さらば土佐よ(第12号)

文聞亭笑一

竜馬は武市半平太の意を受けて、長州の久坂玄瑞と連絡を取るべく、長州に旅に出ます。

久坂玄瑞は長州にあって土佐の半平太同様に急進派の首領です。半平太の意図としては、長州と土佐が手を組んで、攘夷の運動を巻き起こしたいという腹つもりでした。

西国の雄藩である薩摩、肥後、長州、土佐の同盟を模索していたのでしょう。それに、改革の進め方についての情報収集もしたかったものと思われます。土佐という一地方の、郷士という村社会で『攘夷』を叫んでいても運動は盛り上がりません。

村社会と書いてから思い出しましたが、言論界ではよく、「日本人は村社会で閉鎖性がある」などといわれますが、これは日本人がもともと有していた特性ではないと思います。奈良朝、平安朝の頃は実に開放的で部外者、特に中央からの人々を積極的に受け入れていました。中央とのつながりをつけようと、都から来たものに娘を近づけては貴種を授かろうと誘致合戦を展開したほどです。その名残が「藤」のつく姓の多さだと思います。

時代が下って鎌倉期になっても、源氏、平家とのつながりを持とうと、ご落胤を求めます。徳川家が源氏の末裔を自称しますが、これとて源氏の誰かのご落胤がルーツなのかもしれません。ともかく、家柄を見栄えよくするにはご落胤ほど便利なものはありませんからね。

村社会が出来上がるのは戦国末期からで、それを制度的に作り上げたのが幕藩体制であり、さらに進化させたのが明治以降の、向こう三軒両隣による軍事政権の監視制度です。

そういう排他的な雰囲気の中を旅して歩くには、かなりの危険が伴います。

59、この当時の武士は、今の我々市民諸氏ではない。武士である。武士が「やる」というのは、命を捨てると言うことだ。
     (略)
この武士どもの異常なエネルギーが、明治維新という大史劇を展開させたのである。
他国の革命とはその点違っている。

佐賀鍋島藩の「葉隠れ武士道」は特に有名ですが、地方には徳川初期の武士道精神が根強く残っていました。一方、江戸や大阪などでは元禄の頃から武士の精神社会は崩れて、商人を中心とする功利主義が主流になっていました。江戸時代の都市と地方の価値観・文化格差は同じ国家の中と思えないほど違っていたと思います。

参勤交代で殿様のお供をする者を除けば、ほとんどの武士たちは論語的精神主義の世界で生きていたのです。そんな中で例外的な存在が、竜馬や半平太、そして弥太郎のように剣術や学問で江戸、長崎などに遊学した者たちです。彼らは情報の運び屋として珍重されていました。「江戸で何が起こっているのか」「黒船とはどんなものか」「異人とは」…

新聞もテレビもありませんから、見て来た者から聞く以外に方法はありません。

司馬遼太郎が文中で語るとおり竜馬のこのときの役割は現代の新聞記者のようなものだ。

竜馬は土佐勤皇党の特派員として長州に出かけたのです。

歴史上名を残した志士と言うのは、足で取材し、足で伝播した旅行家ばかりである。

とも言っています。たしかに、よく動いていますね。東奔西走と言う言葉通りです。

攘夷運動の中心地は、黒船来航の当初は水戸藩の志士を中心にして江戸でしたが、幕府が勅許を求めるようになってから京都に移ります。これには長州が一役買っています。

世界情勢について全く分かっていない公家たちを、言葉巧みに怖がらせ、外国人をすべて征服者であり、悪党であると宣伝したのです。長州はすでに密貿易で海外との接触をしていましたから情報は豊富です。アヘン戦争以来の清国の現状も熟知していますし、欧米的資本主義の手口も知っています。これらの悪いところだけを京都の公家たちに吹き込みますから、天皇以下、公家たちは「開国絶対反対」になってしまいます。

60、花は咲いてすぐ散る。その短さだけを恋というものだ。実れば、恋ではない。
別なものになるだろう。

司馬遼太郎の恋愛観がありましたから抜き出してみました。

竜馬は小説の中でも、また記録に残ったものでも、あちこちで恋をします。

竜馬のほうから惚れたのは少ないケースで、女性から惚れられるパターンが多かったようですね。なんともうらやましい限りですが、女性の母性本能をくすぐるタイプだったようです。事実、竜馬一人では何も出来ません。まわりの者が放っておけずに面倒を見てくれる、手のかかるヤンチャ坊主で、そのくせ愛嬌がある・・・と言うタイプですね。

末っ子の甘えん坊と言うのは、どうも女にもてるようですね。まぁ、こんなことをいうのは長男坊の僻みでもあります(笑)

実れば、恋ではない。別なものになるだろう。…と、司馬遼は言いますが、いったい何になるのでしょうか。子になり孫になる…では少々現実に過ぎますかね。

「愛」になる…では歯が浮きそうです。「信頼」になる…???「諦め」になる!!

61、毛利家は江戸初期にすでに「産業国家」に切り替えている。
つまり幕府も諸大名も米穀経済に頼っているときに、製紙、製蝋という軽工業に切り替え、かつ新田を開発し、このため幕末ではゆうに百万石の富力を持つに至った。

関が原の西軍は「いずこも同じ秋の夕暮れ」でした。昨年のNHKドラマで直江兼続が苦労した場面を思い出してみてください。上杉も一切リストラをせず、減給しながら必死で生きる道を探りましたが、毛利とて同じことです。120万石から30万石に削られても、藩士は一人も浪人させていません。そのことが、結果的には強い仲間意識を生んだのでしょう。藩(会社・事業)を永続させる上では一つの教訓になります。

上杉に比べてラッキーだったのは海があったことです。長州、今の山口県は三方を海に囲まれています。さらに、関門海峡は海外への玄関口・長崎、北国からの産物を大阪・江戸の大消費地を結ぶ物流の喉元を握っています。この時代の海運は太平洋航路が開発されていませんから日本海ルートが中心で、すべての船は瀬戸内海航路を取ります。

対岸は幕府の重鎮である小笠原が門司を抑えていますが、下関は全国でも屈指の良港です。江戸時代の北前船は蝦夷と江戸を結ぶ中間点の下関を物流拠点にしていました。まさに、江戸時代の物流の中心拠点だったのです。

長州藩の政治の中心は日本海側の萩や内陸部の山口ですが、経済の中心は下関と親戚藩・吉川家の支配する三田尻港でした。海と港を最大に利用して商工業を発展させたのです。

現代でも「政治と金」の問題で国会が紛糾していますが、政治とカネは切っても切れないものです。明治維新を成功させた要因の最大のものは、やはり長州、薩摩のカネの力だったのです。

京都で攘夷運動が盛り上がったのは、桂小五郎を中心とする長州の札束攻勢でした。

賄賂を貰う公家は勿論のこと、湯水の如く金を使う長州人は京都の町衆から大人気です。

会津藩、新撰組の執拗な探索にもかかわらず、勤皇の志士が生き残ったのは京都の町衆の支援があったからです。

全国の勤皇浪人がなんとか食っていける町、それがこの当時の京都でした。その財源を賄ったのが薩摩と長州、特に長州からの金の流れでした。

62、竜馬の脱藩は文久2年3月24日である
東洋の暗殺は、その翌月の8日
ところが、「下手人は本町筋の坂本権平の弟ではあるまいか」と言う噂が家中の上士の間で流れた。理由は竜馬が城下で第一の剣客だからである。

土佐では、ついに武市の勤皇党が吉田東洋暗殺を実行します。犯人は那須信吾、安岡嘉助、大石団蔵の過激派三人組で、彼らは実行と同時に脱藩、国外逃亡しています。

竜馬はむしろ、彼らの暴発を抑えようとして武市半平太から遠ざけられていました。

武市半平太の一藩勤皇方針には真っ向から反対していましたからね。武市の計画では藩主山内容堂の弟・山内民部を押し立てて勤皇派が政権を握ろうと言うものです。

竜馬と半平太がやりあう場面を引用しておきます。

「弟君が老公や藩主に弓を引くわけじゃな。これぁまるで、講釈のお家騒動の筋書きじゃ。」

竜馬は無邪気に笑ったが、無論肚の中では<武市の馬鹿め>と思っている。

竜馬が脱藩を決意したのは、多分このとき、武市半平太と激しくやりあった後だと思われます。土佐にいれば、武市派の副将格として、巻き込まれてしまう、かといって、計画に反対すれば過激派から襲われかねない、土佐に居場所がなくなってしまったのです。

兄の権平は脱藩させまいと刀を取り上げたり、必死の制止行動をとりますが、身の危険を感じ取っている竜馬は、土佐を抜け出します。

向かったのは九州、さらに長崎でした。竜馬は外国船が見たかったのです。