乱に咲く花 27 京の暑い夏

文聞亭笑一

今回はまさに泥縄で原稿を書いています。昨日までの三日間、花好きの妻に付き合って北海道にラベンダーなどの花見旅をしてきました。この原稿を書かねば…と、気にはなったのですが、旅先にまで資料を持ち込んでやるほどマジメではありません。かといって、「今週はパス」というほど不真面目にもなれませんので、PCに向かっております(笑)

昔読んだ本で、現役時代に座右に置いた物にロボット博士・森正弘の「非マジメのススメ」があります。マジメと不マジメという正悪の価値観だけで物事を判断すべきではない、これをX軸とするならば、もう一本直角に交わるY軸を引いて常識と非常識の軸にするという2次元発想の話です。常識を破るところから科学の芽が生える…というわけで、大いに賛同し、4象限マトリックスで物を見てきました。

しかし、最近ではこの程度では評価できないほど価値観が多様化してきていますね。Z軸も必要でしょうし、時系列を加えて4次元、5次元くらいまで発想を柔軟にしないと世の中の変化に対応できないようです。

今回の物語の準主役、吉田松陰、久坂玄瑞の二人は「思想家」ですから、X軸の単軸の人であったように思えます。「正か、邪か」「信じるか、信じないか」という観点ですから、「正しいと信じて狂う」ことになります。

「集団的自衛権を認めれば戦争をする国になる」「憲法は不磨の大典であり、改正してはならない」と信じ、声高に叫んでいる人たちがいます。この人たちも、松陰的、久坂的ですねぇ。

国際情勢、外交とはそんなに単純なものではないでしょう。自衛権は認められていても、安倍政権は小笠原の海に出没した珊瑚泥棒の大船団に対して、自衛権の発動(自衛隊艦船による排除活動)は一切しませんでした。地震、津波、山崩れ・・・大災害が起きても、地方首長の要請なしに自衛隊が出動することはありません。自衛力発動の可否は、時々の政治判断です。

長州人の思想性にとって重要なこの20日間は、それを防衛する幕府側にとっては極めて都合がよかった。この期間に十二分に防衛体制を布くことができた。鉄壁の構えとも言うべきものであった。

幕府の構えがどうであったか。「京は守りにくい地形」と言われるのが通説ですが、それは彼我の勢力が拮抗している場合のことです。

「長州軍迫る」の報に接して慶喜は近隣諸藩に大動員令をかけます。これに応じて、近畿圏に所領を持つ大名は、しぶしぶながらも兵を上京させます。20日間もありましたからね。

その布陣がどうだったか。

伏見方面・・・指揮権を持ったのは会津、桑名の二藩で九条河原に本陣を構えます。

稲荷山には大垣藩、桃山に彦根藩が先鋒として布陣します。

遊軍として丸岡藩と小倉藩、越前鯖江藩、丹波園部藩が豊後橋を守り、新選組も控えます。

山﨑方面・・・丹後宮津藩と大和郡山藩が先鋒で、伊勢の津藩が後衛として構えます。

更に、若狭小浜藩が遊軍として天王山と嵯峨との連絡を絶ちます。

嵯峨天龍寺の長州勢に対しては…左右に展開して、長州藩の突撃に備えます。

右先鋒が薩摩藩、そして近江膳所藩が控えます。

左先鋒は小田原藩、後ろに越前福井藩、伊予松山藩が控えます。

さらに、市内での戦闘に備えて加賀藩、丹波篠山藩が遊軍です。

その他の要衝にも兵が満ち溢れます。

老の坂には丹波亀山藩、上賀茂に因州鳥取藩、鷹峯に備前岡山藩、下賀茂に但馬出石藩。

河原町の長州屋敷は尾張藩と加賀藩が包囲します。

長州と友好関係にある対馬藩を警戒して、筑前黒田藩が包囲します。

更に御所の守りです。

蛤御門には会津藩と津藩、乾御門に薩摩藩、中立売御門に筑前黒田藩、清和院御門に加賀藩、下立売御門に仙台藩、堺町御門に越前福井藩、寺町御門には肥後熊本藩、石薬師御門は阿波徳島藩、今出川御門は久留米藩・・・そして、内陣は尾張、紀州、会津、桑名の親藩で固めます。

顔ぶれだけ見れば…攻める方も腰が引けます。鉄壁の構え…全くその通りです。

兵隊の頭数だけ比べれば、長州藩の10倍以上の人数が待ち構えていますから、「飛んで火に入る夏の虫」に違いありません。

…事実、そうなりました。ただ、長州兵が御所の門まで進軍し、さらに、木島又兵衛の一隊が蛤御門を破って御所に侵入できたのは、幕府軍のやる気のなさ、指揮命令系統が機能しなかったからでしょう。寄せ集めの烏合の衆であったことは間違いありませんし、戦意は殆どなかったでしょうね。「どうか…俺の方には来ないでくれ」というのがホンネだったと思います。

人間は時に集団としての発狂を欲する動物かもしれないが、それにしても、その発狂のための興奮剤は思想でなければならない。思想と言うものにこれほどまでの大興奮を示したのは、日本史上今日に至るまで、幕末の長州人集団しか存在しない。それが松陰の影響によるものか、それとも長州人特有の精神体質なのか、おそらくその二つと、政治的大緊張とがきわめて強力に配合されての現象に相違ない。

人間は時に集団としての発狂を欲する動物かもしれないというのは、なんとなく頷けます。

オリンピックをはじめ、ワールドカップなどスポーツの試合は集団的興奮を呼びます。時には、乱闘騒ぎを引き起こすほどに興奮しますね。その意味で、スポーツは人間社会に平和をもたらす安全弁でもあります。オリンピックのメインスタジアムの建設費が3000億円かかるとかで揉めていますが、防衛予算に比べてみれば「チイセェ、チイセェ」という数字でもあります。それ自体の収支計算だけではなく、国民鎮静剤として考えてみるのも一つの観方かもしれません。

いずれにせよ・・・、嵯峨天龍寺に陣取っていた木島又兵衛を中心とする長州軍800人は、幕府軍の重厚な包囲網をすり抜けて蛤御門に達します。その間に戦闘らしいものはありませんから、小田原藩以下の部隊のやる気のなさは明々白々です。

蛤御門での戦いは壮絶を極めます。そうなったのは守備兵が、やる気満々の会津藩であったからでしょう。長州兵も「薩賊会奸」の旗を掲げるほどに憎んでいる相手ですから戦意が燃え立ちます。憎しみと憎しみがぶつかって、凄惨な戦闘が繰り広げられます。津藩、一ツ橋の軍は早々に逃げ出しますから、会津藩だけでは支えきれません。御所への乱入を許します。

そこに駆けつけたのが、西郷隆盛が率いる薩摩藩で、木島隊の後ろから攻め掛かります。会津と薩摩、この両者に挟み撃ちになり、木島も戦死して総崩れになり長州は敗走します。

この戦いを「禁門の変」と呼んだり、「蛤御門の変」と呼んだりしますが、どちらの呼び方をとるかは自由だと思います。私などは蛤御門の近くに会社の研修施設があり蛤御門から御所の中庭に散歩やジョギングに出入りすることが多かったので「蛤御門」の方に愛着があります。

ちなみにこの戦闘での死者は長州265人、迎え撃った幕府側では 会津60人、薩摩8人、越前15人、彦根9人、桑名3人、淀2人の合計97人でした。久坂玄瑞、入江九一など松下村塾出身者の多数が命を落としました。更に、この戦いで焼失した建物は民家2万8千戸、寺社が253、武家屋敷51です。京都人は、過去の火事のことで応仁の乱を引き合いに出しますが、幕末の火事もそれに匹敵するほどの大火災で中心部は殆どが焼けています。明治新政府が、東京遷都を決めたのは、焼け野原となった京都では政府として機能しなかったからだと思います。

戦いの翌日、幕府は長州征伐を奏請し、朝廷の許可を得ます。ところが、その総大将が決まりません。慶喜自身が固辞し、松平春嶽が逃げ、紀州の殿様も固辞し、とどのつまりは会津藩主・松平容保の兄・尾張藩主・徳川慶勝になります。

ただ、征長軍参謀は西郷隆盛と決まっていました。作戦を練るに当たり、西郷は神戸操練所の勝海舟に意見を聞きに行きます。ここで、坂本龍馬を含めた幕末を動かす3巨頭が出会います。

(半藤一利 維新史)

こういう出会いが歴史を動かす…と物語は伝えますが、劇的に過ぎますねぇ(笑)

ともかく、この時に勝が西郷に伝えた言葉が、その後の明治維新を方向付けます。薩摩の政治の方向を、薩長連合へ、討幕へと導きます。

勝が西郷に伝えたことは、要約すれば3点で、それを実現すべく走り回ったのが坂本龍馬ということになります。佐久間象山が発案し、勝海舟が洋行の中で熟成し、坂本龍馬が誰にでも分かる形にまとめ上げたものが船中八策であり、五か条の御誓文になっていきます。

まず、幕府ではダメだと言いきります。古い機構は壊すしかない、人材はいないと手厳しい。

次に、神戸の開港問題は横浜、長崎の貿易量増加、規制緩和で対応すべしとアドバイスします。

外交では、逃げてはいけない、「対案を示すべし」と諭します。

3つ目は、共和制による政治を提唱します。万事公論に決すべし・・・ということです。

これが勝の持論で、坂本龍馬に引き継がれます。そして西郷隆盛が大いに感化されます。

今回のドラマは長州が舞台で、しかも松陰の妹の目で見ていますから、こういう政治的大転換の場面は割愛されますが、歴史の屈折点は何処にあるかわかりません。

現代の政治では「安保」「憲法」に関して似た場面がありそうな予感もあります。安倍晋三と、橋下徹・・・どちらが西郷で、どちらが勝かわかりませんが…神学論争をしたり、言葉尻を捕まえてワイワイガヤガヤやっている民主党執行部ではなく、連合の輪ができそうな気もします。

これは…「そうあってほしい」という私の期待ですねぇ(笑)