サムライ・ニッポン(第20号)

文聞亭笑一

政治情勢はめまぐるしく動いています。それぞれが、それぞれの思惑で動きますから、昨日の友は今日の敵なんてことはざらに起きます。政党が分解して新党ラッシュの現代に似ていますね。政策の違いを乗り越えて(?)くっついたり、離れたりします。

個別の政策のことなどはさておいて、何かの目的のために集合離散します。

「政権奪取」のために政党同士が野合し、「政権奪回」のために野党が分裂しています。

目指すは「政権」。ただただ、政権を争って右往左往している現代ですが、幕末のこの時期も全く同じことです。政権の主導権争いです。

「公武合体」を旗印にする政権与党と、「尊皇攘夷」を旗印にする野党、この二つが激しく争い、集合離散を繰り返します。この時期、野党勢力といえば藩の単位で活動しているのは長州、土佐、薩摩の三つだけで、ほかの大名はすべて日和見です。主導権争いの一角、土佐藩ではご隠居、山内容堂が政務に復帰し、自らの政治信念に基づいて「公武合体」 つまり幕府擁護に政策の大転換を始めます。

93、激動期には時代がどう動くか、一寸先も分からない。
そういうときの藩の指導者は、満身創痍になるのもいとわず、刃(やいば)を振りかざし、面(おもて)も振らずに先頭に立って時勢を切り開いていく織田信長型か、それともいっそのこと思い切って流されっぱなしになっていくか、どちらかの道しかないものだ。

織田信長型の英雄はなかなか出ないのが、日本の文化風土です。英雄というものが出にくい体質を持った社会ですね。これを農耕型などといっていますが、世界史を見れば農耕型社会にだって英雄は出ます。英雄が出にくいのは既存の社会が変化しやすく、その変化に順応力の高い民族性に由来するからで、革命的外科手術でなくても内科療法で病気が治るからではないでしょうか。言い換えれば特定宗教のような硬い価値観や哲学が存在せず、新しいものに順応性が高い国民性に由来すると思います。

織田信長は、確かに、日本史上の異質な人物です。こういうタイプの人は類例がありません。普通は「異常体質・精神異常者」として排除されます。最近では小泉純一郎が、似たタイプの宰相として登場しましたが、それとて信長とは比較になりませんからね。

日本社会のリーダシップは大きく分けて3通りではないかと思います。

信長まで行かなくても、組織の先頭に立つ戦国武将タイプがあります。

「我に続け」と先頭に立って走るタイプですね。

秀吉や家康のように、周りとうまく調整して利益誘導でまとめるタイプがあります。

お公家様や江戸期の大名のように「よきに計らえ」と丸投げするタイプがあります。

既成の権威でお神輿に乗り、実務はNo2が取り仕切るタイプです。

まぁ、2番目のタイプがほとんどですが、企業の創業者などは戦国武将派でしょうか。

これが2代目、3代目になると、だんだんお公家様になってきて、先頭に立つどころか調整すらしなくなります。現在の政府を率いる3代目の方などは典型的丸投げ男でしょう。

司馬遼太郎の言う「流されっぱなしになっていく」タイプですね(笑)

土佐の権力者に返り咲いた山内容堂は立派な有識者なのですが、そこは殿様育ちで我侭です。気に入らないものは容赦なく排除します。

公武合体で、ようやく親密化した朝廷と幕府を引き裂く活動をする武市半平太の勤皇党に大弾圧をかけます。武市をはじめ、平井収二郎、間崎哲馬などが粛清されてしまいます。

94、丈夫今日死す 何ぞ悲しまん   堂々と死んでいく、悲しむことはない
ほぼ見る聖朝 旧儀に復するを  天皇親政の目標はほぼ達成できたのだ
一事なお余す 千載の恨み    唯一つ残念さが残るのは
京畿にいまだ樹たず 柏章の旗  都に、土佐藩の政権が実現しないことだ

切腹を命じられた間崎哲馬の辞世の詩です。土佐藩を愛し、土佐のために働いたのに…という悔しさがにじみ出るような辞世です。柏章の旗とは土佐藩の藩旗「三つ葉柏」のことです。土佐藩が政権の主役になることを目指していたのです。それなのに、土佐の殿様から処分を受けるのですから、悔しさも一入(ひとしお)だったでしょう。

この時期、勤皇の志士といいながらも、彼らの頭の中にあったのは「藩」です。これは、長州も薩摩も代わりありません。会津も桑名も変わりありません。勤皇だ、佐幕だと敵味方に分かれて争ってはいますが、わが藩が政権をとりたいという思いで争っているのです。

特に、殿様連中は「おれが、おれが」で、国家の在り方などは念頭にありません。そもそも国家という概念が存在せず「家」つまり「藩」が政治の中心なのです。

まぁ、現代も似たようなものでしょうか。「藩」が「党」に変わっただけですね。特に政権党の陣笠議員の先生方はそんな感じに見えますね。

95、幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかと思われるほどのもので、良く言えば壮烈、悪く言えば無謀というほかない。
国内的な、または国際的な諸条件が、万に一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走が、いわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行き着いた。

攘夷運動というのはいつの時代も暴走しやすい性格を持ちます。一種のスポーツ感覚で、オリンピックなどで自国選手の応援に熱狂するのに似ています。特に、フィギャースケートやジャンプ競技のように芸術点、飛形点のような人為的採点の競技などでは問題が起きやすいですね。ボクシングの「判定」で揉めるのも同様です。

その傾向が長州藩で特に強かったのは、地理的影響によります。下関海峡は横浜に向かう外国船舶が行き交います。日本海側は函館に向かう外国船が目につきます。

さらには、隣国の対馬がロシア艦隊によって一時占拠されるという事件も起きました。

「明日は我が身か!」危機感は極限に達しています。そうですね、現在沖縄で基地反対闘争が起きていますが、それ以上に外国の軍隊に対しての嫌悪感が盛り上がっていました。

暴走します。無謀といわれても、壮烈に戦うムードが盛り上がります。女も、年寄りも、子供も藩全体が「攘夷、外国人退去」を求めます。沖縄、徳之島の住民集会を見ながら映像を重ねました。「彼らが手に手に武器をかざした姿、それが当時の長州だったのだろう」

司馬遼がここでいう国内的条件とは、幕府が自ら政権を投げ出した「大政奉還」や、「江戸城無血開城」を言います。内乱らしい内乱がおきなかったことです。

国際条件の最たるものは、アメリカでの南北戦争の勃発です。日本の開国に主導権を持っていたアメリカが、日本どころでなくなってしまったことです。その後釜を狙って、イギリスとフランスがしのぎを削りますが、フランスもフランス革命前夜で腰砕けになります。

96、外国人は彼らを現実以上に恐怖した。
これが本国の外交方針に影響を与えないはずがない。(略)
いわゆる攘夷活動が、外国人を殺傷したり、長州藩のように旧式軍隊で列強の海軍と戦うというのは、それ自体は無意味だが、外国政府に対して、日本人が他のアジア人と違って異常な緊張力を持っていることを示現した。

ここでいう「彼ら」とは攘夷浪人のことです。浪人といっても、彼らは江戸期に裏長屋で傘貼りの内職をしていた貧乏浪人とは違います。国を憂え、救国の志に燃えた剣術の腕も一流の、いわば、文武両道の達人ばかりなのです。

生麦事件ばかりでなく、品川御殿山の英国大使館焼き打ちなどで日本刀の切れ味と、剣術の凄さは嫌というほど目にしてきています。「中国人とは違う、うかつに対応すると斬られる」という恐怖感は、本国からの傲慢な外交指令の実行を躊躇させます。

ひとつの事例として生麦事件の賠償問題がありますが、幕府の引き延ばし作戦に対して、英国公使は武力行使を最後までためらいます。幕府のやったことは、アヘン戦争での清国政府と変わりないか、もっと悪質な約束違反でしたが、英国は度重なる約束違反にも、怒鳴り散らすだけで武力を行使していません。相当に恐がっていましたね。

それというのも、下関での外国船打ち払いの戦闘、薩摩での薩英戦争で懲りていました。

戦争は圧倒的に外国勢の勝ちでしたが、上陸部隊の何人かは抜刀突撃で負傷しています。

大砲も、鉄砲も恐れずに突撃してくる「サムライ」の玉砕攻撃に恐怖していました。

玉砕攻撃というのは太平洋戦争で始めた戦法ではないのです。日露戦争の203高地で開発した戦法でもありません。幕末でもやっていましたし、戦国時代でもやっていたことなのです。死を恐れず…こういう相手と戦うことは怖いですよ。

「天皇陛下万歳」これは…外国人を恐怖させますねぇ。使い方次第ですが…(笑)