海と船(第15号)

文聞亭笑一

市井にあって活躍の場を与えられていない大人物のことを臥(が)竜(りゅう)とも、伏(ふく)竜(りゅう)とも言います。

古代中国の三国志で活躍する諸葛孔(しょかつこう)明(めい)になぞらえて出来た言葉のようですが、日本にあっては、名前からの連想も手伝って、坂本竜馬が世間から注目される以前の姿に重ねられます。この時期の坂本竜馬…臥竜以前の状態で、故郷の土佐を飛び出してはみたものの、何をなすべきか、全く手探りの状態で、勤皇の志士のまねをしているだけの浮浪者です。

武市半平太の宗教的思想には深入りできず、長州の久坂玄瑞の急進的攘夷主義にもついていけません。赤旗を振り回してデモ行進に参加しているけれど、「みんながやるから俺もやる」という労働組合員と差がありません。竜馬の10代に作ったといわれる歌があります。

世の中の 人は何ともいわば言え わがなすことは我のみぞ知る

心意気こそ旺盛ですが、我のみぞ知る状況ではありませんでした。我にも分からなかったのです。ともかく、土佐にいては剣術道場の親方になるか、半平太の子分として利用されるか、それ以外に道はないと自覚して、広い天地を求めたのです。そういう点では現代の学生が就職するために都会に出てきたのと同じことです。就職先も決まらず、学校の寮(千葉道場)に居候をしている就職浪人に過ぎません。

73、私は乙女姉さんに育てられたんだが、あの人は気の強い女人でね。
人の命は事をなすためにある・・・と言った。
また、死を恐れては大事はなせぬ。武士は英大なる事を思うべし、と申しました。

竜馬はしばらく京の薩摩屋敷に滞在しますが、なすこともなく、飽きてきました。

同じく庄内藩の浪人で薩摩屋敷にいた清河八郎と連れ立って江戸に出ます。寺田屋事件以来、薩摩藩が攘夷浪人には冷たくなって、居心地が悪かったのでしょう。

江戸に出ても、脱藩浪人ですから土佐藩の屋敷には出入りできません。頼るところといえば…そう、昔なじみの千葉道場しかありません。ここでなら剣術の師範代として、飯だけは食えます。

千葉貞吉、重太郎、さなから、大歓迎を受けます。特にさなにとっては、恋人が戻ってきてくれたのですから大喜びです。何くれとなく世話を焼きます。さなにとっては竜馬が敬愛すると言う乙女姉さんに興味を持ち、竜馬の気を引くためには乙女姉さんのようになろうとすら考えます。

気の強い女人でね・・・ ここのところはさなも合格です。負けません。

人の命は事をなすためにある・・・これは竜馬の逃げ口上で、「事をなすためには女と付き合う暇がない」とほのめかしているのです。しかし、その裏の意味を感じ取るほど、さなは女らしくないのです。一方、言っている竜馬も事が分かっていませんから、さなが竜馬の意思を分からなくても当然でしょうね。(笑)

しかし、勝気のさなは「ならば、私も一緒に事のために死にましょう」となりますから、竜馬が逃げ出してしまうのです。竜馬が好きな田鶴や加尾とは正反対になってしまいます。これは…男勝りの女性が、縁遠くなってしまう原因の一つかもしれません。男などという生き物は、どこかで威張っていたいものです。威張らせておいて、裏から操縦するのが賢い女性でしょうね。

物の本に「カシコ・カシコは嫌われる、カシコ・バカになりなさい」などと良妻賢母の心得があります。一見馬鹿に見えても亭主の言うことに従い、実は亭主を意のままに操縦する…と言う意味だそうです。そういう女性が減って、カシコ・カシコが増えて、未婚化が進み、バカ・バカも増えて、未婚率、離婚率が向上しているのでしょうね。

後日談ですが、千葉さなは一生独身を通し「私は坂本竜馬の妻だ」と言い通しました。

さなの墓には「坂本竜馬 妻・さな」と刻んであるそうです。

74、重さん、良薬ほど毒性があるよ。英雄と言うのは国家が無病(むびょう)息災(そくさい)のときは無用の毒物だが、天下危難の時にはなくてはならぬ妙薬だ。人間の毒性ばかりをこせこせと見るのは小人のすることで、大人はすべからく相手の効能の面を見抜かなければならぬ。

千葉道場で攘夷のことなど忘れて剣術に汗を流していると、今は因幡藩剣術指南になっている千葉重太郎が「幕府の奸物を斬りに行こう」と誘います。何でも、たいそうな西洋かぶれで、幕府の使節としてアメリカに渡り、今は幕府艦隊を作ろうと海軍士官の養成をしている男だと言います。その男の名は、勝燐太郎。

ところが…竜馬は斬りに行った相手に弟子入りしてしまうことになります。その不定見を重太郎が詰る(なじる)のですが、良薬ほど毒性がある とかわします。竜馬は広い世界と海、そこを乗り切っていく船にすっかり魂を奪われて、攘夷などという偏狭な思想などはどうでも良くなってしまったのです。

船に乗って大海原に乗り出したい…ただ、それだけです。

ただ、それだけのために・・・竜馬は幕末の激動の中で波乱万丈の人生を送ります。

竜馬にとって「事とは船」でした。竜馬のエネルギーの源は海と船に対する強烈な思い入れでした。すべての行動が海と船に結びついていきます。これには土佐で河田小龍から聞かされた中浜万次郎の土産話が大きく影響していますね。青春時代に胸を躍らせたロマンは一生胸の奥に潜んでいて、きっかけがあれば飛び出そうと虎視眈々と出番を待ちます。

竜馬自身は臥(が)竜(りゅう)、伏竜ですが、彼の胸にあった竜は勝燐太郎(海舟)によって目を覚まし、一気に天に向かって翔けだすことになります。

竜馬を見出し、育てた男、勝燐太郎(海舟)に触れておきましょう。燐太郎の家はもともと按摩・マッサージ師の家柄です。ただの按摩ではなく、将軍家の按摩です。祖父の名を男(お)谷(たに)検校(けんぎょう)と言いましたが、祖父は武士ではありません。人付き合いが巧みで、金儲けがうまくて、高利貸で財を成して旗本株を買います。この点は竜馬の坂本家同様ですね。

燐太郎の伯父は有名な剣術使いの男谷精一郎ですから、勝も剣の腕は一流です。

父親の小吉は養子に出て勝家に入り、生まれたのが勝燐太郎です。勝家は僅か年俸40俵の貧乏旗本ですから、小吉は剣の技を生かしてヤクザの用心棒や、火消しの相談役のようなことをして生計を立てています。典型的な江戸っ子で、もともとが武士ではありませんから、庶民に絶大なる人気があります。ヤクザの喧嘩になれば子吉の稼ぎ時でした。

のちに、海舟が江戸城明け渡しで官軍に対して強気の交渉が出来たのは、父親の作った強力な火消しのネットワークや、ヤクザの親分衆の協力があったからです。

この時期、勝燐太郎は咸臨丸の艦長として渡米し、アメリカの民主主義を肌で感じて帰っています。このときの遠征団にその後の維新を彩る面々が大勢います。良く知られて入る者では福沢諭吉ですが、幕府内で勝のライバルになる小栗上野介もその一人です。

75、この時期・・・竜馬の人生への基礎は確立した。勝に会ったことが、竜馬の、竜馬としての階段を、一段だけ、踏みあがらせた。
(人の一生には、命題があるべきものだ。俺はどうやら俺の命題の中へ、ひと足だけ踏み入れたらしい)   この年、竜馬28歳。全くの晩生である。

斬りに行って、逆に弟子になってしまった翌朝に千葉道場に勝海舟が一人で乗り込んできます。幕府の軍艦奉行ですから、町道場にとっては全く無縁な殿様がフラリと訪ねて来たのですから、門弟たちは大慌てです。このときの勝燐太郎の役職は海軍奉行並、つまり、海上自衛隊幕僚長ですから、政府高官です。

竜馬にとっての驚きと感激は、海軍操練所で出会った中浜万次郎教授でした。河田小龍を通じて聞かされていた外国の話の、ヒーローに出会ったのです。しかも、互いに土佐弁の会話になりますし、河田小龍から竜馬のことを知らせる手紙が、万次郎に届いていたことも感激でした。まさに、決定的瞬間でしたね。勝海舟と中浜万次郎…この二人との出会いが幕末の英雄、いや、日本人の英雄・坂本竜馬を生みます。

そういう意味では、若い人との初対面には気をつけなくてはいけませんね。鳥類の雛は、卵から出て最初に出会った生き物を母だと思うといいますが、人間も似たところがあります。特に、新入社員を迎えたときの先輩、上司の立場は、この親鳥の役割になります。

「厄介者が…」などと対応すると、将来の厄介者を育てることにもなりかねません。新卒の新人というのは、実に手のかかる厄介者に違いありませんが、将来は自分の給料を稼いでくれる人材です。人財なのです。自分の能力が衰えて人在(居るだけの人)や、人済 (役割を終えた人)になってしまった後でも、給料を稼いでくれる人です。財産です。

可愛くば 5つ教えて3つ褒め 2つ叱ってよき人とせよ  (二宮金次郎)

高卒、学卒の新社会人が、就職先も決まらず浪人として実社会に放り出されるような寒々とした世の中ですが、これは、社会の大罪です。子供手当を支給することの是非は論じませんが、自衛隊などで臨時に雇用する対策などはないものでしょうか。