反動の嵐(第24号)

文聞亭笑一

池田屋騒動という事件は、追い込まれた長州藩が暴発するきっかけとなったというので、歴史的事件として教科書にも載る扱いをされていますが、それほどの大事件だったのかとなると…疑問も残ります。

禁門の変という朝廷内の政権交代で、長州勢力は京都から一掃されました。

それまでは主流派として朝廷を動かしていた長州藩が「賊」として京都から追い払われたのです。代わって薩摩藩と会津藩が主流派になります。薩摩の小松帯刀、大久保一蔵などが朝廷での政治を取り仕切り、松平容(かた)保(もり)旗下の会津藩兵が京都の治安を管理します。

その、会津藩の攘夷浪人特別捜査本部が、近藤勇以下の新撰組です。

長州政権の下では嫌われ者だった新撰組が、「官軍」として京都の町の治安を守ります。

そうなると、今までは正義の味方であった攘夷派の浪人たちは、一転してテロリストの扱いになり、官憲・新撰組に追われます。

テロリストとなってしまった攘夷派のアジト、それが池田屋でした。

「勝てば官軍」と言いますが、政争で勝った薩摩・会津が、負けた長州を徹底的に弾圧し始めます。この時点での新撰組は、輝かしい正義の味方です。

後に、官軍が会津若松城を攻めて白虎隊の悲劇を起こしますが、交渉によって戦いを避けようとした薩摩軍を押しのけて、皆殺しを主張したのは長州軍でした。江戸の敵(かたき)を長崎で…などと言いますが、京都の恨みを会津若松で晴らしたのです。そして…会津人の「長州憎し」の恨みは現代にまで持ちこされています。恩讐(おんしゅう)の連鎖・悪魔のサイクルですねぇ。

109、「公卿は田舎者の浪人どもの言説を信用し、・・・
海外の情勢も察せず、朕(ちん)が命をことさらに変えて、軽率に攘夷の令を布告し、
・・・みだりに倒幕の師を興さんとし、・・・
長門宰相の暴臣のごとき、その主人を愚弄(ぐろう)し、理由もなく異国船を砲撃し、・・・
かくのごとき凶暴の輩(やから)、必罰せずんばあらず

引用したのは孝明天皇の勅書を要約したものですが、かなり手厳しい内容ですねぇ。

昨日まで長州の意見を採用していたのに、翌朝は手のひらを返します。

これは孝明天皇の心変わりではなく、天皇の取り巻きの公家たちの「長いものに巻かれろ」という政治姿勢を典型的にあらわした文章でしょう。孝明天皇は幕府贔屓(ひいき)で、倒幕などということは全く考えていなかったようです。実はこの文章も、薩摩人・高崎達之助の書いたもので、「朕が命をことさらに変えた」文章にほかなりません。

公卿は…と言われているのは、三条実美以下の七卿を指します。

田舎者とは長州のことで、長州が攘夷浪人を集め、教唆していたと断じています。

かくのごとき凶暴の輩、必罰せずんばあらず

という勅書をもらっていますから、新撰組はまさに官軍・憲兵そのものです。

こういう勅書を出させながら、自らの手は汚さないという薩摩のしたたかさ、政治家ですねぇ。それに比べて会津藩は純朴に過ぎました。

110、久光は凡庸ではない。が、兄の斉彬に比べたら人間と泥人形ほどの違いがある。
西郷などは地五郎(田舎者)と吐き捨てている。
ところが、地五郎が薩摩の兵力を従えて京に上ると、意外にも天皇から非常な信頼を受け、長州藩にブレーキをかける機能として利用された。孝明天皇は極端な佐幕論者である。地五郎もそれに迎合して佐幕論者になってしまった。

薩摩藩は小松帯刀、西郷、大久保といったところが政治手腕を発揮していますが、藩内での決定権は藩主の父・島津久光が握っています。

これは土佐藩とて同じことで、藩主の父・容堂が実権を握っています。

この時期ではどこの藩にでも言えたことですが、藩内の意見が一本化されていたところなどは殆どありません。幕府寄りの公武合体派がいます。尊皇攘夷の急進派がいます。そして現状維持の日和見派がいます。どこの藩もこの三派が勢力争いを繰り返し、中央の情勢に応じて浮沈します。

西郷なども主流派になったり、島流しに遭ったりと紆余曲折していますが、実力者久光の機嫌を損ねないように気を使っていました。西郷が久光を最も嫌っていたのは、冠位などの、自己の栄達ばかりを求める態度だった様ですね。

現代でも勲章をほしがる経営者や政治家が目につきますが、企業の公器性や天下国家よりも肩書にこだわる人は、尊敬を受けません。

111、朝廷のお褒めがあった、ということになれば、池田屋での志士斬殺は、天下晴れての勤皇行為ということになる。
勤皇派の世論を抑えるために、幕府の知恵者がやったのであろう。
が、はたして、池田屋の変は徳川幕府という、すでに時代を担当する能力を失った政権の寿命を延ばすのに薬効があったのかどうか。
むしろ毒だったと言っていい。暴は、ついには暴しか生まない。

池田屋では熊本浪人・宮部鼎蔵など攘夷派の大物や、土佐藩士たちも大量殺戮の犠牲になりました。望月亀弥太、北添吉摩のように龍馬の腹心のメンバも混じっています。

特に龍馬にとって痛恨事だったのは北添吉摩の死でした。龍馬は京都で行き場を失った攘夷浪人たちを温存するために、北海道開拓団として屯田兵にする構想を立てていたのです。

そのために、幕府重役の大久保一翁を説得して、許可をとる運動をしていたのですが、大久保からの許可証が届いた日には、すでに池田屋の惨劇は終わっていました。

この時の幕府や朝廷の態度も疑問符が付きます。

幕府は新撰組に戦争での功労をたたえる「感状」を送っています。島原の乱以来、発行されたことはなかったものですから、250年ぶりに「戦争」と認めたことになります。

京都市街で「戦争」を起こしたということが、後々の徳川家の処分に、戦犯としての動かぬ証拠として残ってしまいました。

これを、司馬遼太郎は「毒だ」と断じています。

そうですね、口から軽口ばかり発する総理大臣も毒を吐いてくれています。教訓というものはなかなかに生かされないもののようで、その場しのぎの発言は政権の寿命を縮めます。

この時は幕府ばかりでなく、朝廷も大失策をしています。「よくぞ賊を退治した」と近藤勇に恩賜の刀を渡して褒め称えています。

新撰組はその意味で、維新戦争の最初のヒーローなのです。しかも、官軍なのです。

この思いが彼らをして函館の五稜郭まで闘い続けるエネルギーになりました。朝廷も罪なことをしたものです。

112、勢いである。人の運命も勢いに左右され、一国の運命も勢いに左右される、

勢いですよねぇ。全く同感です。「一国の運命も勢いに左右される」のです。

「政権交代」の旗印のもとに、国民全体が勢いづき、現在の民主党政権が誕生しました。

政治家たちは「マニフェストがどうのこうの」と騒いでいますが、そんなものは「攘夷」と同じく、只の旗印に過ぎません。耳ざわりの良い政策を並べ立てて、資金のことなど全くお構いなしに、人気取りに走りましたが、その勢いに選挙民はこぞって民主党に期待の票を入れました。こういう現象を勢いと言いますね。

勢いに関して、明治政府が発足した後に、勝海舟が至言を語っています。

ことをなすは人にあり

人を動かすは勢いにあり

勢いを作るは、また、人にあり

企業などでも勢いを出すがために、色々な手立てを考えます。キャンペーン、○○運動、XX集会、キックオフ、○○祭り・・・。

なんとかして勢いをつけようとするのですが、世の中はそんなに甘くありません。

普通、主催者の呼びかけに反応して「よしやるぞ!」と立ち上がる人が2割ほどいます。

「騙されてたまるか」と反発し、反対運動や抵抗運動を起こす人が2割ほどいます。

残りの6割は「お手並み拝見」と賛成派、反対派の争いを観察します。いわゆる日和見。

こういう現象を社会心理学では「2:6:2の法則」といいます。

この、6割の日和見族が、どちらかの勢力に雪崩(なだれ)を打って加勢し始めたとき…勢いになります。これをやりそこなったのが…辺野古、徳之島でしたね。逆噴射してしまいました。

辞任、大政奉還…となります。