一領(いちりょう)具足(ぐそく)(第1号)

文聞亭笑一

土佐は太平洋に面して東西に長い海岸線を有する国です。しかも、背後に控える四国山脈は、主峰の石槌山をはじめとして2000m級の高山が連なっています。その地理的環境からして閉鎖的な社会にならざるを得ないのかもしれません。都からの情報も山を越えてやって来るには遠いですし、太平洋の荒波を越えてくるのも遠くなります。

平安時代の歌人である紀貫之は、任地の土佐国府から京の都に帰るのに55日間かかったと、土佐日記に克明に行程を記録しています。彼は海路を取って帰任したのですが、そのうち半分は風待ちで港に滞在でしたね。そのイライラを歌に託しています。

まことにて 名に聞くところ羽根ならば 飛ぶが如くに都へもがな

(羽根…室戸岬西岸の羽根村 羽根川河口に舟場という地名が見える)

文化の先進、後進は安易に断ずるべきではありませんが、仮に、中央の文化を先進文化と置いてみれば、その恩恵に浴するには長い時間がかかるというハンデがありました。

一方、中央の政変などについては、その影響を受けることが少なかったこともあって安定した生活習慣を維持できるという、利点もありました。風土と、そこに暮らす人々の生活リズムは相関し合っているものですから、のんびりとして、おおらかな土佐人気質といわれるものも、この土佐の風土に大きく由来するのであろうと思われます。

土佐人といえば「イゴッソウ」という言葉を思い出します。頑固者、一徹者という意味で、同類の肥後モッコスと並んで有名です。この国の人々は南国の太陽を受けて概ね陽性なのですが、文化的刺激が少なかったこともあって、観念が固定化しやすいのです。 「思いこんだら命がけ」こういう人が出やすい環境にありました。

竜馬の生い立ちを追うについては、土佐の置かれた地理と歴史をあらかじめ頭に置いておかなくてはなりません。

特に、歴史的影響はNHK「龍馬伝」の1回目のタイトルにもある「上士・下士」という身分制度に典型的に表れていますね。

上士とは関ヶ原の後に進駐してきた占領軍の「山内侍」の子孫の事です。下士とは関ヶ原以前の支配者であった「長宗我部侍」の事です。

戦国の終盤に土佐から立ち上がった長宗我部元親は四国全土を平定する勢いでした。その原動力が「一領具足」と呼ばれる屯田兵です。貧しい国土を開拓するのが任務ですが、戦争となれば即座に兵隊として従軍します。戦国時代の土佐には純粋な百姓や漁師は極わずかしか存在せず、国民皆兵に近い状態だったようです。しかも、その戦闘力は周りのどの国よりも優れていました。

これは、黒潮に乗って流れついた南方系の隼人族の特質で、薩摩隼人や紀伊半島の熊野族、伊豆や安房(千葉県)などの民とも共通するルーツですね。

これらの地方には桂とか、勝浦などという地名が共通してありますが、インドネシア語の「カッツーラ(村の中心)」という言葉からきたのではないかと言われています。土佐の桂浜もその一つではないかと想像します。

その土佐に乗り込んできた進駐軍の山内一豊は、最初の人事政策で大失敗をします。

掛川6万石から土佐24万石に一気に4倍増になったうれしさのあまり、土佐に入国する前に、藩政のスタッフをすべて近畿で揃えてしまいました。近畿には関ヶ原の浪人たちがあふれていたのです。

とくに近江の石田三成や長束正家、大和の増田長盛の家来たちですね。彼らを大量採用してしまいましたから、土佐の長宗我部浪人の採用枠は残っていませんでした。

したがって藩政に参加できる上士は、すべて異国者になります。

一方、遠隔地などで事務を扱う下級役人として土佐侍を採用しました。それが下士です。下士にもなれなかった長宗我部侍が、岩崎弥太郎のような地下(じげ)浪人です。

上士の中には、豊臣政権の奉行として事務方で活躍していたエリートがたくさん含まれていました。知的レベルを比較したら土佐侍とは大学卒と中卒くらいな差がありましたね。 そればかりではありません。上士の中でも山内家発祥の尾張侍、大名になってからの掛川侍、それに近畿侍という入社の年次序列までありました。江戸時代は士農工商の身分制度といいますが、土佐では「士」だけで何段階も序列があったのです。 時代とともに、知的レベルの水準は平準化していきます。しかし、上士と下士の間の線引きは江戸末期になっても厳然と残っていました。交流は殆どありません。それどころか互いに憎しみ合ってすらいました。

竜馬の家、坂本家は、元々は下士ですらありません。商人です。土佐の商人・才谷屋が本家で、借金のかたに侍株を買い取って侍になった「成り上がりもの」です。したがって、家風は商人時代の雰囲気を色濃く残して自由奔放です。これも、竜馬の人格形成に大きく影響していますね。竜馬には先天的に商才が備わっていました。

1、「小譲(こいと)様よ」
と、源爺ちゃんが、この日の朝、坂本家の三女乙女の部屋の前にはいつくばり、芝居もどきの神妙さで申し上げたものであった。
「なんです」
と、乙女がうつむいて答えた。手元が針仕事で忙しい。明日という日は、この屋敷の末っ子の竜馬が江戸へ剣術修行に旅立つ。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の書き出しは、竜馬とは関係なく姉の乙女の日常から始まります。竜馬にとっては母代りで、「お仁王さま」と呼ばれた姉の乙女が、彼の人格形成に大きく関与したという設定です。

確かに、竜馬から乙女に宛てて書き送った手紙の数は莫大な量です。それが「竜馬がゆく」の骨組みになっているのも事実です。

彼女はつけられたあだ名の通りの大柄な体格で、男勝りのところがありました。泣き虫の竜馬を叱咤激励して一流の剣士にすべく力を注ぎます。

この当時、土佐藩において竜馬が藩政に参画するようになる可能性は全くありません。

下士の中でも商人上がりの坂本家に回ってくる役目は、せいぜいが奉行所の下級捜査員か厩番、墓守程度です。したがって、剣の腕を磨き、道場を創設して門人をたくさん集めるのが、最高の出世街道でした。乙女の願いも、兄・権平の願いもそこにあります。

こういう時代の流れが今でも残っているのが、官僚社会のキャリア、ノンキャリアでしょうね。一種の身分制度です。

2、坂本家に三十年も出入りしている道具屋の阿弥陀仏などは、生まれつきこの土地で言う異(い)骨相(ごっそう)な老人で、言葉に遠慮がないから
「よくぞまぁ、あれほどまでにお育てなされました。申してはばかりある事ながら、ここの坊(ぼん)さんはえらい寝小便(よばあ)たれでござりましたからのう」
事実なのである。
竜馬は12になっても寝小便する癖が治らず、近所の子供たちから「坂本の寝小便(よば)ったれ」とからかわれた。からかわれても竜馬は気が弱くて言い返しも出来ず、すぐ泣いた。…(略)… 城下では誰でも「坂本の泣き虫」といえば「ああ、本町筋の洟垂れのことか」と言った。

後の活躍から見たら信じられないような逸話ですが、子供と言うものは時に、劇的な変化を遂げます。きっかけはさまざまでしょうが、何がしかに自信がつくと突然態度が変わってきます。その逆もあって、何かで自信を失うと急に内気になってしまいます。この辺りが10歳くらいまでの初等教育の難しいところで、欠点修正よりも美点凝視が必要なのです。寝小便…私も経験がありますが、治そうとしてもなかなか治りませんからね。叱っても、絶対に直るものではありません。ある日突然、治ります。

竜馬の場合は泣き虫と言うだけでなく、寺子屋でも出来が悪く師匠から見放されています。寺子屋にも通えませんから、姉の乙女が師匠代わりになって読み書きを教えます。

父も、兄も、薄のろで泣き虫な竜馬を見放しますが、姉の乙女だけは竜馬の常人離れした茫洋さに期待をかけ続けました。唯一の理解者と言って良いでしょうね。

この竜馬が14歳から剣術の道場に通い始めます。

そこからです。竜馬が大変身を遂げだします。目の色が変わり、猛烈に練習に打ち込みだしたのです。道場での練習、さらには家に帰って乙女姉さんにしごかれて、めきめきと腕を上げます。

さらには坂本家の血統でしょう、5尺8寸と言う大男に成長します。姉の乙女も5尺8寸あったといいますから大男の家系ですね。 体力がついて、練習が大好きなのですから…技術は飛躍的に伸びます。

19歳で道場の目録をもらうまでになってしまいました。高知の城下では相手がいなくなってしまうほどの上達です。

ゴルフの石川遼君も天才ですが、坂本竜馬の剣術も多分に天才的な資質を備えていたようです。竜馬の家は、身分は低いのですが、元は商人ですから裕福です。喜んだ父と兄が当時日本一と噂の高かった北辰一刀流の千葉周作の道場へと留学資金を出してくれました。

いよいよ、龍が土佐という池から這い出します。