公武合体(第16号)

文聞亭笑一

男が男に惚れる…という心理があります。理性とは別な次元で、只々盲従してしまうような心の動きですが、海舟(勝燐太郎)に出会ってからというもの、竜馬は現代のオッカケオバサンよろしく、勝の屋敷の周りをうろつきます。勝の持つ知識や見識を、一つでも余計に吸収したいという意欲と、敬愛する勝を襲撃者から守らなければならぬという義務感からです。

このことはすぐに土佐藩の知るところとなり、下横目(刑事)が派遣されて、逮捕または斬り捨てに大勢がやってきました。が、竜馬に説得されて勝の弟子にされてしまいます。岡田以蔵もその一人で、いつの間にか勝の用心棒として、常に護衛の役を引き受けます。

岡田以蔵、土佐イゴッソウの典型のような男で、思い込んだら命がけ、催眠術に掛かりやすいタイプだったのでしょう。京都では武市半平太に催眠術をかけられて「人斬り以蔵」との仇名を頂戴し、江戸では竜馬の催眠術で幕府重役の用心棒になります。不節操…に違いありませんが、勤皇の志士といわれる人たちの、すべてが思想家であったわけではないのです。その時々の流行に流されて右に、左に転向を繰り返します。

現代の政治家だってそうですよね。勝ちそうなほうに鞍替えを繰り返して、選挙に勝つことと、権力に近づくことしか考えていません。日本国、国民のことより、権力の座が大切なのです。以蔵を笑えません。

76、幕末で、日本人は坂本竜馬だけだったといわれている。
当時としては、奇想天外な立場である。いや、現代でも奇想天外な立場かもしれない。
勝海舟・・・これは幕府の人である。しかしそういう立場を引きずりつつも、当時としては最も日本人に近い意識の持ち主であった。
竜馬は、だから海舟の存在に、不思議な魅力を感じた。

勝海舟はアメリカに渡って、日本人を強烈に意識して返ってきました。訪米使節はどこでも大歓迎を受けたのですが、米国人と付き合うごとに「日本」を意識しました。比較検証という科学の目を持っていた数少ない人材でした。同様な目を持つ福沢諭吉も「日本」を意識していた一人ですが、なぜか帰国後の二人は全く別の結論に達したようで、勝は福沢を無視しますし、福沢は勝を徹底的に批判します。

竜馬だけ…だったかどうかは、司馬遼の思い入れでしょうが、維新の主役になった人たちの中には、確かに、日本という国家を念頭に置いていた人はいませんでしたね。西郷も、大久保も、小松帯刀も薩摩人でしたし、桂も高杉も長州人でした。武市半平太も土佐人からは抜け切れませんでした。

誰しも、所属する組織が第一義で、尊皇と朝廷を祀り上げていますが、日本国はタテマエでしかありません。むしろ…日本国を意識していたのは幕府の外国担当者で、小栗上野介や、水野忠徳(痴雲)などは、為替レートの適正化に必死の外交努力をしています。

残念ながら、幕府の重役(老中、奉行)などが事なかれ主義で、小栗や水野の外交努力に「余計なことをするな」とクビにしてしまいますから、外国の言いなりです。

この物語の中では松平春嶽や、徳川慶喜は英邁な人として扱われますが、見方によってはご都合主義の軟弱政治家です。丁度…現在の総理のように、「私が決めます」といいながら何も決めなかった人ですからね。幕末卑怯者列伝に出てきますね。

現代の日本にも、「日本」を意識した政治家は、果たして存在するのかどうか…疑問です。

党利党略がすべてで、選挙のことしか考えていないのに、「国民の皆様に」などと選挙用のきれいごとを並べます。そういう「国民の皆様」も自分の財布と、所属する組織(会社)が何よりも大切ですから、日本には日本人が居ないのかもしれません。国、地方自治体あわせて1000兆円の借金、これは…とんでもない数字です。

77、柳川左門・・・これが半平太の変名だ。今度の正副勅使のうちの副使姉小路少将の家来、という名目なのである。だから公家らしい髷に変えていた。
無論、半平太は土佐藩士であるが、一介の外様大名の下級藩士では、幕府の高官に対する工作が出来ないのだ。それに二人の勅使がしゃべる筋書きは、武市が考えてやらねばならない。

半平太が江戸城に乗り込みます。朝廷の役人としてですから従四位の服装です。正使は三条実美で、攘夷の督促に来ます。公家たちは飾り物で、黒幕が武市半平太でした。

江戸城では、藩主の山内家よりも上位の立場で振舞いますから、誇り高き山内容堂が快く思わないのは当然です。「郷士の分際で…」と、尊皇攘夷派を粛清する方策を考え出します。おりしも長州藩といざこざがあって、後藤、板垣など吉田東洋派が容堂の側近を固めていましたが、彼らが長州を毛嫌いしています。

「獅子身中の虫」これが土佐勤皇党に対する容堂の見方でした。

江戸城における武市の作戦は大成功で、将軍の上洛の約束と、攘夷決行の日限を約束させることになります。幕府としては、攘夷(対外戦争)などする気はまったくなく、生麦事件の賠償問題で頭がいっぱいでした。このときの幕府の弱腰…目も当てられません。

イギリス人4人を殺傷しただけで44万ドル(現代の通貨で150億円相当)を支払います。

当事者の薩摩藩は37億円の要求を拒否して、薩英戦争をしているのとは比較になりません。

ともかく、外国に叩かれ、朝廷に叩かれ、逃げ回っていたのが幕府重役でした。

特にひどかったのが徳川慶喜で、将軍後見役といいながら、何も決定せず、老中が決断したことを批判しては、一人、良い子になっていました。賠償問題では「払え」「払うな」と指示を数回変えています。指示通りにやったものを罷免したり、再任したりと不定見で、小栗や勝などという論客は煙たがられます。小栗などは70回任免されたと日記に書き残すほどで、朝令暮改の典型例でしたね。

78、竜馬は議論しない。議論などは、よほど重大なときでない限り、してはならぬ、と自分に言い聞かせている。
もし議論に勝ったとせよ。
相手の名誉を奪うだけのことである。通常、人間は議論に負けても自分の所論や生き方は変えぬ生き物だし、負けた後、持つのは、負けた恨みだけである。

議論、論争というのは、確かにこう言う側面があります。殴り合いの喧嘩の場合は、やった後になんとなく爽やかさを感じますが、議論に負けた後の悔しさは、変に屈曲した思いが残ります。特に夫婦喧嘩というのはいけませんねぇ。犬も食わないというほどの不味い感情しか残りません。夫婦の口喧嘩は大概の場合、女が勝ちますから、負けた恨みが重なってDV(ドメスティック・バイオレンス)になるのでしょうか。(笑)

世を挙げて議論が大好きな様でいて、その実、国会では大事な議論を全くしないのが現代日本です。これは、幕末の幕府内部と良く似ています。財政再建、税制、防衛などは重大なテーマなのですが、議論していませんねぇ。お金もないのに、福祉という耳障りの良い使い道にバラマキの約束だけが実行されていきます。

幕末の幕府と同じで、借金が国を傾けます。いまさらですが「お金は大事だよぉ」とゴマメの歯軋りならぬ、アヒルの歯軋りですねぇ(笑)

79、土佐のご隠居の容堂。確かに傑物だが、この人は維新では時勢にブレーキをかける役しか果たさなかった。学殖があり、勤皇思想家である。が同時に熱烈な佐幕派でもあった。こういう政治的立場を、当時の流行語で言えば「公武合体派」という。公とは朝廷、武とは幕府。両者仲良く国を運営していこうという常識論である。

公武合体派の代表が松平春嶽で、その取り巻きが山内容堂、宇和島の伊達宗城、島津久光などです。幕末の四賢公などと呼ばれますが、賢いわりに、時勢が見えていませんでした。

この当時の政治家で、最も気を配らなくてはならないことは外交だったのですが、朝廷の攘夷熱に、なすすべもなく押されています。

山内容堂は四賢公といわれていても、所詮は殿様です。日本国とは幕府であり、幕府あっての土佐藩という意識は拭い去れません。幕府がなくなったら、藩も存在しなくなると考えれば、朝廷と幕府が仲良くやってもらわないと困るのです。それにもかかわらず、息子の藩主を先頭に立てて、攘夷運動をしている武市半平太は目障りで仕方がありません。

山内容堂の描く世界と、武市半平太の理想は似ているようで、根っこが違います。

容堂は階級社会の維持を考えていますし、半平太は民主主義的な政体を考えます。

容堂の描いた日本は…現代中国の政経分離体制に似ていたような気がします。政治は殿様連合による公武合体政権で、経済は改革開放…ですかねぇ。

容堂は、虎視眈々と武市を排除する機会を狙います。