黒船来航(第4号)

文聞亭笑一

江戸での竜馬はごく普通の留学生生活を楽しみます。

生活を共にする同室の武市半平太は勉強家の上に、藩士としても優等生ですし、剣術の腕も桃井道場では塾頭です。何をやらせても土佐藩の学生仲間では一番ですから、自然にリーダになります。半平太と竜馬の部屋は集会所、兼、よろず相談所みたいな雰囲気で、何もせずにごろごろしているだけの竜馬も、聞くとはなしに学問的知識や、世間話などが蓄えられていったのでしょう。

竜馬という人物は、机に向かって勉強することは苦手だったようですが、見たり聞いたりしたことを自分の頭の中で反芻しながら、自分なりの形に纏め上げていくことが得意だったようです。情報を集めるというより、自然に入ってくる情報を編集し、組み立てて、自分流の知識にしていく積分型の才能ですね。ですから他人の意見を鵜呑みにすることはありません。自分の目で見て、自分でやってみて、検証に耐えた知識だけが残ります。

このやり方は終生変わらなかったようで、それがまた天才に見えたのでしょう。

「アイツはちくとも勉強をせん。せんのに物知りじゃけん、分からんやつ」

これが竜馬と一緒に過ごした土佐の若者たちの印象です。

12、半平太はこの年下の青年を百年の知己のごとく遇するようになった。土佐24万石の若い軽格武士たちが、後に風雲の中に乗り出していくとき、竜馬と半平太を両翼の首領にしたのは、このときに始まる。
後輩たちの質問に半平太はこう答えた。
「豊臣秀吉も徳川家康も、黙っていてもどこか愛嬌のある男だった。明智光秀は智謀こそその二人より優れていたかもしれないが、人に慕い寄られる愛嬌がなかったために天下を取れなかった。英雄とは、そうしたものだ。たとえ悪事を働いても、それがかえって愛嬌に受け取られ、ますます人気が立つ男が、英雄というものだ。竜馬にはそういうところがある。ああいう男と喧嘩するのは、するほうが馬鹿だし、し損さ」

竜馬という男の魅力を、武市半平太が語るくだりです。竜馬の周りには人が集まってくるんですね。なぜかは分かりませんが、人が集まる人物というタイプがいます。特徴をキーワード風に挙げれば、「安心」「安全」「愉快」「気楽」でしょうか。

人は、攻撃されれば防御の姿勢をとります。防御の姿勢にも色々ありますが、大別すれば反撃と逃避ですよね。攻撃してこない相手、こちらが攻撃しても反応してこない相手、こういう相手は安心です。安全で、気楽です。「来るものは拒まず、去るものは追わず」という生き方の諺がありますが、竜馬の場合は「去るもの」にまで気を配るようなところがありましたから、離れがたい魅力になるのでしょう。

岩崎弥太郎や、岡田以蔵なども、最初のうちは竜馬を嫌っていたのですが、去りがたくなってしまった連中です。

同室で寝起きをともにしたということもありましたが、そういう竜馬の特質を早々に見抜いた武市半平太も慧眼です。

人を見る目があります。「竜馬には愛嬌がある」とは、なかなか良い表現です。

会社という組織の中でも「愛嬌のある」人がいます。仕事が取り立ててできるわけでもなく、目立つところもないのに、部下や後輩に慕われる人がいます。面倒見が良いだけではないですねぇ。「あの人の判断に従えば失敗しない」という安心感があるからでしょうね。

正しい決断をするために人は勉強をして、知識を詰め込むのですが、現実の場では経験に基づいた知恵しか使い物になりません。知識を、実験、検証して、自分の知恵にする行動が学問ですよね。

東大は出たけれど、親からお金をもらっていることも知らず、決断できずに基地、景気、献金の3Kで迷走する人がリーダをしている国もあります。やっぱり知識だけではダメですね。

落語「イモリの黒焼き」に「女にもてる男の10か条」というのがあるそうです。

一見栄、二男、三金、四芸、五精、六おぼこ、七セリフ、八力、九肝、十評判

現代風に言い直せば、@身なりのよさ、A顔かたち、Bお金持ち、C遊び上手、D勤勉さ、 E純情、F話題豊富、G体力、H度胸、I人望・・・でしょうか。どれか一つでもあれば良いそうですよ。

竜馬の場合はGHIでしょうか。

現代の鳩は@とBですかね。おっと、Dもありました。

13、さな子をねじ伏せたときの変にやわらかい感触が、両腕に残っている。それが甦ってくると身のうちが赤くなるほど恥ずかしくなり、竜馬はそそくさと防具を脱ぎ始めた。

千葉道場では道場主の千葉貞吉が師範ですが、その息子の千葉重太郎が師範代として竜馬に稽古をつけます。道場主はめったなことでは稽古場に立ちません。権威主義といえばそれまでですが、相撲の親方と一緒で体力がもたないのですから仕方がありません。師範は立会いの審判と指導が主務です。

練習方法は強そうな相手を見つけて立会いを申し込む方法ですが、今と同様に師範、師範代が練習相手を指名することもあります。妹のさな子の練習相手は常に重太郎が指名しますが、なぜか竜馬だけは指名しません。

腕に自信のあるさな子にしてみれば、新入りの竜馬と立ち会って一本とってやりたいと思っていますが、兄の許しがなければ勝手にはできません。不満がたまります。

道場が休みの日を見計らって、さな子が竜馬に挑戦します。剣の腕は竜馬が一枚上手で、さな子の竹刀を打ち落とし、組討になります。現代の剣道にはありませんが、当時は斬られなければ負けではありませんから、竹刀を落としたら組み付きます。

勝つには勝っても、さな子は姉の乙女とは違いました。ものすごく恥ずかしくなって、竜馬は一目散に逃げ出します。

そうですねぇ、竜馬にはもうひとつ「もてる条件」がありました。Eのおぼこです。

14、この日が嘉永6年6月3日であった。米国の東インド艦隊司令官M・C・ペリーが4艦を引き連れて、にわかに江戸湾口の相州浦賀沖に現れ、将軍に米大統領の親書を呈するために来航した旨を伝えた。

(絵;文聞亭 早暁)

嘉永6年とは西暦でいえば1854年です。日本式年号は時代の香りがしていて好きですが、「何年前?」と聞かれると…不便ですね。流れが見えなくなります。

この日から後、明治政府設立までの間を「幕末」というのだそうですが、幕藩体制の課題が一気に噴き出し、鎖国がもはや維持できないという国際環境の中に放り出された年です。アメリカのペリー艦隊によって無理やりこじ開けられた鎖国ですが、その前にも諸外国からの開国要求がなかったわけではありません。中国に進出している英国からたびたび要求が来ていました。カムチャッカに進出していたロシアからも千島列島の領有権などで要求が来ています。幕府としては慌てて間宮林蔵、近藤重蔵などに命じ北海道以北の「探検」をやっていますね。門戸を閉ざしてサザエさんを続けていられる状態ではなかったのです。

このときの、黒船事件でのアメリカ外交は乱暴きわまるものでした。 突然に、無断で他人の家の庭先に乗り込み、大砲をぶっ放して要求を突き付けるのですから強盗か脅迫犯の手口です。「玄関(長崎)にまわれ」という幕府の指示など一切無視します。玄関で礼儀正しく交渉していたイギリスやロシアに比べたら、暴力団の手口です。

アメリカは何のために、そこまで強引に日本に開国要求を突き付けたのか?

鯨です。当時の照明用ランプの油は鯨油に人気がありました。植物油は煤煙が多くてランプの手入れが大変ですが、鯨油、特にマッコウ鯨からとれる良質の鯨油は貴重品でした。

ヨーロッパ列強は争って捕鯨をします。大西洋の鯨を取りつくして、太平洋に鯨捕りに出たのです。広い太平洋で、その西側に基地がほしかったのです。蒸気船といえども燃料、食料、水の補給ができないと遠洋航海は無理ですからね。

150年前には捕鯨のために暴力行為をし、そして今は、捕鯨反対のシーシェパードなる暴力団を黙認して捕鯨を阻止する…まぁ、わがままな国ですよ。アメリカは。

当然のことながら、日本の世論はわき立ちます。「攘夷」一色に染まります。侍も、農民も、町人も、敵対意識で騒然とします。しかし幕府には僅か4隻の米国艦隊を排除する防衛力が全くありませんでした。「海軍」という概念すらなかったのですから仕方ありません。

太平の 眠りを覚ます上喜撰(茶…蒸気船) たった4杯で夜も寝られず

竜馬たち若者も例外ではありません。まずは土佐藩に命じられて品川沖の防衛線に駆り出され、急遽お台場作りの手伝いです。鎧がないので、しかたなく剣道着姿ですね。

それに飽き足らない竜馬は、半平太を誘って米艦への斬り込みを企画します。