ヨサコイ節(第2号)

文聞亭笑一

いよいよテレビも始まって、テレビの進行と同期させようとしていますが、脚本家、演出家は、原作とは異なる竜馬像を描きたいのでしょう。なかなかに難しい。

それでこそドラマで、原作に忠実にやっていたのではモノマネですからね。文聞亭の抜書きする部分も、司馬遼太郎の思いとは全く関係なく、私の趣味で選んでいます。ちょっと余談を書きたいところ、そんなところを勝手に選びます。

今回も土佐人気質について触れてみたいと思います。竜馬の原点ですからね。

3、坂本家は城下では随一の金持ち郷士であったが、身分は、家老・福岡家預かり郷士、ということになっていた。竜馬を江戸にやるについては福岡宮内の許しが必要だったし、あわせて藩庁への届けも、宮内を通して計らっていただく。

竜馬の家は、商人から曽祖父のときに侍株を買って武士になった家です。後ろ盾に土佐では豪商の才谷屋が控えていますから、お金の苦労はありません。侍になってもらった役目は山内家の御陵番…つまり、墓守です。仕事らしい仕事はほとんどありません。墓の掃除が仕事ですが、同僚もいますし上役だっていて、墓掃除に毎日出かけることもありません。

出勤して、墓の周りを見回って、弁当を食って帰るだけです。こういう仕事って良いですねぇ。相手は墓石ですから、機嫌を損ねる心配をしたり、お世辞を言う必要もありません。植木好きだったら、花や木の手入れなどして、趣味と実益が叶う仕事です。

竜馬が江戸に行くにあたっては、殿様の許可が必要です。これをしないと「脱藩」ということになり、脱藩者は死刑相当の重罪犯です。後に、竜馬は脱藩して京へ上りますが、最初の、江戸への剣術修行は正規の手続きを踏みます。

家老の福岡宮内はまだ若く、どちらかといえば政治の中心から外れていた閑人ですが、その妹の田(た)鶴(づ)は美人の噂が高く、竜馬たち若者の憧れの的です。テレビドラマでは、ほかの女性と複合させて、「平井加尾」と名前も変えて広末涼子が演じていますが、「龍が翔る」では原作どおり田(た)鶴(づ)にします。津本陽の「龍馬」では「お琴」ですね。ともかく、剣術仲間の妹という点では共通しています。

そういえばテレビでは「龍馬」ですが、原作では「竜馬」です。

4、兄の権平が門脇に立ち
「竜馬、もはや、行け」
と命じ、はかまの前紐に両手を差し入れて、朗々と当時流行の詩を吟じ始めた。権平は不器用な男だが声だけは良い。
男子志を立てて郷関を出づる
学もしならずんば死すとも帰らず

幕末のこの当時、歌といえば民謡、謡曲、都都逸、小唄などだったと思いますが、詩吟なども盛んだったようです。詩吟といわれても頼山陽の「鞭声粛々…」くらいしか知りませんが、なんとなく厳かで、弟の門出を祝うには雰囲気がありますね。最近では卒業式に「君が代」も「仰げば尊し」も歌わないようですが、人生の節目には歌があったほうが良いと思います。歌というものは意外に忘れないもので、歌詞も、曲と一緒に脳の中にしまいこまれているらしく、ボケ老人でも昔の歌は最後まで記憶の中に残るようですね。

男子志を立てて郷関を出づる 学もしならずんば死すとも帰らず

なんとも悲壮なる決意ですが、これくらいな覚悟がないと志とは言わないのでしょう。

近頃は会社に入ってから三日、三月、三年の節目で辞めていく若者が増えているようで、なんとも心もたないのですが、志のレベルまで目標を昇華できていないんでしょうね。

こういう人たちが世に溢れ、派遣村を賑わし、他人の保護を受ける世の中が福祉社会というのなら、文化も文明も衰退してしまいます。とかく現代は他力本願の発想が多すぎて、幕末から明治の逞しさが薄らいでいます。明治の躍動感を生んだのはハイカラとバンカラ(蛮カラ)ですが、国会議論で「成長戦略」を考えるのならば、バンカラ文化の復活も考えて欲しいものです。ばら撒き福祉では成長は望めません。

5、純信という若い僧がいた。
彼はお馬の歓心をかうために、城下で最も人の賑わう、播磨屋橋のたもとの小間物屋「橘屋」で馬の骨のカンザシを一つ買った。・・・・・・これが城下に広がった。

土佐の高知の民謡ではヨサコイ節がつとに有名です。かつて、ペギー葉山の「南国土佐を後にして」で有名になりましたが、最近ではヨサコイソーランという節回しになって、小学校の運動会などでの定番になってきました。南国のヨサコイ節と、北国のソーラン節が合体したのですから、まさに国民的民謡ですねぇ。

土佐の高知の 播磨屋橋で 坊さんカンザシ買うを見た よさこい よさこい

あまりにも有名になった歌詞ですが、当時、土佐の本場ではヨサコイ節には定まった歌詞はなかったようです。それぞれが即興で作詞して、その妙を競い合うのが流行していたようです。

この歌詞を作ったのは誰かわかりませんが、からかわれたのは純信という若い修行僧と高知一の美人といわれたお馬さんです。お馬さんの歓心をかうために、妻帯を禁じられている坊主までが夢中になったとはやし立てているのです。

このお馬さんは竜馬の母の親類筋で、竜馬とは幼馴染です。広末涼子の演じている役柄の中に、このお馬さんも加えられているかもしれませんね。お馬さんの母親は坂本家で女中奉公をしていたこともあって、竜馬の家にはよく遊びに来ていたようです。それを狙って、竜馬の友人の若侍や、修行中の坊主までもが、坂本の家に集まっていたようです。

この坊さん、歌で有名になりすぎて、和尚から大目玉を食ったようですね。

6、竜馬は左手を懐に入れて歩くのが癖である。右肩に、竹刀、防具を担ぎ、これも癖で、左肩を少し落とし、ひとあし、ひとあし、軽く踏みしめるように歩いていく。その割に足は速い。この癖は4,5年前についてしまった。竜馬が15歳の頃、当時若侍の間ではやっていた座禅を軽蔑し、「座るより歩けばよいではないか」
とひそかに考えた。

理屈と膏薬はどこにでも張り付く……といいますが、竜馬も座禅が嫌いな理由を彼なりの理屈で正当化します。精神を集中するだけならば、別に禅の作法はいりませんからね。

ただ、歩いているだけでは集中力が持続できないから座るのですが、歩きながらでも集中力が持続できるのなら、竜馬の言うとおり歩いたって良いのでしょう。

最近の座禅会では椅子に座って瞑想をすることも増えてきました。背もたれに寄りかからず、背筋を伸ばして座り、腹式呼吸で瞑想に入ります。足が痛くならないだけ助かりますが、座禅の雰囲気は薄らぎますね。

竜馬の旅のルートは現在の土讃線が通っている山越えです。途中に大歩危、小歩危などの渓谷を抱えた吉野川に沿って、阿波池田から徳島に向かい、鳴門海峡から淡路島、大阪の天保山へと舟で渡るルートです。

鳴門の宿で、あろうことか有馬へ湯治に向かう福岡家の田鶴と相部屋になりそうになります。慌てた竜馬は宿を飛び出して浜で寝ることにしますが、土佐の若者らしい微笑ましい記述がありますので引用しておきましょう。

7、浜で寝ることには慣れている。砂上の宴は土佐の若侍の習いなのであった。日野根道場にいた頃、お盆や中秋の名月の夜には、仲間とよく桂浜に出かけた。浜辺に筵を持ち出し、終夜、酒を飲む。
思い出すと、この月ほど豪儀な月はなかった。
東は室戸岬、西は足摺岬が、海上35里の太平洋を抱きかかえ、月はその真ん中を茫洋と登ってくる。竜馬がこの先、どの土地を転々としようとも、おそらく終生忘れられないものだろう。その頃、道場の仲間が歌った
みませ みせましょ 浦戸を開けて 月の名所は桂浜

若い頃の原風景は、その人の生涯を通して、一つの生き方を示唆します。大平原に育った者や、大海原を見て育ったものは進取の精神が旺盛です。地平線、水平線の彼方に夢を描きます。一方、山間の盆地に育ったものは、小世界での安定を目指します。どちらかといえば守りの思考が出やすくなりますね。

ところで引用したヨサコイ節の一節…猥歌です。わかりますか(笑)

ヨサコイという囃し言葉は「夜さ来い=夜這い」の意味とも言われますが、高知城建設時に歌われた木遣り歌で、「よいしょこい」の訛り(なまり)だとも言われています。