海上に藩を(第28号)

文聞亭笑一

竜馬と西郷の出会いは、幕末史の中では「そのとき歴史が動いた」といって良いほどの出来事だったとおもいます。長州をやっつけて意気揚々と凱旋してきた西郷に、竜馬が真っ向から異を唱えます。

かたや大薩摩藩の軍事司令官、そして一方は神戸操練所が閉鎖されて追い出された失業者です。立場の違いは歴然としていますが、竜馬はそんなことには無頓着ですし、西郷のほうも「勝先生の一番弟子」と、むしろ、尊敬の念を持って接しています。

ここらあたりですね。人の器量、度量といわれるものは互いを尊敬しあうところ、相手の長所を認め合うところでしょう。そうでないと歴史を変えるような改革は起きません。

選挙だ、選挙だと、相手をやっつけることしか考えていない政治家には歴史的転換は期待できません。ドン・ガマ親父に嫌悪感を覚える人が多いというのも、その意味では日本人の政治感覚が正常な証拠ではないかと思っています。選挙の結果はどうあれ、破綻に向かってまっしぐらの国家財政を、どう立て直すか…そのことこそ、現代の日本の国難です。

「税制について超党派の議論を進めたい」結構な機運です。呉越同舟、党利党略を離れて、真剣な議論と協力を期待します。

125、西郷は竜馬の理想を聞きたかった。しかし、竜馬は言わなかった。いえば、この時勢の今の段階では、西郷でさえ竜馬を危険思想家であると見ることを知っている。
竜馬の理想は、幕府を倒すと言うことでは西郷と一致している。次の政体は、天皇を中心にするということでも一致している。しかし、西郷の革命像は諸藩主の合議制であった。無論その下に士農工商と言う階級がつく、温存される。
竜馬は違っている。天皇の元に一切の階級を雲散霧消させることであった。

下駄屋の息子でも大統領になれる…勝海舟から聞いたこの言葉こそ、竜馬の政治哲学で、饅頭屋の長次郎が政治家として堂々と発言できる日を夢見ているのが竜馬なのです。

それを西郷に言っても理解されません。西郷隆盛は偉大なる人物であったことは間違いありませんが、身分制度については城山で切腹して果てるまで堅持しました。明治新政府になってからも、不平武士に担がれて西南戦争を起こしてしまったのも、その原因は「武士」という階級へのこだわりで、維新後に困窮する武士たちを見ておれなかったのです。

上野公園に立つ西郷さんの銅像は実に庶民的なのですが、その心のうちは、武士という階級に大きなこだわりがありましたね。

竜馬の思想は、維新後、土佐を中心に巻き起こった自由民権運動に受け継がれます。

「板垣死すとも自由は死せず」この言葉は、竜馬が土佐へと引き継いだ果実です。

かつて「階級闘争」などという言葉が流行りましたが、現代ではこれが「格差解消」という言葉に置き換わり、革新といわれる政党のスローガンになっています。制度化された格差はなくさなくてはいけませんが、自由競争の中で出来てしまう格差は容認せざるを得ません。今年の株主総会では一億円以上の報酬を貰う人が公表されましたが、高額所得者をを一方的に「ケシカラン」と批判する風潮には???ですねぇ。

仕事の責任と報酬は比例して当然ですから、一概に評価できません。何も仕事をせず、無責任に遊びまわって年金を頂戴する…これも少々肩身が狭い気もしますよ。

126、「出来る男か」
「太か松のごとある。かと思うちょれば、細か柳の枝のごとある。胆大心小、古い英雄の面影があるが、あれほどの男が薩摩におればどいだけよかかと思う。
そいどん、あの仁は、一藩を新たに興すつもりだと申しちょった」

竜馬との会談を終えたところに、大久保一蔵(利通)がやってきます。

薩摩屋敷の庭先ですれ違って、「あれは土佐の坂本ではないか」と尋ねたあとのくだりです。

竜馬が見た西郷の印象は「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く」という言葉でしたが、西郷が竜馬の人物を表現したのがこの言葉です。

松か柳か…文学的ですねぇ。

西郷は「西郷さんのユッサ(戦)好き」などといわれるほど軍人イメージが強いのですが、実は文学青年のところもありました。師と仰いだ島津斉彬譲りの教養人です。

「一藩を新たに興す」というのは竜馬の海軍を指します。竜馬は幕府やどこかの藩に所属する海軍など夢にも想像していません。彼の頭にあったのは日本国の海軍で、藩とは独立しています。だから…藩という組織から抜け出せない西郷から見れば、一藩を新たに興す ということになります。

この会談で竜馬が西郷に求めたのは唯一つ、「日本の海軍を作るきに、カネをくれ」ということです。西郷は国許の責任者・大久保一蔵に竜馬の借金の口利きをします。

「わしゃかまん。さて、金庫番がのぉ」となり、「なら、直接口説かせばよか」となって、竜馬の薩摩行きとなります。

127、この船には薩摩藩家老小松帯刀、西郷吉之助が同乗していた。無論、陸奥陽之助ら竜馬の同志も全員この船に乗っている。いや、乗っているどころか船を運転していた。
「坂本さんは偉か仁じゃ。剣は千葉仕込み、船は勝仕込み、どちらの筋目も日本一じゃ」
と、薩摩人たちは言った。実際はそれほどの航海技術ではないのだが、勝海舟と言う名前で竜馬は得をしている。

薩摩は神戸の海軍伝習所に20人近い藩士を留学させていました。日清戦争の伊東祐之などもその一人で、日露戦争の東郷平八郎がその後輩です。勝がボロ舟・咸臨丸で太平洋を渡ったというのは、当時すでに伝説的偉業として薩摩の田舎にも知れ渡っていたのです。

勝先生の一番弟子…竜馬についたこの評判は、当時の軍艦乗りにとっては、眩しいほどの肩書きでした。まるで…竜馬が咸臨丸で太平洋を横断したかのようなイメージが先行していたんですね。後に、いろは丸沈没事故という海難事件がありますが、このときも紀州藩は、相手が坂本竜馬だというので「多分・・・こっちが悪かったのだろう」と気おされして、賠償金を払わされています。評判というのはなかなかに無視できません。

竜馬の仲間たちは神戸仕込のカタカナを連発して操船します。帆柱といわずマストといい、帆といわずセールといいます。これだけでもう…薩摩の船乗りは感心してしまったのです。

似たようなことは現代でもありますね(笑)

経営の専門用語を乱発するだけで「あの人は凄い」などと尊敬されたりもします。

が、こういう演技はすぐに化けの皮がはがれます。これまた昔ながらの繰り返しです。

128、<薩摩は驚嘆すべき勢いで成長している。もう2,3年もすれば幕府と対立する 強大な藩になるだろう>
と、竜馬は見た。土佐も長州も、数年後には薩摩の足元にも及ばなくなるだろう。
<この藩と長州を握手させれば>という発想が、 竜馬の胸中に、特にきらびやかな光芒を帯びて去来したのはこの時だった。

鹿児島に上陸し、西郷の案内で島津の先代・斉彬が導入した西洋工業の工場を見学させてもらいます。竜馬にとっても初めて見る機械が多く、ただただ驚くばかりです。

薩英戦争で英国艦と戦ったという砲台も見せてもらい、その先進性に驚かされます。

この戦いは薩摩が負けましたが、しかし、戦死者の数は薩摩兵1人だったのに比べ、英国海軍では64名の死者を出しています。英国軍艦も3隻航行不能に破壊されています。

それだけ、装備が新しかったということで、長州とは雲泥の差でした。

竜馬の胸中を去来したのは、きらびやかな夢だけではありません。

武市半平太を首領とした土佐勤皇党の仲間たちの顔、顔、顔でした。

土佐には、中浜万次郎がいたではないか。中浜万次郎を使って、薩摩に近代化工業を持ち込んだのは島津斉彬公で、土佐の殿様も大殿も何もせんかった…という悔恨の情です。

これからも、何もせんじゃろうとの思いが「なら、おれが」と亀山社中へつながります。

それだけでなく、土佐から離れて目を長州に向けるところが竜馬の視野の広さです。

薩長連合…この構想がひらめきます。薩摩の財力、軍隊の強さに長州人のひたむきさ、先進性・論理性が加われば、幕府を圧倒できると思いつきます。

龍が、いよいよ天を翔け出します。

薩長連合に向けて、竜馬の説得活動が始まります。

そのためにも、まず船が必要です。船を得るには薩摩藩から金を引き出さなくてはなりません。薩摩の、頭の固い財務官僚の説得に、竜馬の頭脳がフル回転です。

勿論、薩長連合への提案も含めて、西郷や小松をかき口説きます。