どうなる家康 第20回 遺言の読み違え

作 文聞亭笑一

今回の大河ドラマは夫婦関係について一夫一婦制を前提にした現代風に描いていますが、当時は現代ほどの縛りはありません。

先週放送の「お手つき事件」は不倫とか、浮気とか、そういう次元の話ではなく、正妻の権威を認めるか否かの話ですね。

家康はお万の方より前に西郡の局という側室があり、これは築山殿も認めています。

正妻に断りもなしに側室を持つ・・・正妻の権威を踏みにじる・・・事に激怒しました。

この話も、江戸期になってから色々な創作、装飾が加えられています。

結城秀康誕生の内情をよく知らない大久保彦左衛門の「三河物語」とか、松平家次の「徳川記」などがネタ本ですから実際のところは闇の中です。

だからこそ・・・山岡荘八や司馬遼太郎、そして今回の脚本などの活躍する余地が残されています。

山岡荘八本ではお万の面倒を本多作左が見ていますが、本多作左は岡崎の責任者の一人です。

浜松城下でお万をかくまうには疑問が残ります。

ともかくお万と、後の結城秀康を匿い、育て上げたのは浜松の郷氏・中村家でした。

大賀弥四郎事件

通説では大賀弥四郎が武田勝頼にそそのかされて企んだ反逆事件と言うことになっています。

さらに、大賀と築山殿との間に男女の関係があったとか、無かったとか、面白おかしく脚色されて歴史物語になります。

とりわけ江戸期の戯作本は築山殿を性悪女として描いくために「これでもか」と言うほどの脚色をしています。

また、現代の歴史作家もその印象を踏襲します。

実際の築山殿・瀬名は・・・今回描くような性格だったようですね。ヒステリーではない?

三河クーデター事件の張本人は大賀弥四郎となっていますが、大賀という姓は・・・後に改名されてできた苗字です。

本当は大岡弥四郎です。

江戸期に入ってから儒学が倫理規範として持ち込まれました。

忠義という道徳律が前面に出てきます。

徳川家累代の忠臣である大岡家が、かつて謀反人を出したのを恥じてか、それとも隠蔽、粉飾するために「弥四郎は大岡の一門では無い」と、「大賀」という姓をこしらえてしまいました。

大岡家と言えば、有名なのは暴れん坊将軍・吉宗の頃の江戸南町奉行・大岡越前守ですよね。

昭和・平成まで、テレビでは勧善懲悪のスターとして何度も帯番組に登場しました。

その御先祖にクーデターを企画した極悪人がいては・・・・・・うまくない。庶民の誤解を招きかねません。

大岡弥四郎とは・・・どういう人物でしょうか。

家康は岡崎を信康に任せるために、自身が最も信頼できる民政官を岡崎に残しました。

有名な「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三平」という岡崎三奉行です。

そして軍司令官には石川数正、信康の守り役・ご意見番は平岩親吉です。

それに・・・瀬名が付いています。

三奉行の配下の能吏として、岡崎の町奉行をしていたのが大岡弥四郎です。

町衆の人気もあり、岡崎の奥女中達からも信頼されていて、あれこれと便宜を図ったりもしていました。

奥への出入りもしていましたから、そういうところから築山殿の愛人説などが捏造されますね。

弥四郎は町奉行としての実績が認められて、渥美郡の代官に出世します。

が、この栄転人事を「飛ばされた・左遷」と思った可能性もあります。

弥四郎にとっては中央志向が強く、信康の旗本か参謀、さらには家康の旗本でありたかったのではないでしょうか。

この感覚、現代にも通じます。

地方の支店長、工場長になるのと、本社企画室で社長の近くにいるのと、どちらに魅力を感じるかという話です。

出世とか、栄転とか、左遷とか・・・、廊下鳶は勝手な価値観で騒ぎ立てますが、自分のやりたい仕事、なりたい姿は人それぞれに違います。

出世街道をワンパターンに規格化し、レールに乗るように指導したのが昭和の時代であり、「勝手にせい!」と解放しているのが令和でしょうか?

昭和世代には転社など思いも寄りませんでしたし、企業人のアルバイトなどは厳禁で、見つかれば懲戒処分ものでした。

価値観や、やり甲斐は人それぞれですが、大賀弥四郎は本社志向が強いタイプだったようです。

岡崎支社という、徳川家の傍流勤務であることすら不満でもありました。

そこへ勝頼からの誘いの手が伸びます。

「あんたが主役!」と・・・

どういう手に誘われたのか・・・古沢脚本を楽しみましょう。

反乱は事前に漏れて頓挫しています。

勝頼の高天神城攻略

駿河と遠江の国境は大井川です。

東海道でも「越すに、越されぬ」などと唱われたりもしました通りの大河で、天竜川、木曽川と並んで大河、難所の一つです。

駿河から大井川を越えて遠江を攻略しようとすれば、まずは高天神城を手に入れなくてはなりません。

高天神は掛川の南(海寄り)にある難攻不落と言われた遠江防衛のための要塞で、信玄も何度か攻撃しましたが落城しませんでした。

この要衝を「疾きこと風の如く」攻略してしまったのが武田勝頼です。

岡崎でクーデター事件を誘発させて後方を攪乱し、正面からは難攻不落の城を落城させる・・・軍神のような、信玄をもしのぐような勝頼の攻撃でしたが・・・この勢いが続きません。

軍事的には勝った、勝った、また勝った・・・と優勢でしたが、外交面では失敗が続き、北の上杉、東の北条とも事を構えることになっていきます。

更に、軍事費の増大で内政面では増税が続きます。

農村から駆り出した兵士の消耗も増えて、農作業にも支障を来すようになってきていました。

勝頼の積極策には領民達の怨嗟の念が沈殿し始め、協力姿勢が萎んでいきます。

更に、頼みの甲州金が底を突いてきました。

鉱脈を掘り尽くしたのと、金堀の鉱夫たちを攻城作戦のトンネル掘りに転用して消耗してしまい、新たな鉱脈の探索や、製錬の技術向上ができなくなったのが理由です。

勝頼は、軍人としては父・信玄を越える実力があったようです。

後に徳川幕府の軍事教科書にもなる甲陽軍監の編纂にも関与していますし、甲陽軍監の編纂者であり、川中島・松代の城主であった高坂弾正などは、勝頼の能力を高く評価しています。

勝頼の最大の失敗は父・信玄の遺言を理解しそこなった事でしょう。

三年裳を伏せ・・・とは、葬式のことではありません。

3年間は領外への侵略活動を停止し、内政を整え、民力を蓄えよ。

上杉、北条との関係を修復し、「親足利将軍」「信長包囲網」で結束するよう外交に力を入れよ。

このことを理解していた山県、馬場などと言った重臣達と、意見の対立を生み、武田軍団内部の結束すら危うくなっていきます。

クーデター事件で徳川を揺さぶりましたが、武田内部も揺れ始めていました。