紫が光る 第23回 越前名物

作 文聞亭笑一

まひろは敦賀を経由して越前国府に入ります。旧・武生市、現・越前市です。

現在の福井県と混同しそうですが、福井県は旧若狭国を含みますので福井県の北側、敦賀より先が越前です。

越前は大国でしっかりした行政機構がありますが、小国の若狭には外国と交渉できる窓口機構がありません。

それもあって、宋人達は敦賀湊に移されました。

為時と宋人達が頻繁に行き来しているような雰囲気でドラマが進んでいますが、敦賀と越前国府との間には難所の木ノ芽峠があります。

そう簡単に行き来できる位置関係ではありません。

とりわけ冬場は難所です。

越前市には越前国府を再現して紫式部公園として復元されています。

ついでに紫式部の像が立ちますが・・・

これは「やり過ぎ」の感がありますね。

式部・まひろは越前に一年間しか滞在していません。

しかも・・・雪深い越前を嫌っていたらしく「京へ」の想いが募っていたようなのです。

京に戻りたい気持ちが、宣孝との結婚へと背を押したのではないか・・・とする説もあります。

越前和紙

越前でまひろが最も感激したのは「紙」でした。

現代にもその伝統が残る越前和紙です。

以前にも書きましたが、当時の紙は貴重品です。

高価です。

使い捨てしている現代人の感覚とは違います。

その紙が手に入りやすい環境・・・これには刺激を受けたでしょうね。

創作意欲を大いに刺激した可能性があります。

ただ、「源氏物語」を越前で書き始めたというには無理がありそうです。

越前和紙のルーツは西暦500年頃に伝わったと言われます。

大陸、朝鮮半島から直接伝わったか、それとも九州や出雲を経由したのか、定かなことはわかりません。

伝承に依れば川上御前と言われる女神が現れ、紙漉きの手助けをしたのだとか・・・

その伝承を伝えるのが岡太神社、大滝神社です。

写真は江戸時代に再建された大滝神社の社殿です。

唐破風、千鳥破風などを組み合わせた複雑な造りですね。

敦賀を経由した外国文化の流入口の一つでしたし、現天皇家のルーツとなる継体天皇は敦賀の生まれだという説もあります。

古代から北九州、出雲、丹後などと並んで中国、朝鮮との交流が盛んであった土地柄です。

日本にとって最も重要な輸入品 ズク(銑鉄)の流入口です。

金属製品の加工も盛んに行われていたでしょう。

銑鉄を鍛えて農機具や刃物に加工する、そういった工業地帯であった可能性が高く、その伝統が越前刃物の伝統として残ります。

白山神社

越前を代表する山は霊峰・白山です。

古代に日本三名山と称えられ、霊峰と言われた山は、まず富士山、ついで立山、白山と続きます。

富士山は別格として立山、白山は日本海から眺めたとき、その姿は将に「灯台」では無かったでしょうか。

古代の船舶は朝鮮半島から偏西風と対馬海流に乗って東へと向かいます。

朝鮮半島西部(百済など)からは九州、出雲へと島伝いのルートですが、新羅、高句麗などの東海岸からは丹後、敦賀などの方が早かったと思われます。

敦賀を目指すときの目標が白山・・・そんな風に思います。

古代文明にとって戦略物資はなんと言っても鉄です。

その鉄は日本では産出しませんから朝鮮半島・新羅で産出する鉄鉱石を銑鉄にし、火力の豊富な日本で鍛造します。

古代の朝鮮は製鉄のために山林が伐採され、禿げ山ばかりでした。

新羅の製鉄集団の中には豊富な山林資源を求めて一族ごと日本へと移住してきた者たちもいると言います。

その白山を本拠とするのが白山神社であり、白山信仰です。

ご神体として祀られているのが菊理(くくり)姫とも、白山媛とも言います。

そして、伊弉諾、伊弉冉の国生みの神が合祀されています。

伝承では「伊弉冉、伊弉諾の夫婦喧嘩を仲裁したのが白山媛である」などとも言われます。

夫婦和合のキューピットでしょうか。

思い切り発想を飛ばせば、縄文系原住民と弥生系渡来人の確執を仲裁した宗教人、政治家・・・そんなイメージも湧いてきます。

2000年前の日本は縄文文化の伝統をひく蝦夷と米作文化を持つ弥生人が習合を繰り返しつつ日本人へと進化していく過程です。

国生みの神、伊弉諾と伊弉冉は縄文系と弥生系を代表しているのかも知れません。

この白山神社は関東から東日本に多く存在します。

ズク(銑鉄)の道、鍛冶職人達の鎮守様、そして蝦夷と大和勢力の和合のシンボル・・・そんな意味合いで拡がっていった進行ではないでしょうか。

布教のやり方は諏訪社同様に「歩き巫女」達でした。