万札の顔 第25回 水を得た魚

文聞亭笑一

江戸時代の社会の特徴は政治的には武士の世です。士農工商の身分制度が厳然と施行され、武士階級が政治を回していたのですが、経済なしに人の世は回りません。

そして、経済を操るのは最下層の商人たちです。武士が農民から租税・年貢として米穀を中心とした産物を絞りあげ、それを換金して政治を運用します。この換金という過程で商人が介在します。

物品の需給バランス、相場・・・こういったことに疎い武士たちは商人たちに手玉に取られ、税収をロスしていました。幕末には殆どの藩が赤字経営で、不足分は「藩札」という赤字債券で賄っています。

石高拝領金

明治新政府は戊辰戦争によって幕府を倒し、政権を奪取しましたが、政権を運用していくための資金は幕府にはほとんど残っていません。

なにせ、勘定奉行の小栗上野介は、北海道を担保にナポレオン3世から巨額の借款を受けようと交渉を進めていたほどです。

仕方がないので新政府は5千万両に上る紙幣を印刷し、これを新政府の運転資金にしようと考えたのですが、市場では全く信用がありません。

政府の紙幣を使って買物をしたくても、売ってくれる人がいませんから流通しないのです。

困った政府は、この紙幣を各藩の石高に応じて「貸付」という名目で、13年償還、年3分の利息という条件で、無理やり藩に押し付けてきました。

「旧幕府時代の藩札をなくし、新政府の紙幣に統一する」というのが建前です。

駿府・徳川藩への分担は50万両です。

財政が破綻しそうであったり、破たん寸前だったりの藩はこれを藩士の俸給などに使いますが、もらった方は空手形同然の紙切れで、無理に使おうとすれば額面の「半値8掛け2割引」程に、叩かれます。

駿府徳川藩はこの拝領金で赤字の穴埋めをしていましたから、数年で資金が枯渇し倒産してしまいます。 栄一の提案「商法会所」は、この「石高拝領金」を資本にして商売をしようというものです。 藩からの資本金は27万両 その中には栄一がフランスで貯めた2万両も入っています そして藩の御用商人や、個人投資などが加わって30万両近くなりました。 栄一は政府紙幣の大半を東京の三井に持ち込み、正金に替えます。三井の大番頭・三野村利左エ門と直談判の末、額面の8割で交換しました。流通しない札など手元にあっても商売の役に立たないからです。一方、財閥の三井は、国家取引や諸外国との決済に新政府札が使えますから、額面通りの値打ちで通用させることができます。8割というレートは「徳川さまへの恩返し」という思惑があったかもしれません。

横浜散策

栄一の商売の手法は、一橋時代同様に藩内の物資をすべて一元管理し、問屋、仲買といった旧来の仲介業者を排除し、更には相場、投機といったことは商人にやらせるのではなく、自分たちがやろうという意気込みですから商社的です。

しかも藩の肝いりですから、地元商社はこの会に参加せざるを得ませんし、藩外の商人たちは駿府藩から締め出される形になります。

とりわけ、三井や鴻池といった江戸、大阪の大手の跋扈を牽制します。

商法会所が軌道に乗り、人材が育つまでの間は、栄一自身が茶畑の開発、養蚕の指導、営業から仕入れ、財務から人事まですべてやるしかありません。

繭の売り込み、肥料の仕入れ、などのため、当時の流通の中心地である横浜を訪れます。

「この街を焼かずによかった」栄一は思わず苦笑いです。

この当時の横浜は「ひと山当ててやろう」という者たちの活気で溢れています。皆々が手探りで勝機を窺っています。国際見本市・・・そんな雰囲気でもありました。

親子水入らず

静岡永住を決意した栄一は、妻子を呼び寄せます。

静岡商法会所は旧奉行所の跡地です。表は事務所ですが、奥は栄一たちの居住区になります。泉水の中庭まである広大な屋敷に千代や歌の喜ぶ顔・・・栄一の長年の想いが実現しました。

が、「好事魔多し」の格言通り、新政府から思いもかけぬ召喚状が届きます。

「渋沢栄一、新政府に出仕せよ」

思わぬ転勤命令(?)にうろたえた経験は、読者の皆さんも一度や二度ではないでしょう。

「なぜだ――!」などと絶叫したこともあるかもしれません。

栄一にとって、まさに青天の霹靂、必死に断るための工作にかかります。

が・・・中老・大久保一翁の一言「お前が断れば前様(慶喜)がお困りになる」で、東京に向かうことにします。

東京での問答はただ一つ「断固としてお断り申しあげる」

…で、この先どこまで話が進むのか見当がつきません。あまり先走るのも良くないので今週はここまでにします。

維新余話・佐久の五稜郭

今回の物語では信州の佐久地方が話題に出ます。比較的知名度の低い地方ですが、佐久の語源は「柵」とも言われます。

奈良朝の頃のヤマト国家の支配権はこの辺りまでで、蝦夷の侵入を防ぐために碓井峠や内山峠に柵を立て回した・・・という言い伝えがあります。

蝦夷・・・柵、峠の先は毛野族が勢力を持つ上野、下野・・・野州です、蝦夷の本拠地です。

日本武尊も、坂上田村麻呂も、源義家も・・・この辺りを平定しながら奥地・奥州へと進攻します。

さて、五稜郭・・・五稜郭と言えば函館・・・と、日本に一つしかない幕末の遺跡と思っている人が大半でしょうが、もう一つが佐久にあります。これを知る人は「通」ですね。

佐久・龍岡城・五稜郭・・・田野口藩1万6千石の城です。城主は松平乗糢です。

小藩ですが徳川一門ということもあって、かつ、幕末の人材不足から老中、陸軍総裁へと累進します。彼が陸軍総裁時分に手掛けたのが函館の五稜郭です。

その機能性にすっかり惚れこみ、「ならば我が居城も・・・」と設計者のフランス人築城家ボーバンを招き、建設しました。函館に比べて規模はかなり小さいですが、「なるほど、これならどこから攻めてくる敵でも狙い撃てる」と納得します。

四角だと死角ができますが、五角だと死角がなくなります。

函館五稜郭は最後の最後まで官軍に抵抗しましたが、田野口藩は早々に松平を捨て、出身地の大給を名乗って官軍に参加します。城跡には田口小学校・保育園が建ちます。