薩摩の巨人(第26号)

文聞亭笑一

いよいよ西郷さんが登場してきました。西郷さんと言えば東京は上野公園で、犬を連れて散歩している姿の銅像を思い出しますが、実に庶民的なイメージのする純日本人で、この銅像に似ているものを探せば葛飾・柴又駅前の寅さんの銅像でしょうかね。

明治の元勲と言うと、髭を生やして、偉そうな顔をしているものばかりですが、西郷像と桂浜に立つ龍馬像だけは普段着姿で好感が持てます。

西郷隆盛と坂本龍馬の出会いは後のことになりますが、この二人の出会いは歴史を大きく動かしました。その仲介をしたのが勝鱗太郎(海舟)で、竜馬は勝の脚本で動いていたともいえます。竜馬は西郷との最初の出会いで西郷の印象を次のように語っています。

坂本が薩摩から帰ってきて言うには「なるほど西郷という奴は、分からぬやつだ。

少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もしバカなら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」と言ったが、坂本もなかなか鑑識のある奴だよ。西郷に及ぶことのできないのは、その大胆識と大誠意にあるのだ。   (勝海舟;氷川清話)

胆識…とは分かりにくい言葉ですが、知識に判断力が加わって見識になり、見識に実行力が加わって胆識になると言われています(安岡正篤)

知識をベースに決断し、果敢に実行するということでしょうね。それに愚鈍と言われるほどの正直さが加わりますから、確かに大人物で、歴史上にもなかなか出てきません。

こういう政治家が求められますが…まぁ、100年に一人でしょうね。

117、少し抽象的にいうとすれば西郷という人は人間分類のどの分類表の項目にも入りにくい。たとえば西郷は革命家であり、政治家であり、武将であり、詩人であり、   教育家であったが、しかしそのどれを当てはめてみても西郷像は映り出てこないし、たとえ無理にその一項に押し込んでも、西郷は有能な職能人ではなかった。 つまり、職業技術者ではなかった。

これが司馬遼太郎の見た西郷像です。

龍馬伝をはじめとして、明治維新を扱う物語で、この時期から先、明治新政府が誕生するまでの間に歴史を動かした主役は西郷隆盛です。西郷が衆知を集め、西郷が決断し、西郷が動いたところに風雲が湧きたちます。この西郷が巻き起こした雲に乗って、龍の如くに天空を翔まわったのが竜馬なのです。その意味では西郷に知識を注入した勝海舟を加えた3人が明治維新という革命の主役ということになります。

この中で最後まで生き残ったのが勝海舟で、多くの物語は勝の回顧録「氷川清話」がベースになり、どの小説にも引用されていますね。

西郷を育てたのは、薩摩の先代の殿様・島津斉彬です。地方郷士の中から発掘し、お庭番として庭の手入れの手伝いなどさせながら、政治、文化、経済などのあらゆる知識を注入し、試させ、会得させていきました。西郷も斉彬を神のように尊敬し、やることなすことのすべてを真似したようです。ですから、西郷の事跡というのは島津斉彬の事跡でもあります。こういう師弟関係というのも素晴らしいことですし、教育の原点ですね。

現代にも小泉チルドレンがいて、小沢ガールスがいます。

どちらも…そこまでいくかどうか? 実に怪しいと思って見物しております。

118、武力ということについて西郷はこういう思想を持っている。
「外国との約束は誠実に履行せねばいかん。彼らが横車を押してきても条理を良く言い聞かせ、少しも動揺してはいかぬ。外国との交渉は曲げてはならぬ。たとえ負けても武力で筋を通さねばならぬ」
であるから、長州との戦でも
「長州を討て。しかし刀を上段に上げて斬らずにひざまづかせよ。号泣せしめよ。  そのうえで降伏条件を決めよ」

幕府による第一次長州征伐が始まります。長州征伐を主張したのは薩摩で、西郷です。

西郷はすでに、攘夷思想優先で外国との戦いを始めた長州に対し、徹底的に制裁を加えて外国との対等な条約を結ぶ開国路線に舵を切っていました。元々、島津斉彬は西洋技術導入派ですから、西郷が開国自立路線をとるのは当然ですが、諸外国の圧力に負けて国益を損なう幕府の弱腰外交には腹をすえかねていました。

引用した前段の部分が西郷の基本外交姿勢ですが、この通りやったのが薩英戦争でした。

薩英戦争には負けましたが、イギリスは薩摩武士の死を恐れぬ戦闘に度肝を抜かれ、それ以降は薩摩の支援に傾いています。薩摩を支援し、幕府をいじめるという外交路線に転換しています。

「長州を討て」以降の文が戦争抑止力というものです。圧倒的な軍事力を誇示して、相手の戦意を奪うという戦略で、前の総理大臣が「学べば学ぶほど分かった」ものです。

それを知らずにいると…哀夢総理(I’m sorry)と、ひざまづき、号泣することになります。

119、「そうか、なるほど長州にはそういう諸隊があるわけだな」
奇兵隊で代表される長州の「諸隊」というのは、旧来の藩制度の上にできたコブのようなものである。厳密には藩士ではない。 彼らの出身も町人、百姓、僧侶、神官、力士と言ったようなもので攘夷用に新設された臨時軍隊である。

当時の長州は教育水準が高く、知識レベルが高い分だけ攘夷という思想に燃えやすい環境にありました。どこの国家でも革命の前半は大学生による反政府デモがきっかけになりますが、ある程度の知識レベルがないと革命思想、民主化思想は浸透しません

長州では武士ばかりでなく、百姓、町人にまで攘夷思想が行き渡り、しかも、外国船が通過する関門海峡を抱えている分だけ行動が過激になります。

この軍隊を抱え、藩の方針を無視して幕府への徹底抗戦を叫ぶのが奇兵隊の高杉晋作です。

奇兵隊というのは一種の義勇軍で、デモ隊に武器を持たせたような熱狂集団です。

武士道も何もありませんから、西欧式の軍事体系をとりこむのに何の抵抗もありません。

最新兵器と洋式訓練で鍛えられた精兵です。

それに引き換え、幕府が組織した洋式歩兵部隊は、まず、旗本が入隊を嫌がりました。

鉄砲を担いで行進するなどは「足軽のすることで、武士のすることではない」と入隊を拒否していました。仕方がないのでヤクザやゴロツキを集めて訓練したのが幕府軍です。

それどころかこの第一次長州征伐で動員された各藩の軍隊は戦国時代の装備が大半でした。鎧(よろい)兜(かぶと)に槍や火縄銃といった時代遅れの軍隊が遠征していきます。まるで漫画です。

120、日本には古来血統崇拝の習俗が強く、この習俗が日本史の背骨をなしている。
日本人の家系の集約的中心は天皇家で、これに次ぐ神聖血族は公卿であるとされてきた。天皇を擁して旗をあげ、それが不可能なら公卿を担ぎ、それを天皇の代人として旗を揚げる。というのは古来の風習である。
幕末でも変わらない。むしろ時代的流行として、志士たちの間で楠正成と南朝の関係を模倣しようとする意識が濃厚であったため、歴史のどの時代よりもこの傾向は強かった。

勤皇思想というのは、まさにこの伝統的血統崇拝の宗教的権化です。

「馬鹿なことを…」と笑うかもしれませんが、ついこの間の敗戦のときだって「天皇制だけ残してくれたら、憲法などはそちらさまの御好きに」と占領軍に丸投げして作ってもらったのが日本人なのです。「世界に類例のない平和憲法」と現行憲法原理主義の人たちもいますが、国民的議論もなしに与えられた憲法を、60年も後生大事にしているのは日本人くらいなものでしょう。平和思想は否定しませんが、憲法の自主制定は戦後日本人のやり残した重要案件です。私たちの世代は生まれたころから現代まで、与えられた憲法のもとで生きていますが、自分らで作った憲法にして、子供や孫たちに残してやりたいものです。

この、血統崇拝は日本人の基本的宗教観ですね。八百万の神というのは祖先崇拝のことで、自分が今ここにいるには800万人の祖先のおかげだという考え方に立ちます。

自分がいて親が二人います。親の親が二人ずつ、四人います。そのまた親が…

2のn乗で祖先の数が増えますね。さて何代さかのぼれば800万になるか?

意外に少ない数ですねぇ。27です。一代が25年として約600年前、室町幕府のころでしょうか。その頃の人口は800万人いたかどうか怪しいですが、…要するに、日本人全員がどこかで繋がっているという計算になります。ということは、現代人の全員に天皇家の血が流れているということになりませんかねぇ。

今週はドラマに関係ない話ばかりでしたね。失礼いたしました。