憧れの長崎へ(第23号)

文聞亭笑一

いよいよ竜馬と船の出会いが始まります。神戸に海軍塾が出来て、航海の勉強は始まりましたが、肝心の船がありません。航海術を勉強するのに船がなくては、文字通りの机上の空論です。頼りにしているのは「幕府の軍艦を貸してやる」といった塾長の勝海舟ですが、言葉と裏腹に公務多忙で、練習用の軍艦にまで手が回らないのです。

この当時の勝は、将軍家茂に随行して二条城や、大阪城に詰めきっていました。家茂は若いだけに外国の知識や軍艦の知識を知りたがり、勝をそばから離さないのです。勝も若い将軍にすっかりほれ込んで、この将軍なら攘夷派を説得して公武合体の実を上げてくれるのではないか、そんな期待もしたようです。家茂も、好奇心旺盛で、海外の政治制度や法律、軍備などを研究していました。海軍についても前向きに検討していたようです。勝の意見にはおおむね了解のサインを出していたのですが、老中などが反対して実現はしませんでした。なんと言っても将軍とは名ばかりの傀儡だったのです。

竜馬は江戸に出ます。

海舟の紹介状を持って、開明派の幕府重役・大久保一翁に会い借船の直談判です。

何とか…使い古しの練習船である蒸気船・観光丸を借り受けました。

この江戸行きで、竜馬は千葉さな子からプロポーズを受けます。それを…受けるとも、受けぬとも言わずに羽織の肩袖をちぎってさな子に渡します。これをさな子は…受けてくれた、許婚(いいなずけ)だと思い込んで、坂本竜馬・妻として生涯独身で過ごします。

105、「百姓町人ではいけませんな」
竜馬は首を横にふった。
百姓町人は徳川の政策で自分の階級に誇りをもてないように訓練されてきている。
それに、欲望があって教養がない。(略)社会に対する一種の無責任階級になっている。そういう階級からは、私欲を無視して公共のために働こうという物好きが出にくい。

「サラリーマンではいけませんな。無党派では…云々」という風にも捉えられます。

現代においても同じような状態にあるわけで、一般庶民は政治にあまり関心がありません。「そんなことはない…」と反論されそうですが、各種の選挙での投票率を見れば無関心そのものです。特に都市部での投票率の低さは、目を覆うばかりです。国民の皆様は会社第一で、政治はテレビ桟敷での悲喜劇として楽しむものと思っているのではないでしょうか。

現代には法的な階級はありませんが、労働者と管理職、それに経営者という階級があります。これに加えて派遣、アルバイトという階級まで出来て、階級に応じて賃金に差が出来ています。一種の経済階級ですが、無党派層というのは政治的行動を起こさない評論家ともいえます。

評論家といえば上品ですが、司馬遼太郎のように欲望があって教養がない、社会に対する一種の無責任階級といわれたらどう感じますかねぇ。

「そんなことはない」と声を大にして反論できる人は…少ないのではないでしょうか。

無党派がいけないのではなく、無責任がいけないのです。その最たるものがマスコミで、政権交代を煽っておきながら、自分の気に入らない政策については政府を叩きます。

無党派の、無責任な人の動きを言論で左右しながら、競馬予想にうつつを抜かします。その予想屋に釣られてムードに流される国民の皆様も馬鹿ですけどねぇ。

106、船舶をほとんど独習したといって良い竜馬は、この男なりに一種の勉強方を工夫していた。軍艦奉行勝海舟の手元にある各艦船の航海日誌を、片っ端から読んだのである。

竜馬はほとんど系統立てた学問をしていません。まともに指導を受けたのは剣術だけで、それ以外は手探りでの独学です。船には強い好奇心がありますから、船旅をするたびに船頭の手伝いをしたり、自ら動き回って船舶の原理を学習します。好きこそ物の上手という言葉通り、次々と習得していきます。基礎知識はありませんが、応用力は凄いものがあります。習い事は守り、破り、離れる、といいますが、竜馬の場合は破り離れるしかありません。英語もオランダ語も分かりませんから、言葉はそのままイメージにしてしまいます。

わざわざ日本語に変換する手間が要りませんから、むしろ習得は早かったかもしれませんね。ですから航海日誌にある専門用語(英語、オランダ語)も問題なく読めるのです。

神戸海軍塾は自前の船を手に入れて、ようやく本格的な演習が始まりました。後に海援隊の主力になるメンバばかりでなく、各藩から派遣された留学生たちも研修に身が入ります。

後に連合艦隊の司令長官として日清戦争を戦った薩摩の伊東祐了も「わしゃぁ海軍を竜馬から習った」と自慢していたそうです。

そんな竜馬に、勝から「長崎へ供をせい」と声が掛かります。

107、竜馬は長州びいきである。理知的には勝の開国主義に同調し、感情的には長州の勇敢な攘夷活動を支持している。この矛盾、複雑さは、おいおい意外な方向に統一されていくのだが、彼の長州びいきは生涯変わらない。

長崎への途中には関門海峡があります。長州は沿岸に幾つもの砲台を築き、海峡を通過する外国船には無差別砲撃を加えていました。夜間には国籍に関係なく、蒸気船と見れば発砲していたらしく、薩摩の船を撃沈してしまったりもして、薩長の悪感情に油を注いだりもしていました。

長州も、さすがに日章旗を翻(ひるがえ)して航行する幕府の軍艦には発砲してきません。まだ、長州征伐は始まっていないのです。竜馬は水夫と一緒になってマストに登ったり、帆の上げ下ろしをしたりと軍艦の操船に夢中です。

勝海舟は、長崎へ入るのに船では行かずに途中の伊万里湾に入り、そこから陸路を長崎に入ります。これは長崎奉行所の面倒な手続きを嫌ったことと、佐賀・鍋島藩の動きを見ておきたからでしょうね。後に明治政府では薩長土肥と呼ばれる維新の主役ですが、このころは黙々と財政基盤の充実に専念し、中央での政治には参加していません。

勝からすれば、佐賀・鍋島は広島の浅野藩と並んで少々気になる藩でした。

108、竜馬の胸中に、構想が浮かんだ。
彼の夢想である私設艦隊の根拠地は、ここ長崎以外にないと思ったのである。対上海貿易で利を稼ぎ、それを以ってどんどん軍艦を増やし、日本最大の海上王国を作り、かたわら、薩長と連合して幕府を倒そうと思った。
勝も妙な男である。竜馬が倒幕論者であるということを知り抜いていながら、竜馬の成長を助けるために長崎くんだりまで連れてきている。

長崎では幕府の重役・勝海舟を迎えて、役人たちが大げさな行列を用意します。勝や龍馬が動きまわるにも、ちょっとした大名行列です。殿様の駕籠の脇を浪人が歩くのですから変な行列で、長崎市民には目立ちましたね。

龍馬は長崎の地理にすっかりほれ込みます。ともかく「外国」との交易地である上海に最短距離にあります。欧米の商船が長崎に入るのは年に1−2往復だけでしたから、上海・長崎の定期航路を作れば確実に利益が生み出せます。龍馬が狙ったのは海運業で、商業の利益よりも運賃収入でもうけようとしたようです。こういう所は、岩崎弥太郎の方が商才があって、弥太郎は長崎出張の時に土佐名産の樟脳が外国に高価で売れるという情報を掴んでいました。事業家としての才能は弥太郎の方が上手です。

勝は竜馬を育てている。いわば「勝大学」といってよかった。
学長は勝、学生は竜馬ただ一人である。
教授陣は、勝の知友たちであった。
越前福井藩老公・松平春嶽、幕臣大久保一翁、熊本藩の横井小楠。移動大学といって良い。

勝海舟は元々が貧乏旗本の息子で下町育ちです。幕府の中枢に入って高級旗本や殿様たちと付き合いますが、やはり居心地が悪かったのでしょう。気楽に本音を語り合えて、しかも自分の手足として使える行動派の人材、つまり自分のダミーが欲しかったのでしょう。そのニーズにぴったりだったのが竜馬で、行動力は抜群です。好奇心は勝以上に旺盛です。

長崎への旅は、長崎の実態を見せること、外国人商人と人脈を作らせること、そして、帰りには熊本に立ち寄り、横井小楠の新政府構想を学ばせることでした。

大政奉還、船中八策と続く龍馬の功績の基礎は、横井小楠の新政府構想を改善、発展させた延長線上にあります。