。西郷隆盛と勝海舟の会見の図です。力を盾に江戸城総攻撃を目指す西郷と、法を盾に江戸を守ろうとする勝海舟。「話せばわかる」のモデルケースです。

勝は単身で薩摩屋敷に乗り込みますが、その前の準備が凄いですねぇ。まずは、「江戸で戦争をしない」という目的一本に絞ります。そのためには「慶喜を処刑させない」という条件を第一にします。慶喜処刑となれば、旗本が黙っていませんから…。

まず、イギリス公使に慶喜亡命の手筈をつけます。これは最後の手段。

次に、過激派の新選組、大鳥圭介の陸軍部隊を江戸から追い払います。新選組は甲府で官軍を迎え討て、大鳥一派は中山道で官軍を迎え討て…と、外に出します。

次に、新門辰五郎をはじめとする親分衆、火消しの頭を集めて、江戸を火の海にする計画を立てます。彼らは火消ですが、それだけに火付けの名人です。これはナポレオンを追い払ったロシアでの戦争を真似たもので、官軍を江戸市中に引き込んでおいて、一斉に四方八方から放火し、焼き殺してしまおうという戦術です。近代兵器を駆使する官軍を相手に、槍や刀で応戦できるものではないと知り抜いているからこその作戦です。しかも、江戸湾には無傷の幕府艦隊が控えています。江戸から逃げ出す官軍は、品川から神奈川の海岸で艦砲射撃の餌食です。

これだけの準備、準備があっての「話せばわかる」です。腹も座ります。