大阪しぐれ(第13号)

文聞亭笑一

国抜けした後の龍馬の軌跡については余り資料がありません。彼にしては珍しく、あまり手紙も書いていないのです。竜馬はぼんやりしたズボラな半面で、実に筆まめで、現在分かっているだけで135通の手紙が残っています。尤も、そのうちの80通は龍馬の晩年である慶応三年に書かれていますから、この時期は書かなかったのかもしれません。

藩の役人から追われるお尋ね者の立場ですからね。国外逃亡は重罪なのですから、居場所の分かるような証拠書類は残さなかったのでしょう。乙女姉さんへの手紙でも『読んだら焼き捨てよ』と書いたものも見つかっています。焼き捨てられた可能性もあります。

現存するものは乙女姉さん宛の手紙が17通、兄・権平や、姪の春猪宛も含めて11通。家族に当てた近況報告は計28通で、これは年代にかかわらず書かれています。

この手紙をベースに書かれた小説が津本陽の「龍馬」5巻で、司馬遼とは一味違う着眼点で、なかなかに面白い小説です。

竜馬は薩摩に入国を断られ、長崎から下関に渡ったと推測されています。当時の下関は攘夷浪人のたまり場で、龍馬の先輩である吉村寅太郎なども長州藩に保護されていました。全国の攘夷浪人が逃げ込む場所は長州の下関だったのです。

龍馬が薩摩藩から入国を拒否されたのは、薩摩藩の複雑な事情によります。先代の島津斉彬は篤姫を幕府に送り込み、佐幕的色彩がある半面で、西洋の新技術の導入には積極的でした。一方、現在の実力者、島津久光は尊皇家ですが、複雑な性格の持ち主で、西郷隆盛などは奄美に島流しにされています。藩内がまとまっておらず、余所者を入れるゆとりがありませんでした。

下関も、竜馬にとっては居心地の良い場所ではありませんでした。することがないのです。 中央の情報も入りませんし、旧知の桂小五郎は京都です。竜馬は大阪へと向かいます。

66、「弥太郎、抜いたか。けなげだな」
竜馬はしんから感心した。
「しかし惜しい。お前は不浄の小役人になって上司のあごで使われているような男ではない。天下は動いちょる。同じ死ぬなら、竜馬の刃(やいば)にかかるよりも、日本のために死なんかい。お前には土佐は狭すぎる」

竜馬は天性の無警戒さです。脱藩というのは当時、重罪で、連れ戻されて投獄されるか、逆らえば斬り捨て御免になります。にもかかわらず、土佐訛りが懐かしくて土佐の商人の店に出入りしたり、土佐藩の蔵屋敷にまでノコノコ出かけます。

手配書が回っています。さらに、吉田東洋殺しの犯人と疑われていますから、重要指名手配犯人です。直ちに土佐に通報されて刑事兼死刑執行人が派遣されます。

下横目として派遣されたのが、なんと、井上という男とともに岩崎弥太郎でした。

無警戒、天真爛漫な竜馬ですからすぐに見つかります。

斬り合いになるところですが、竜馬の腕は弥太郎が良く知っています。百に一つも勝ち目はありません。が、同僚の井上が刀を抜いているのに、自分が抜かないわけには行きません。井上への付き合いで刀を抜いたのです。

井上が斬りかかりますが、相手になりません。刀を叩き落されてしまいます。

しかし、助太刀するはずの弥太郎はいません。一目散に逃げ去っていました。

弥太郎は最初からやる気がないのです。説得して連れ帰り、吉田東洋殺しの黒幕は武市半平太だと自白させて、武市一味を捕らえ、解散させたいだけです。

竜馬を斬ることなど最初から考えていません。

67、この岩崎弥太郎、その時節が来れば千万人が相手でもやる。もし、それが勝つ喧嘩ならばだ。しかし、負ける喧嘩ならば、一人が相手でもわしは逃げる。 (略)
竜馬はきっと大仕事をする。俺にはそれがない。

勝つ喧嘩ならする。負ける喧嘩はしない。喧嘩に勝つための鉄則で、喧嘩をしたことのあるものなら誰でも知っている常識です。交渉ごとも喧嘩の一種ですから、この法則が当てはまります。外交交渉などでも同じで、闘って不利な相手とは戦わないか、落とし所を考えた上で駆け引きを展開します。北の将軍様などは交渉術だけ見ていたら、なかなかのものですねぇ。米中露という大国相手に、なかなかの粘りです。まぁ、感心しているわけにも行きませんけどね。

弥太郎の人生は喧嘩の連続でした。後に土佐藩の長崎出張所責任者として国内外の要人と交渉ごとの連続ですが、相手に応じて土佐側の役者を選び、ほとんどの交渉ごとに勝利していきます。薩長が相手なら竜馬を使い、幕府が相手なら後藤象二郎を使うなど、見事なキャスティングです。勝利の花は役者に持たせ、自分はしっかりと実利を確保する、そういうしたたかさを身に付けていきます。

68、大名行列などは、江戸文化が作り上げた珍妙きわまるものだが、それを滑稽と見たのは当時来航した外国人以外になかった。たった一人日本人に求めるとすれば、この土佐の山奥から出てきた弥太郎のほかにはいまい。

大名行列というのは、大名たちに浪費をさせるための手段です。要するに金のバラマキをするための行列で、石高に応じて供揃えの数、駕籠や馬の装飾まで事細かに決められていました。自前で人数を揃えるのは大変ですから、人足を臨時に雇います。その人足を手配するのが口入屋で、いわゆるヤクザの親分が担当していました。今で言うところの派遣会社です。行列の先頭で毛槍を振り回し、踊るように歩く足軽ヤッコなどは当時の芸能人の一種で、高い料金を取っていました。何人かの大名の行列が重複する場合などは、町のごろつきを臨時雇いして賄いますが、派遣された場所では武士として処遇されますから、威張り散らしてワルサを働きます。庶民から鼻つまみにされる連中ですね。芸能人の麻薬汚染が耐えませんが、ルーツを辿れば彼ら、奴さんに行き着くかもしれません。

外国人にとって、さらに珍妙なのは土下座して行列を見送らなければならないことです。

自分の藩の殿様ならまだしも、縁もゆかりもない大名にまで土下座をさせられたら堪りません。街道の村はずれに子供を立たせておいて、行列が来たら子供の知らせで家の中に逃げ込んでしまうのが普通でした。

この風習を知らず、かつ日本人を中国人と同視して、傲慢に振舞ったのが香港から横浜に来たばかりのイギリス人4人でした。島津久光の行列に対向して乗馬のまますれ違おうとします。先導の武士の制止に知らん顔をし、行きすぎようとします。それどころか「どけ」と怒鳴ります。怒った薩摩武士が斬りつけ、一人を殺害、もう一人に重傷を負わせます。これが生麦事件で、後に、薩英戦争に発展します。

「日本人など怒鳴り散らせば引っ込む」と高をくくっていた英人の傲慢さが事件の原因でで、非は明らかに英国人にありました。「郷に入ったら郷に従え」は世界共通のマナーですが、植民地支配に狎れた外国人がこのマナーを無視したのです。この事件で薩摩藩は非難される筋合いはありませんが、弱腰の幕府は薩摩の責任を認めてしまいます。

なんとなく…現代の日本外交も似たところがありますね。

69、以蔵には、学問も知恵も無い。
ただ、師匠武市への盲従だけがある。いや武市半平太の勤皇攘夷宗の狂信徒といって良い。武市勤皇党は、言い換えれば、土佐藩における軽輩武士結社である。
その結社が藩政を牛耳れば、以蔵にも日が当たるかも知れぬ。

岡田以蔵が大阪に出てきていました。彼は脱藩したのではなく、公務出張です。

武市半平太の指示で、京大阪に駐在し、情報活動に当たっていました。

「竜馬が襲われた」というニュースはたちまち彼の耳に入ります。尊敬する武市半平太の盟友であり、個人的に恩義のある竜馬をつけ狙う藩の横目付けなど斬ってしまえと、仲間を糾合します。以蔵はもともとが激しやすい性格ですから、即座に行動に移ります。

竜馬を逮捕するか、斬り捨てるつもりでやってきた井上と、弥太郎は、今度は彼らが狙われる立場になりました。

危険を察知した弥太郎は、さっさと土佐に逃げ帰ります。

一方、マジメな井上は役目柄と大阪に残ります。気の毒に…後に、人斬り以蔵と呼ばれて怖れられた岡田以蔵の最初の犠牲者になってしまいました。井上もやはり土佐のイゴッソウだったんですね。頑固一徹、職務に忠実でありすぎました。