洋学のススメ(第6号)

文聞亭笑一

当時の日本人は黒船を見て「山が動いてきた」「海に城が浮かんでいる」などと表現しています。が、実際のところ、黒船ははどのくらいの大きさだったのでしょうか。

ペリーが率いてきた軍船は4隻です。旗艦のサスケハナ号は蒸気船で、2500t、もう一隻の蒸気船が1800tのミシシッピー、残る二隻は帆船でサラトガとプリマウスですが、こちらも1000tクラスでした。排水量という概念は江戸時代の和船にはありませんから、千石船などと積載量で呼んでいるものとの直接比較はできません。

2500tといえば、横浜港に係留されている帆船の日本丸(写真)が2300tです。

旗艦が、だいたい…あの程度かと考えます。日本丸は幅13m、全長97m、甲板の広さが約1100u程度です。一方の千石船は、幅6m、全長18m程度ですから甲板の広さは約110uですね。約10倍の差です。

したがって容積ではさらに桁違いの差になりますね。江戸市民が驚いたはずです。

しかも、軍艦ですから船腹から大砲がのぞき、甲板にはさらに大口径の大砲が備わっています。怖いですよね。

とはいえ、鉄鋼船ではありません。木造船の船腹を真黒な鋼板で覆った鉄張り船でした。

ずんぐりむっくりで一枚帆の千石船しか見たことがなかった者が、4本マストに帆を張り、煙を吐きながら外輪を回して自走する船を見たのですから、驚いて当然です。

驚いて、右往左往するのが大半の中で、驚くだけではなく「研究」につながる好奇心が旺盛だったのが竜馬や長州の吉田松陰、桂小五郎などです。海外通の幕臣・江川太郎左衛門や松代藩の佐久間象山のもとに足しげく通い、新知識をむさぼるように吸収します。

一方で、「尊王攘夷」の思想に凝り固まっていくのが、藤田東湖率いる水戸藩国学思想です。初期の尊王攘夷派の思想は「王政復古」ではなく、「神国日本」の象徴として「尊王」という言葉を使っていました。政治の中心はあくまでも幕藩体制で、象徴天皇という位置づけには変わりありません。米国の開国要求の対応に弱気な老中たちに、戦闘態勢を取らせるべく、その理論的裏付けとして尊王攘夷を押し立てたのです。要するに慶喜を将軍にするために「政局」として利用したかったのです。和歌山派の井伊直弼や会津松平、讃岐松平への対抗手段ですね。国家としてこの大事な時に、将軍後継者争いが同時進行しているのですから、国内は混乱するはずです。大砲の大量発注を受けた川口の鋳物工場の親方たちも、品質を落として金儲けに走っていましたから、官民ともに危機感が足りません。

未曽有の不況の真っただ中だというのに公約にこだわる政府と、私的なあら探しに興じる野党とマスコミいう図も、この時代の江戸城を笑えませんね。危機感が不足しています。

外交、防衛、経済…、政治の本質はこちらです。

19、同じ言葉でも、ほかの者の口から出れば厭味にも胡乱(うろん)げにも聞こえる。ところがこの男の口から出ると、言葉の一つ一つがまるで毛皮のつややかな小動物でも一匹一匹飛び出してくるような不思議な魅力がある。

土佐藩は旧式軍備で品川のお台場づくりに精を出していますが、浦賀の守備を担当する長州藩は洋式の軍備をしているという噂が流れます。土佐藩の上士たちは「視察に行かねばならぬ」と思いこそすれ、隠密行動ですからもめ事になるのは避けたいところです。

「見つかっても下士ならばトカゲの尻尾」と、竜馬に探索を命じます。

浦賀の山中で、警戒していた長州藩の桂小五郎と竜馬が遭遇します。真剣での斬りあいの後に、小五郎の刀が折れて…、互いに争うことの無駄に気がつきます。

「敵ゃあ夷人じゃきに、わしらが争うてもしかたなかぜよ。

わしゃあ隠密じゃ。長州の秘密を、ちくと教えてくれんかのぅ」

こんな調子ですから小五郎もあっけに取られます。意気投合してしまいます。

ついでに佐久間象山の塾にいる桂の先輩・吉田松陰まで紹介してくれました。

20、師の吉田松陰が言ったという。
「学問も大事だが、知って、かつ実行するのが男子の道である。
詩も面白いが、書斎で詩を作っているだけではつまらない。
男子たるものは、自分の一生を一編の詩にすることが大切だ。楠正成は一編の詩も作らなかったが、彼の人生はそのまま比類なき大詩編ではないか」
松陰は桂小五郎にこれだけしか教えなかったが、この言葉が小五郎の一生を決定してしまった。

竜馬は桂小五郎との出会いの後、佐久間象山の洋学塾で吉田松陰とも出会います。

佐久間象山は信州・松代藩士ですが、江戸詰の間にオランダ語に卓越し、竜馬同様に新しいもの好きで、西洋の知識をむさぼるように吸収した人です。幕臣・勝鱗太郎の妹を嫁にもらい、幕府にも人脈を持ちますが、幕末を彩る維新の志士たちで大物と言われる人たちは、そのほとんどが佐久間象山の影響を受けています。

松陰、小五郎、竜馬、西郷…

西洋の知識と、軍事、外交上の示唆を受けていますね。

中でも吉田松陰は佐久間象山にそそのかされて、まずはロシア船でヨーロッパへの密航を試み、失敗すると今度は黒船でアメリカへの密航に挑戦します。

「聞いただけじゃぁわかりゃぁせん。この目でオイロッパを見るんじゃ」

西欧的実証主義にいち早く目覚めていた人でしたが、時期が早すぎました。米国艦隊に拒否されて日本側に引き渡されます。が、ここで長州藩の殿様・毛利敬親が死罪を免じて萩の獄舎につなぎます。

このことが、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、井上薫などの、明治の政治家たちを育てたのですから、藩侯としては最大の功績でしたね。

毛利敬親といえば「そうせい公」ともいわれ、部下の提案には「そうせい」としか答えなかったといわれていますが、幕府からの吉田松陰処罰(死罪)の要求には「そうせい」とは言わなかったようです。

21、「長州の怜悧、薩摩の重厚、土佐の与太、というのは面白い。もし一男子にしてこの三つの特質を兼ねている者があれば、それは必ず大事を成すものだ」

明治維新の中核になったのは薩摩、長州、土佐の3藩ですが、それぞれの気質の違いを表現するには最適の言葉でしょうね。

長州人は理詰めです。桂小五郎がその代表で、理屈に合わぬことは一切拒否します。文章も巧みですし、思想的な論文、演説などでその後の維新行動をリードします。

重厚な薩摩人の代表は西郷隆盛でしょうね。じっくり構えて、なかなか動きませんが、動くとなれば真一文字に突き進んでくる印象です。

土佐の与太とは「愚かで役立たず」「でたらめ」「いいかげん」という意味ですが、ここでは、自由奔放な発想をするという意味で使われていますね。

この三つの特質を一人で持ち合わせるのは至難の技で、精神分裂気味になりかねません。

長州の代表桂と、薩摩の代表の西郷、そして土佐の代表の竜馬が協同した結果、大事業が成功したのです。組み合わせ、チームワーク、これこそが人類の知恵でしょう。

同質ばかりの人間では大事は成し遂げられません。

22、公儀のお叱りを受ける、受けない、ということだけがこのころの武士の判断基準であった。封建時代の各藩の上級武士というのは大なり小なり、この八右衛門であった。この階級は淀み水のように腐っていた。諸藩の若い下級武士出身の志士たちによってこの階級が覆され、明治維新が起こったことは当然であった。

腐れ武士の代表として歴史に名を残した土佐藩江戸家老・山田八右衛門さんは全く気の毒ですが、現代の官僚や大企業の管理スタッフも似たようなものです。笑ってばかりはいられません。公儀のかわりが閣僚、政治家、法律に入れ替っただけで、「事なかれ主義」は江戸時代からちっとも変ってはいません。封建時代の特徴と考えることは間違いで、共産主義でも、民主主義でも起きる現象ですから、組織の「本質的病理現象」と考えるべきでしょう。事業仕分けなどに出てきた高級官僚の中で、骨のある人材があまり見かけられませんでしたよね。大企業の管理スタッフだとて、まぁ…大同小異です。

この病気は人材の入れ替えでしか防げません。有能だから、便利だからと特定業務に塩漬けにすれば、必ず発生してくる病気です。転勤、転属はその意味で病気にならないための予防法、健康法なのです。これは、組織にとっても、個人にとっても大切なことです。

リストラなどという維新が起こらないように、転勤、転属には前向きに対応しましょう。