東海道中膝栗毛(第3号)

文聞亭笑一

竜馬の江戸行きは、年齢からいっても現代の学生が大学に入学して上京するようなものです。初めて土佐を出るのですから、観るものすべてが新鮮です。入学式の日程が決まっているわけでもありませんから、のんびり、ゆったりですが、行く先々で、体験学習のような経験を積んで行きます。この号は竜馬の東海道の旅を追ってみます。

まずは、四国から大阪に渡る舟で、船頭の見習いをやります。これも、半端な見習いではなく、船頭も舌を巻くほどの器用さで、「侍にしておくのは惜しい」などと褒められるほどです。運動神経が抜群で、好奇心旺盛ですから、すぐに感覚を身に着けるのでしょう。

これがまた後に、海援隊として洋式船の操船に役立つのですから、技術、技能は無駄になることはありませんね。

最近の孫世代の教育を見ていると、家の手伝いをやらせません。小学校6年になっても大工道具を使ったことのないものばかりです。ドライバーや錐、金槌すら使ったことがありませんから、鑿(のみ)や鉋(かんな)などは見たこともないでしょうね。技術立国に赤信号ではないでしょうか。

大阪に着くと、辻斬りに狙われます。この犯人が、実は土佐出身の岡田以蔵で、後に幕末の人斬り3人衆と呼ばれて怖れられた男です。以蔵のほかには薩摩の田中新兵衛、肥後の川上彦(げん)斎(さい)ですね。この3人で、何人斬ったのか?

斬られて歴史に埋没してしまった若者や、志士たちが哀れです。アルカイダなどのテロリストも、イスラム王国が実現できれば「志士」として英雄になりますが、そうならなければ狂人扱いです。「正義のために人を殺す」のが戦争であり、テロですが…これを正義と呼ぶかどうか、実に微妙な問題です。

以蔵とは幼馴染ですから、お互いに相手が判ってしまえば喧嘩にはなりません。以蔵に帰国費用を渡し、竜馬は江戸への旅を続けます。

淀川を上る舟では泥棒の寝待の藤兵衛と仲間になり、一緒に東海道を旅をします。剣術修行の若者と泥棒の組み合わせ、まさに野次喜多道中です。

ともかく、どこへ行ってもすぐに仲間が出来てしまうのが竜馬の持ち味です。

8、ついでながら竜馬の家系に触れておこう。家祖は琵琶湖を馬で渡った明智左馬助光晴であったといわれる。明智滅亡後、左馬助の庶子太郎五郎が土佐に逃れて長岡郡才谷村に住み、長宗我部の一領具足になった。
その後、4代目八兵衛が酒造業を創業して栄えた。5代、6代で富を積み、7代のときに家業を弟に譲って、郷士の格を買い、元の武士に戻った。

こうやって数えると、竜馬は9代目になります。竜馬の家紋が桔梗なのは、明智の家紋ですから当然ではありますが、この話の信憑性は眉唾ではないでしょうか。明治以降、数々の竜馬伝説が作られましたが、英雄の家系は立派にしておきたいものです。

坂本の苗字は左馬助の居城のあった近江・坂本であると、もっともらしい解説もあります。

戦国時代においては徳川家康にしてからが、相当なデッチ上げで、源氏の家系を捏造していましたから、下々もそれに習ったかもしれませんね。明智左馬助に庶子がいたかどうかは分かりませんが、明智光秀すら死亡が確認されていませんから、真偽のほどはわかりません。

ともかく、金持ちであったことだけは事実で、旅費・江戸滞在費として50両の小判を持ち歩いていました。今にすれば数百万ですよね。辻斬りにも、泥棒にも狙われるはずです。

9、その静かな京が、僅か数年のちに剣戟腥風(けんげきせいふう)の巷(ちまた)になろうとは、天下の誰もが予想も出来なかった。まして寺田屋お登勢にとっては、目の前でニコニコ笑っている青年が、幕府を震え上がらせるほどの大立者になろうとは夢にも予想できない。

伏見の寺田屋、寺田屋騒動の寺田屋です。竜馬が江戸への旅の途中で始めてこの宿に泊まります。伴侶となったお龍ともこの寺田屋が縁ですから、後の竜馬の活動拠点ですね。

京の町は、この当時まだ寂れたままで、志士も新撰組もいません。この町が騒がしくなるのは黒船が来航してからです。

ともかく、竜馬が最初に泊まった京の宿が寺田屋だったというのが運命的です。お登勢さんが第一印象で竜馬に惚れてしまったのも運命的偶然ですね。

10、「しかし、旦那は事が多いねぇ。きっとだんなの一生は途方もなく賑やかになりそうですよ。初旅早々、辻斬りにであったり、仇持ちに狙われかけたり」
(たった今も泥棒と連れ立って歩いていたり) 竜馬もあきれている。

60数年人間稼業をやってきましたが、「事が多かった」時代と、「事がなかった」時代では記憶にある時間感覚が全く違います。よくよく考えてみると、物理的には一年間しかいなかった職場のことが、十年いた職場と同じ長さに感じてたりもしています。「十年一日の如く」などという修飾詞がありますが、同じことの繰り返しで百歳まで生きても、それは長生きといえるのかどうかは疑問です。本当の長生きとは、生きている間に、どれだけの「事」に遭遇し、全精力を傾注したかに尽きるのではないでしょうか。

一日は24時間です。小学生の日記では

「朝起きて、歯を磨いて、顔を洗って、ご飯を食べて学校に行った。

 帰ってから、遊んで、ご飯を食べて、お風呂に入って、寝た」

ということになりますが、こういう生活で100歳まで生きても、果たして長生きといえるかどうかは疑問です。

私の仲間は、当然のことながら、皆、現役を退いた爺です。

顔を合わせれば、メールをやり取りすれば、健康の話ばかりですが、何のための健康か?ちょっと不思議です。健康でありたいのは「事をなすため」ではありませんかねぇ。

知らない土地を巡り歩きたい。

子供のころにやれなかったことをやり直してみたい。

技術や技能の奥義を突き詰めてみたい。

思いっきり暇をもてあましてみたい・・・

なにか「事」をなすために長生きがしたいのです。

勿論、「孫の花嫁姿を見てみたい」も「事」ですよ。

昨年、孫娘が七五三でしたが、この子が花嫁になるには、あと20年近く掛かります。

「事」が起きるのまでには大変な物理的時間が必要ですねぇ(笑)

  やっぱり健康ですかね。

11、竜馬は江戸に入ると、父に教えられたとおり、まっすぐ内桜田の鍛冶橋御門へ行き、橋を西に渡って土佐藩下屋敷で草鞋(わらじ)をぬいだ。
相住まいのものが一人いる、と案内の家士は言った。しかしその者は、あいにくアサリ河岸の桃井道場に出向いていて不在であるという。

竜馬は、いわば留学生ですから土佐藩の江戸施設である学生寮に入ることが出来ます。

鍛冶橋といえば、東京駅の八重洲口近くですから一等地ですね。当時、はっきりした決め事はありませんが、上屋敷には殿様や正室が住みます。中屋敷には跡継ぎが住み、下屋敷にはその他大勢という住み分けでした。しかし、殿様はあちこちに側妾を囲っていましたから、気に入った女のいる屋敷が殿様の住処であったようです。

竜馬の頃の土佐藩主は山内容堂です。幕末の四賢公といわれた人ですが、女よりも酒を愛し、鯨酔海公とも呼ばれたとおり、鯨のごとくに酒を浴びていたようですね。ですから女と遊んでいる暇などなく、下屋敷は下級武士の学生寮のようなものでした。

相住まいのものとは…、アサリ河岸の桃井道場に通うものとは…、武市半平太です。

身分は竜馬同様に下士ですが、下士の中でも最高の「白札」という身分で、いわば課長代理、課長補佐ですね。管理職ではありませんが、管理職に殉ずる立場です。

のちに「月様雨が」「春雨じゃ。濡れていこう」と有名な台詞を残した月形半平太のモデルです。土佐藩では秀才中の秀才、こういう人と同室になるというのも竜馬の運でしょうね。歴史とは偶然の積み重ねです。人生も偶然の積み重ねです。

吉と出るか、凶と出るか……、それは自分が評価することではありません。