八重の桜 24 戦雲迫る

文聞亭笑一

ここから数回、テレビの筋書きから離れます。ネタ本の続編が出ませんので、筋書きがわからないからです。頼りになるのは予告編だけですが、予告編だけではさっぱり見当がつきません。

昨年の清盛もそうでしたが、低視聴率を盛り返そうと筋書きを変えているのでしょう。脚本家も大変ですが、追いかけをやっている私も大変です(笑)。休刊にするわけにもいきませんから、時代背景をなぞりながら、続けてみます。引用する文章は中島繁雄の「大名の日本地図」中村彰彦の「幕末会津の男たち・女たち」です。

93、二本松藩は奥羽越列藩同盟の一員として、出陣の支度をした。戦国時代さながらの、甲冑、陣羽織、弓、槍、火縄銃の旧装備である。西洋式の兵備を整えた新政府軍は、5月に白河城、6月に棚倉城を落とし、7月に入り平城を落とした。7月28日新政府軍は、阿武隈川を越え、二本松城下に侵入した。この日、10代藩主丹羽長国は、家族を伴い家中の婦女子・老人らと米沢へ逃げた。   (大名の日本地図)

二本松藩・丹羽家10万石をおさらいしておきます。

藩祖…というか、先祖は織田信長の宿老であった丹羽長秀です。戦国物語には必ず登場する人物です。丹羽長秀は信長の過酷な人事にも生き残り、秀吉にも重んじられました。それもあって、戦国期から明治維新まで、長秀の子孫には「名門」の意識が強く、それが災いして、長秀の息子・長重は秀吉にも、家康にも嫌われます。

長秀の時代に越前120万石に封じられたのですが、長秀の没後、若狭12万石に左遷されます。秀吉の九州征伐に従いましたが軍令違反を犯して、加賀松任4万石へ再左遷。その後、豊臣秀長、寧々などのとりなしもあって、小松で12万石に復帰します。

が、関ヶ原の戦では西軍に組して、隣の前田利長と戦い、領地を没収されてしまいました。浪人です。が、丹羽長重の妻は信長の娘です。この奥さんが徳川秀忠の妻・お江に哀訴して、常陸古渡で1万石の大名に復帰し、棚倉5万石、白河10万石と復活しました。そして3代将軍・家光の時代に、会津に保科家が来た時、二本松へと転封になっています。

名門であるがゆえに没落し、また名門であるがゆえに復帰した家柄ですから、藩風は保守的でした。尊皇攘夷の暴風が吹き荒れる中にあっても、古風な文化にどっぷりと漬かっていましたね。「戦国時代さながらの」とありますが、戦国時代さながらであることが、藩の誇りでもあり、精神的支柱でもあったようです。

現代でも、伝統と格式や、血筋などを尊重する文化が残っていますし、それはそれで良いことでもありますが、企業の経営においては世の中の変化に遅れます。会津も、藩祖・保科正之の遺訓にこだわるあまり、悲劇への道をたどりましたが、二本松藩も似たところがありました。文化としての伝統保持と、環境変化への対応のための改革は、矛盾することが多いですが、バランスを勘案しつつ同時並行で進めなくてはなりません。経営とは、実に難しいことの連続なのです。机上論だけでは上手くいきませんねぇ。

94、二本松敗亡の時、急遽少年隊が編成された。元服前の12歳から、17歳までの少年達50数名だった。砲術師範・木村銃太郎が指揮した。少年らは、赤や青の羽織を着て、引きずるような太刀を腰にした。わずかな鉄砲と百匁玉大砲を引いた。少年らはまるで「遠足にでも行くように」嬉々として従ったという。
彼らは平生、母親より切腹の作法を、箸を使って教えられていた。出陣の日、「子供だから太刀で向かうな。敵を体で刺せ」と教わった。肉弾特攻である。少年らは、戦場で教えられたとおり、敵に体当たりし、斃れていった。  (大名の日本地図)

二本松城下には、丹羽家の菩提寺の大隣寺があります。そこの山手の墓地に木村銃太郎以下、戦死した15人の少年隊の墓石が並んでいます。飯森山で自刃した会津白虎隊19名に比較して、ほとんど、物語に登場しませんが、壮絶さ、凄惨さでは白虎隊以上ですね。純粋に、教えられたとおりにやってしまう・・・。何とも悲しい歴史です。

いじめ、体罰などの問題も、根は教育にあります。教育というと、学校教育のことを連想する人が多いですが、家庭教育の影響力が一番大きいですよ。とりわけ、男の子にとっては母親の訓えが骨の髄に染み渡ります。さらに、地域社会に教えられることも大きいですね。それが文化や、社会倫理でもあります。長じて、企業などの職場教育がこれに加わります。学校教育は教育体系のうちの、半分も占めていないのではないかと思いますね。現代は何もかも、学校教育に依存しすぎです。他人任せで、何か問題があると他人のせいにする風潮、いったい誰が仕組んだのでしょうか。保育園の待機児童の問題が騒がれていますが、出来ることなら、学童前の幼児は母親に育ててもらいたいものです。

95、西郷頼母は戦下手で、5月1日には3千の列藩同盟軍をもって7百の新政府軍に挑み、なんと敵の兵力に等しい7百を戦死させてしまうという、記録的大敗を喫した。
しかも頼母は、鶴ヶ城に戻ってくると容保に対して講和論を主張した。すでに白河は奪われ、降伏嘆願は拒否されていたから、今から講和を申し入れたところで証文の出し遅れは明らかである。 (幕末会津の男たち・女たち…中村彰彦)

今回のNHK大河は西郷頼母に対して好意的ですが、会津に残る資料では、かなり批判的なものが多いですね。立場の違いによるものでしょうが、会津藩の中では浮いた存在になっていたのは確かなようです。

それというのも、佐川官兵衛の率いる越後口では、官軍参謀の山県有朋が

賊(あだ)守る 砦(とりで)の篝(かがり) 影更(ふ)けて 夏も身に染む 越(こし)の山風

と、なかなか進軍できない嘆きの歌を残しています。日光口でも山川大蔵の部隊が善戦して、官軍の進撃を阻んでいました。それに引き換え…というのが会津の気持ちだったでしょう。白河口だけが、赤子の手をひねる様に惨敗したのですから、頼母が顰蹙を買っても、さもありなんと思います。この戦、突撃、突撃ばかりの作戦で、地の利を生かした用兵は全くありませんでした。下手…と言われても反論の余地はありませんね。とは言え、同じことをやっても日露戦争203高地の乃木希典は英雄になりました。やっぱり。勝てば官軍なのでしょうか。

官軍にしても、越後長岡で大損害を受けていますし、白河、二本松で手こずったなら、会津との講和をまじめに検討したでしょうが、あまりにも簡単に突破してしまいましたから勢いづきます。「会津など一ひねり」と気勢が上がります。

藩士を大量に戦死させた上に、逃げ帰ってきて講和、降伏を進言した頼母は、家老職を罷免されます。白河口敗戦の責任を取らされた、ということでしょうか。

交渉事というものにはカードが必要です。相手にとって手ごわい物、やられたら困る物、これがないと交渉になりません。白河口での敗戦は会津の無策、仙台の弱さが如実に表れ、その上奥羽列藩同盟の結束の弱さまでもが顕(あらわ)になってしまいました。

96、白虎隊と一口で言うが、会津藩の身分制度には上士、中士(寄合組)、下士(足軽)の3階層に分かれている。従って軍制で白虎隊は5隊に分かれていた。白虎士中一番隊、37名。白虎士中2番隊、37名。白虎寄合組1番隊、98名。白虎寄合組2番隊、62名。白虎足軽組、71名。合計305名である。彼らは前線に出ることはなく、藩主父子の親衛隊として本陣の守りが任務であった。

今週の物語では白虎隊が出てくることはないと思われますが、会津戦争と言えばだれでも知っているのは白虎隊の悲劇ですから、先回りして概要を述べておきます。飯盛山で自決したのは白虎士中2番隊の内の一小隊です。

引用文にもある通り、彼らの任務は本陣の守備隊です。戦闘要員ではありません。

彼らが城外に出動するのは藩主が自陣を巡視する際に、お供として付き従うのが仕事です。

その白虎隊がなぜ戦闘に参加することになったのか? 白河口を守っていた部隊が官軍の急襲を支えきれず援軍を求めてきたことにあります。にわかな戦況の変化に、手持ちの部隊を派遣するしかなかったからでしょう。この時援軍に向かったのは越後口から引き揚げてきたばかりの佐川官兵衛の部隊です。この隊は旧幕府軍の残党や新選組などの寄せ集めで、歴戦の猛者揃いでした。若者たちにとっては憧れの戦士たちです。「一緒に戦いたい」という思いが募って当然だったかもしれません。

ともかく、本来業務を抜け出して戦闘部隊に入ってしまいました。急な事でもありますから、食料などの準備は全くありません。これが悲劇の遠因になりました。

まぁ、今回のNHKが白虎隊と、西郷頼母一家をどう扱うか、それを見てからコメントしてみます。どちらも、会津の観光資源ですからね。