水の如く 23 三木城始末

文聞亭笑一

官兵衛は有馬の湯で1か月ばかり静養しますが、痛んだ身体を元に復すほどのゆとりはありませんでした。荒木村重の反乱で信長の目は伊丹城に向いていましたが、その課題が解決した今、次なる矛先は播磨と本願寺に向けられます。秀吉がのんびりと三木城が自滅するのを待っている時間はありません。秀吉にとっては眼前の敵よりも信長の叱責の方が恐ろしいのです。

一方の三木の別所勢にとっても、伊丹の落城と村重の逃亡は反攻へのかすかな期待を消し去ってしまいました。籠城という作戦は、いずれ来る援軍への期待と、攻め手側が何がしかの理由で撤退することを期待して選ばれます。信長が現れるまでは、攻め手は農繁期になると帰国します。食料が足らなくなっても撤退します。小田原の北条が、信玄にも、謙信にも落とせなかったのはこの理由です。が、信長軍は兵農分離をした「農民でない兵士」が中心ですから、農繁期も居続けます。食料補給は全く心配ありません。

援軍ですが、宇喜多の裏切りと大阪湾の制海権を失って、毛利が救援のために遠征してくる可能性は殆どなくなりました。

89、信長の他人に対する倫理的要求者の峻烈さは、彼の元々の性格ともいえるが、意図的な気持ちもあったであろう。自分こそ新しい時代の作り手であると思い込んでいる気持ちの中に、当然、新時代の倫理の樹立者という意識があったはずである。
彼の倫理観を一言でいえば、心映えと行動において「汚し」を嫌うということだろう。

どの作家も、歴史家も、信長の持つ徹底した合理主義を「それまでの日本になかったもの」と表現します。そしてその出所を、海外からの新たな情報、つまり、宣教師から得た欧米知識であろうと推察します。

それも半分は当たっていると思いますが、海外の物マネばかりではなく、日本人の心の伝統のようなものが彼の心に根強く残り、収斂(しゅうれん)された形で極端に出たのではないでしょうか。「汚い」「卑怯」を嫌う心は平安末期に武士が現れてからの伝統の一つです。「恥を知れ」という武士道の精神は鎌倉武士に始まり、戦国の戦の中で磨かれてきたと思われます。

専制君主を狙う信長にとって、武士を束ねていくには倫理観を確立する必要があります。信長の考える倫理観は「汚い者は殺す」という徹底した潔癖感ではなかったか…というのが司馬遼の説ですが、その伝統的感覚は現代にも残りますね。恥の文化とか、出処進退の美しさとか…、いたるところに出てきます。

比叡山も、本願寺も「口先一つで民衆を誑(たぶら)かす汚い奴」となれば、皆殺しの大量虐殺にも心の痛みはなかったのでしょう。黴菌(ばいきん)を退治する感覚で、この世から消し去ろうとします。荒木村重一族に対する虐殺も、その一環と考えれば理解できますが、そのやり方に至っては狂気の沙汰だと思いますねぇ。ひどすぎます。

90、官兵衛の心を暗くしているのは、政略や戦略の事ではなく、小寺藤兵衛についての世間への聞こえということだった。
官兵衛は人間というものは行動を美しくしなければどうしようもない、と人一倍考えている男で、このことが、官兵衛という男の重大な一特徴といってもよい。

今回、小寺の殿様役は片岡鶴太郎が演じますが…なかなかの名演技です。気位だけ高くて優柔不断な男、政治も戦争も部下任せで「良きに計らえ」を連発した男。二代目、三代目の経営者にもあるタイプです。平和な時代なら「部下を信頼し、すべてを任せ切った名君」と賞讃されるかもしれませんが、激動期にあっては暗愚な殿様の代名詞にされます。

今回は播磨が舞台ですが、信濃の国主だった小笠原長時も似たような殿様だったようで、武田軍の強さに驚いて一目散に逃げ出しました。まぁ、小笠原家は子孫が優秀だったようで、いち早く徳川に擦り寄り、江戸幕府の重鎮になって小笠原流礼法の家を復活しましたが、小寺家の場合はそうはいきませんでした。

藤兵衛・政職は鞆の浦の将軍・義昭の元に逃げますが、義昭にも毛利にも邪険にされ、ついには官兵衛の元を頼ってきて泣きつきます。自分が殺そうとした部下に「助けてくれ」というのですから…なんとも厚かましい(笑) 殿様らしい世間知らずです。

官兵衛は藤兵衛の命乞いをしたり、若君を客分として黒田家で庇護したりと、終生面倒を見ます。それが、官兵衛の考える「美しさ」だったのでしょう。

91、三木城の攻防戦は、あくまでも補給が要(かなめ)になっている。補給が絶えれば、戦いはそれで終末を迎える。
三木城外の大村での合戦は、この攻防戦での最後の大規模な戦闘だった。

秀吉は大工事をして包囲網を完成させ、じわじわと包囲網を狭めていたのですが、補給路の監視と言う点では美嚢川の川筋と、播磨灘からの補給路に警戒の重点を置いていました。そのために手薄になっていたのが、摂津からの山越えルートです。現在の神戸市の山側は、山一つ越えれば美嚢川の上流・別所氏の支城に接しています。このルートから、夜陰に紛れて兵糧米が細々と送り込まれていました。身内が籠城している百姓や、本願寺系の僧侶が米俵を担いで山道を越えます。量は多くありませんが、それでも貴重な食料です。事実、三木城では後の鳥取城とは違って一人の餓死者も出ていません。

これを発見したのが羽柴小一郎の部隊で、ルートも、支城も一気に落としてしまいます。これで完全に補給が絶たれました。大村の合戦は、別所・毛利が最後の賭けに出た決戦ですが、「飢え死により討ち死に」という将兵が多かったらしく、戦というよりは自殺という感じの戦になりました。

太平洋戦争の末期、南方の島々で万歳玉砕という痛ましい「自殺行為」が頻発しましたが、恥を知る文化、汚さを嫌う文化、美しい最後・・・といった日本文化のマイナス面が出てしまいました。どんな環境にあっても生き残る努力をしたいですね。

とはいえ、殺人をしておきながら「していない」とシラを切り、物証を突き付けられると「精神異常だ」と罪を免れようとするような弁護技術(?)の横行には納得いきません。欧米ではディベートという屁理屈技術が流行していますが、外国との交渉事では仕方ないとして、日本国内では流行させてほしくないですねぇ。

大村合戦の後、秀吉は「頃は良し」と見定めて、別所方の支城を順に攻撃していきます。抵抗できる体力が残っていないとみて、本丸まで包囲網を狭め、降伏を勧告します。

92、三木落城に際し、秀吉は別所長治に対して酒肴を送るという大芝居を打った。
<天下に喧伝されるはずだ>という計算が、秀吉の胸中に出来上がったに相違ない。秀吉という男の感覚には、絶えず世間の人心という、海のように巨大で、空のように変わりやすい化物のようなものをとらえていた。秀吉は諸事において信長の模倣者であったが、この点ばかりは、彼にしかない天賦(てんぷ)の才であろう。

降伏交渉は別所長治の叔父で、早くから織田方に付いていた別所棟重が担当します。城方にはかつての部下が沢山いますから、連絡がつきやすかったのは良いのですが、棟重の兄・別所賀相が降伏に猛反対します。大嫌いな弟の軍門に屈するくらいなら、城を枕に討ち死にだと玉砕を主張します。兄弟仲の悪さが、最後の最後まで別所長治の判断を狂わせます。以前にも述べましたが、別所家と毛利家は全くよく似た政治体制でした。早逝した父親の後を継いで、若年の長治が城主になります。それを、二人の叔父が支えるという構図ですが、毛利のような三本の矢にはなりませんでした。叔父同士の仲が悪すぎたのです。

責任者三人が切腹する。代わりに城中の者はお構いなしとする。

これが降伏の条件です。長治は叔父・賀相の反対を押し切って、降伏に同意しました。最後の最後に自己主張しましたが、遅きに失しましたね。

一方、責任者三人のうちの一人、別所賀相は逃げ出そうとします。そうなると条約違反で、せっかく生き残れることになった城兵たちは、また死地に引き戻されます。地獄から娑婆に戻れたと思ったのに…。この思いは城兵を賀相の捕縛(ほばく)に駆り立てます。馬に乗って逃げようとしたのを引きずり降ろし、短刀を腹に突き刺し、首を討って切腹したことにしてしまいます。何とも浅ましい限りですが…、城兵を非難できませんよね。

余談になりますが、秀吉が出てくると決まってその帷幕(いばく)の中に蜂須賀小六が出てきます。野盗の親玉、野武士という印象からでしょうか、プロレスラーが配役されて視聴者には粗野な印象を与えますが、蜂須賀小六はヤクザの親分ではありません。木曽川や長良川の川筋物流を支配した商人、兼、関所役人という出身で教養もあります。後に阿波一国の国主になり、徳島の名物・阿波踊りでは「偉いやっちゃ、えらやっちゃ」とその善政を讃えられたほどです。同じ出身で前野庄右衛門がいます。彼も野武士上がりとなっていますが、その才能を買われて落城後の三木城を任されています。野蛮な野盗の親分ではありません。