安政の大獄(第9号)

文聞亭笑一

ペリーの一回目の来航が、幕末動乱に火をつけたとすれば、日米和親条約の締結が、その火に油を注いだ事件になります。

攘夷の合言葉が日本全国に飛び火し、猫も杓子も「攘夷」一色に染まります。

当時、他国の人を外人と呼んだかどうかは分かりませんが、害人という字を当てたほうが適切だったでしょうね。ともかく「神国日本を汚す害人」というのが、京都朝廷や、水戸学派を中心に盛り上がり、国民全体を燃え上がらせていました。

そこへ、尊王と言う思想が加わります。「天皇を中心とした神聖なる神の国」という思想で、これには攘夷派、開国派の別なく全国民が熱狂します。

攘夷派の代表である長州や水戸も、開国派である彦根の井伊大老も、みんな勤皇・尊王の志士です。これに文句をつける人はよほど風変わりなひねくれものでしたね。

「尊王」を現代に置き換えてみると、「金権反対」になるでしょうか。お金で政治を動かしてはいけないと言う倫理観は、与党、野党に関係なく、国民的合意であるような風潮です。

ロッキード事件というのもアメリカ発で、黒船に符合しますねぇ。黒飛行機事件でした。自民党はこの事件以来、国民の信を失っていきます。

一方、「攘夷か開国か」という方法論に代わるものが、「民営化」という方法論です。郵政民営化という開国的な方法論で小泉自民党が火をつけて、選挙に圧勝しました。

これで自民党が内部分裂して、攘夷派の亀さんたちが飛び出し、民営化に反対します。 小沢、鳩山の民主党も民営化反対で支援します。なんとなく攘夷運動に似てきますねぇ。

「官僚は悪い奴だ」というのも、「幕府は悪い奴だ」と似た感覚でもあります。なんとなく、小泉純一郎と、勝海舟が似通った役回りに見えます。内部改革ですからね。

倒幕運動(政権交代の合言葉)に燃えた国民は、今度は民主党に圧勝させましたね。

昔も今も、ムードで動く国民性ですから、幕末の日本人も、平成の日本人も…、良く似た行動パターンです。

28、竜馬にとってはよほど痛恨事だったに違いない。
後年、幕末諸藩の英雄たちを煙に撒き、奇想、奇策によって天下の風雲を一手におさめた竜馬の姿からすれば、意外なほど平凡な孝子ぶりだが、これが竜馬の正直な姿だったのであろう。
なぜなら、その日から翌安政4年にかけての竜馬にはほとんど逸話がない。千葉道場にこもりっきりで、必死の剣術修行をした。

この当時の竜馬は、思想的には極平凡な国民の一人です。父親の死に嘆き悲しみ、親の恩義に応えようと精進する、ごく普通の、剣術と言う体育会系のスポーツマンに過ぎません。オリンピックなどという世界規模の競技ではありませんが、剣術という、当時メジャーなスポーツの有名選手に成長してきていました。まぁ、現代のプロ野球の花形選手と言ったところでしょうか。

当時、日本のプロ野球、いや、剣術道場には3つの有名チームがありました。江戸の3大道場と言われた千葉周作道場、桃井春蔵道場、斉藤弥九郎道場です。

位は桃井   技は千葉   力は弥九郎

などと言われました。

この3チーム(?)のキャプテン(塾頭と言う)が幕末の英雄たちであるところが、眉唾ながら面白いですねぇ。

桃井道場の塾頭は武市半平太です。 「月様雨が…」「春雨じゃ。濡れていこう」の月形半平太です。

千葉道場の塾頭は坂本竜馬、

斉藤道場の塾頭が桂小五郎ですからスターぞろいです。

ちなみに新撰組の近藤勇は武蔵の田舎チーム出身で、草野球のキャプテンです。

公式な競技会のようなものは開かれませんが、時折、物好きな大名がスポンサーになって、対抗試合が開かれます。

土佐藩の藩主、山内容堂が3大道場対抗試合を企画します。

29、目が大きく、顔が瓜(うり)実(ざね)で、口がへの字に曲がっている。
(世間で、肝のねじれた人と聞いていたが、なるほど左様なお顔じゃな)
剛腹な性分で、殿様としては不必要なほど頭が鋭すぎた。その上、詩文の才があり、歴史を読むのに独特の史眼をもっていたから、当代一流の知識人だった。
それだけに江戸城の中でも、ほかの大名が愚かに見えて仕方がなく、きわどい毒舌ばかりを弄(ろう)している。

山内容堂は幕末の四賢候といわれた一人です。

越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津斉彬と並んで、当時の大名の中では出色の人物です。酒好きで、暇があれば酒を飲んでいたと言いますから、上杉謙信のようです。

この4人の大名たちは、揃って幕府支援派で、水戸斉昭とともに14代将軍に一橋慶喜を推していました。家茂支持の大老の井伊直弼とは真正面から意見が対立します。

安政の大獄というと、開国か攘夷かと言う対立軸で捉えられがちですが、実は、徳川政権内部の勢力争いで、将軍後継者が水戸か、和歌山か、と言う対立軸での抗争だったのです。

本命が将軍後継を巡る政権争いで、ついでに水戸を中心とする攘夷派の弾圧をやったというのが真相のようです。

安政の大獄を指揮した井伊直弼の参謀・長野主膳は国学者で、大の尊皇派でした。

井伊直弼自信も尊皇派ですからね。要するに、政治は単純ではないのです。色々な思惑が絡み合って、思わぬ方向に転がっていきます。

現在の民主党政権も「官僚依存の自民」を倒して主導権を握り、事業仕分けでは拍手喝采でしたが、「金権」で足元をすくわれ、「郵政官営化」に戻して顰蹙(ひんしゅく)を買い、「子供手当」では金欠病に悩まされます。

「命を大切に」に反対する人はいませんが、小沢独裁モドキにはブーイングの嵐です。まぁ、いつの世もそんなもんでしょう。

30、「尊王・・・」この言葉ほど、この当時の青年にとってオクタン価の高い言葉はない。耳にし、口にしただけで、じっとしていられなくなるほどの不思議な語(ご)韻(いん)をもつ言葉なのだ。「尊王」という語感のもとなら命も捨てる、という青年が、そろそろ諸藩に出始めている。

江戸時代の260年間を通して、天皇に対する庶民の感覚はどうだったのでしょうか。

感覚的にいえば、知識階級は「国家の象徴」として大切に崇(あが)めていたと思われます。

一方、庶民の多くは存在すら知らずに過ごしていたか、それとも「神社仏閣の総元締め」として、現代の神社本庁のように考えていたと思います。

象徴派:神社:無知=2:6:2・・・こんなところだったと思います。

ところが、黒船来航以来、幕府が条約の勅許(ちょっきょ)を天皇に求めだしてからと言うもの、一気に存在感がクローズアップされだしました。

「そうか、この国の最高権力者は天皇だったんだ」と思い出したのです。そう仕向けたのが責任逃れをしようとした幕府官僚でしたから、 この時点で政権担当能力を失っていたんですね。勅許を求めたことで、幕府は自壊作用を起こしだしました。

前々回の選挙の後で、安倍内閣が郵政造反議員の復党を認めましたが、あれが自民党崩壊の口火になりましたね。後は坂道を転がるように、福田、麻生と支持率は転落していきました。そして、前回選挙で大敗して政権交代です。

「尊王」「攘夷」など、歴史には数々のキーワードが出てきます。曖昧模糊とした概念なのですが、こういう言葉が歴史を動かしていきます。

さて、現代の政治、経済を動かす言霊は…「命を大切に」ではなさそうな気がします。

31、竜馬こそ、あるいは天が地上に下した不世出の大器かも知れぬと思ったのは、最初は姉の乙女であり、次は自分であるとお田鶴様は思っていた。

土佐では、山内家の姫君が京の三条家に輿入れすることになり、側女として田鶴(テレビでは加尾)が京都に出ることになりました。

三条家は後に三条実美が活躍する家です。いわば攘夷派の家元のような家に、勤務する立場です。

土佐の下士にとっては、天皇家とそれにつながる公家こそが、正当なる土佐の領主であって、山内家は借り物に過ぎないと言う発想が強い土地柄です。したがって、姫の三条家輿入れは、ますます天皇との距離を縮める慶事です。「我らは天皇の親衛部隊である」という意識が「尊皇攘夷」の言葉とともに盛り上がります。

竜馬は江戸から土佐に戻る途中で京に立ち寄り、田鶴との再会を果たします。竜馬に思いをかける田鶴と、鈍感な竜馬…恋心の行き違い。難しいところですね。

田鶴が三条実美と行動を共にすることで、後々長州と土佐が結びついていきます。