八重の桜 23 怨念の行方

文聞亭笑一

会津藩の立場が、日を追うごとに不利な状況に変わっていきます。幕府を懸命に支えてきていたのが裏目に出て、新政府から見ての賊軍の代表格にされていきます。

なぜ? 結論から言えば…「交渉力のなさ、外交下手」となるのでしょうが、「生贄(いけにえ)を血祭りに」という政府軍、特に長州の怨念が、爆発する場所を求めていたんですね。そういう意味で、戦争とは狂気、凶器を育てます。怨念という意味では、韓国の対日感情もいまだに消えていません。中国とて、怨念の塊のような国民感情を残しています。また、それを残すことが民族の誇りであると考えているのかもしれません。歴史問題、教科書問題とは、実に根の深い感情論の世界で、理屈の通らない魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)の世界なのでしょう。

江戸城無血開城に当たって、勝海舟のとった戦略は実に緻密でした、感情論など欠片(かけら)もありません。先週号で述べたとおり、計算しつくされていました。勝が飲んだ降伏条件は・・・

以下の通りです。

新政府要求案

勝・西郷の最終合意 

1、慶喜を備前藩にお預け・未決囚

1、慶喜隠居→水戸藩預け、徳川家存続

2、江戸城を尾張藩に明渡す

2、江戸城を田安家に明け渡すこと

3、軍艦、武器を残らず引き渡すこと

3、軍艦・鉄砲を引き渡し、後に一部返却

4、家臣は向島に移住し、謹慎

4、家臣は城外に出て謹慎すること

5、会津に兵を向け抵抗すれば討つ

5、  (削除)

西郷の努力でかなり譲っています。特に5項、会津が降伏すれば許すとなっています。

これが…なぜ戦争になってしまったのか? 双方とも、軍部に命令が行き届かなかったところに、悲劇が連鎖していきます。

まず、彰義隊の上野戦争が起きます(4条違反)。薩摩兵に戦死者が多数出ました。

幕府陸軍(大鳥圭介以下)が宇都宮に立て籠もり反抗します。(4条違反)

榎本武揚が幕府軍艦を率いて函館に逃亡します(3条違反)。

こうなると…官軍内の軍部が黙っていません。長州の大村益次郎が中心となって、削除したはずの5条が生き返ってしまいました。政府軍(官軍)の独断による暴走が始まります。これは、太平洋戦争の引き金を引いた関東軍と同じです。戦争になるように、戦争になるようにと、会津を追い込みます。交渉の余地を消していきます。

上野彰義隊、宇都宮の残党を引き受けてしまったのが、会津の命とりでした。

89、何があっても自分を見失ってはならない。絶望に、心を譲り渡してはならない。
悲しみに心を飲み込まれてしまえば、人は闇の中で生きるしかない。自分をいたわり、出来ることをする。たとえ愛する人を失っても、人はそうして、自分の足で立って、生きていくしかないのだ。

今回私が使っているネタ本は、NHK発行のドラマ脚本を書き下ろしたものです。そのせいか…心に響くような名文が見当たりませんでした。やっとありましたね。兄弟を失った八重が、悲しみを乗り越えようとする、心の傷を癒していこうとする場面です。

人は、一人では生きられません。集団を組んで生きていく動物ですが、その集団を悲運が襲った時、泣いてばかりいては集団全体が枯れ果ててしまいます。企業でも、家庭でもそうですが、すべてが順調にいくわけではありません。大震災、津波にしても、この列島に住み続けていく限りは宿命です。「こけたら立なはれ。立ったら歩きなはれ」三洋電機の後藤副社長の名言ですが、明日は、自分で切り拓くしかありませんね。

90、会津藩だけでなく、庄内藩もまた、藩主が幕府の要職にあったため、佐幕派の首魁とみなされ、新政府軍の討伐の対象となっていた。仙台藩と米沢藩を中心とする奥羽25藩は白石列藩会議を開き、会津、庄内両藩の罪を免じる嘆願書を書いた。

庄内藩は江戸の市中警護を担当していました。鳥羽伏見戦争のきっかけになった江戸・三田薩摩屋敷に砲撃を加え、開戦の口実を作ったのが庄内藩です。当時、西郷の指令を受けた薩摩の益満休之助が、江戸市中で火付け、強盗、殺人などのテロ行為を働き、しかもその規模を拡大していましたから、奉行所や火付け改めの手に負えるものではなかったのです。江戸市民から見たら正義の味方でしたが、政権が交代したら、官軍に逆らった賊とされます。逆に、益満は悪党ビンラディンから一躍、正義の味方になります。

ただ、西郷にとっても益満の存在は頭の痛い問題だったでしょうね。益満だけでなく、その下で働いていた盗賊たちや暴力団、チンピラまで官軍に抱え込むわけにはいきません。かといって、処罰もできません。

益満は上野戦争で戦死しますが、これは戦闘に名を借りた処刑だったように思います。益満の部隊は、上野突入の先陣とされ、武器も新式銃ではなく槍、刀が中心だったようです。いわば、片道切符の特攻隊でした。逃走しようとして逃げた者は後ろから銃撃されたようです。厄介払い…でしたね。上野で死んだ官軍34人のうち、その大半が彼らではなかったでしょうか。それとも…戦死者の数に入らなかったかもしれません。

さらに、余談を続けますが、映画やテレビで、官軍は赤、白、黒などの毛のついた兜(帽子?)をかぶっています。ヤクの毛ですが、黒が薩摩、白が長州、土佐が赤です。これは、江戸城を占領したとき、唐牛の兜が大量に保管されているのを見つけ、薩長土それぞれの目印にしたものです。ですから、それ以前にこれを纏っている映画やドラマはインチキですね。もっぱら東北征伐にのみ使われました。

91、この日、会津藩の戦死者は300人にも及び、城は官軍の手に落ちた。奥羽連合の大惨敗であった。
東北の玄関口である白河口を突破された衝撃は大きい。白河城下から勢至堂峠を経れば会津は目と鼻の先である。

惨敗です。白河口の戦いでは奥羽列藩3000人のうち700人が戦死しています。

ここを攻めた官軍の兵力は、半分の1600人ですから、武器の差は歴然としていました。官軍の戦死者はわずか26人です。戦争というより屠殺場ですね。この時の会津藩兵と同じことを、百年もしないうちに「玉砕」と称してやってしまったのが帝国陸軍です。

この戦いでの様子を、官軍が歌にしたのが残っています。

「会津イノシシ、米沢タヌキ、仙台ウサギで踊りだす」

というものですが、各藩の戦い方が如実に表れています。

会津藩兵は猪突猛進、米沢藩兵は藪に逃げ込む、仙台藩兵はまっしぐらに逃げる…。

ドンゴリ(ドンと鳴ったら五里逃げる)とからかわれたのは仙台伊達藩だったようです。

しかし、会津藩の戦いぶりは褒められません。これが美談となって「潔さ」「勇敢さ」などと美化された結果が「玉砕」につながり、沖縄での本土決戦になってしまいました。

ドラマの中で西郷頼母は不戦論者として描かれていますが、この白河口の戦いの会津藩総司令官は西郷頼母でした。

92、長岡藩は奥羽列藩同盟に正式に参加し、新発田藩など他の越後5藩もこれに続いて同盟に加わった。5月6日、31藩からなる奥羽越列藩同盟が成立。それは、会津救済嘆願の連携ではなく、軍事同盟に変わっていた。

戊辰戦争にあたって、長岡藩は中立の立場を取ろうとしました。新政府に恭順し、どちらにも味方しない、兵を出さないということで、勝海舟と同じく第3の立場です。ところが、この当時日本には「中立」という概念はありません。日和見、勝ち馬に乗るという、卑怯な態度ととられ、賊軍のレッテルを貼られます(小千谷会談)。

「ならば、やむなし」と官軍に立ち向かったのが河合継之助です。彼の活躍ぶりは司馬遼太郎の「峠」に詳しいですね。当時日本には数台しかなかったガットリング砲(手回し機関銃)を駆使して、官軍に大損害を与えています。

ドラマには出てきませんが、戊辰戦争で官軍が最大の損害を出したのが、この長岡戦争です。長岡藩1000人に、列藩同盟の援軍が加わって6千人。対する官軍は2万8千人。4回の激戦をやっています。最初は山上の陣地の取り合いで、これは長岡藩の勝ち。次に城攻めで、これは官軍の勝ち。それを夜襲で奪い返したのが3回戦。この時、官軍の総帥・山県有朋は素っ裸で逃げだし、副将の西園寺公望は馬に逆さに乗って逃げたという笑い話があります。この戦、奥羽越列藩同盟に参加した越後の藩は、長岡(牧野)、三根山(牧野)新発田(溝口)、三日市(柳沢)、黒川(柳沢)、村上(内藤)でした。両軍合わせて2千人以上が戦死しています。うち、長岡藩兵は250人です。

この当時、新潟は漁業だけの寒村でしたが、新政府は賊軍の長岡を県庁所在地にしないために、新潟に県庁を置き、県名も新潟県にしています。まぁ、嫌がらせですね(笑)