男子の志(第17号)

文聞亭笑一

勝海舟の弟子として、竜馬の充実した日々が始まります。海軍操練所での日々は、とりわけ中浜万次郎先生との出会いは、竜馬の夢を限りなく広く、大きく育てます。良い先生にめぐりあうということは、人生での最高の幸運でしょう。

そういう良い先生になれるかどうか、これまた大変なことですが、先生というのは学校や会社にいたり、どこかに転がっているものではありません。自分で探すしかないものです。

小学校などの初等教育ではそうもいきませんが、中学生、高校生くらいになれば、「先生を探す、出会う」ことが、その人の人生を決めます。

竜馬にとっての勝鱗太郎は、最適、最高の教師でした。勝の伝手(つて)で竜馬の世界が一気に広がります。幕府の政治総裁である松平春嶽までもが交友範囲に入ってきました。身分の差から言えば、月とスッポンです。越前松平家は徳川御三家に次ぐ家柄ですからね。土佐の郷士からすれば、雲の上の人です。

80、「おらぁ、ニッポンという国を作るつもりでいる。頼朝や秀吉や家康が、天下の英雄豪傑を屈服させて国に似たものを作った。が、国に似たものであって、国ではない。源家、豊臣家、徳川家を作っただけじゃ。ニッポンはいまだかつて、国がなかった」
「先生、そりゃぁ歴史の読み違いじゃ」と山地が言った。
「いや。竜馬流の読み方ではニッポンに国はなかったわい。日本だけでなく、イタリアもプロシャも、ほんの最近まで国はなかった。諸君はイタリアを知っちょるか」
勝の受け売りである。

日本国という国家概念は坂本竜馬が打ち立てたものではありません。それ以前にも国学と言われる学問の分野では大和(やまと)、大八(おおや)洲(しま)、蜻蛉(あきつ)洲(しま)などという言葉で、概念は出来上がっていました。が、それを外から確認する人が260年間に一人もいなかったのです。

幕末になって漂流漁民である大黒屋光太夫がロシアから帰国し、中浜万次郎が米国から帰国し、そして、勝海舟や小栗上野介など幕府渡米団が米国の実態を見て、日本との比較を始めてから、徐々に実感を伴って意識され始めたのです。「百聞は一見に如かず、百見は一験に如かず」などと言われる通り、知識や概念だけでは意識は変わらないものなのです。

その、意識が変わって…ニッポンを行動の原則にしだした最初の男が勝海舟であり、坂本竜馬だったのです。一緒にアメリカにわたっても小栗は幕府の発想から出られませんでしたし、福沢諭吉にしても、学問という狭い範囲から抜け出ることはできませんでした。

この当時の人々の発想の原点は「藩」でした。尊皇攘夷とは言いながらも、薩摩、長州、土佐という狭い世界から抜け出せなかったのです。

我々も…当時の人を笑えませんね。会社、役所という「藩」からなかなか抜け出せません。

「ニッポンが潰れたっていいや。会社が潰れなければ問題ない」こういう発想の人が大半を占めますから、赤字の財政にも涼しい顔でいられます。

81、竜馬艦隊を持つということが、竜馬の尽きない夢であった。こういう男だがこの点だけは執念深い。恋に似ている、などという程度のものではない。
男子の志は、簡明直截であるべきだと、竜馬は信じている。

時代小説、歴史小説を読んでいると「志」という言葉が頻繁に出てきます。強い意志を持った夢…というような意味でしょうが、現代人にはピンと来なくなってしまいました。

志がなくなってしまったのでしょうか。

そんなことはありませんよね。希望とか、期待とか、Vision(ビジョン)などという言葉に変わりました。敗戦という、日本人にとって初めての体験が、それ以前に使われていた言葉を封印し、戦前に使われていた言葉を、すべて戦争に結びつけてしまうという…変な宗教発想が横行しだしてからの現象に過ぎません。

竜馬の夢を、志を、一言でいえば「船」です。船を戦争に使えば艦隊であり、貿易に使えば船団です。船という道具を使って、世界の海を駆け回る、これが竜馬の志です。

その夢を実現するには、まずは船が必要です。荒海を乗り越えられる蒸気船が必要になります。これは国家なり、藩なりが購入したものを借りれば済みますが、船を動かす人がいなければ使い物になりません。

竜馬艦隊を持つという夢のために、船を動かせる人材を育てることが先決だと、まずは自分から、そして仲間を集めて勉強しなくてはいけません。船は、師匠の勝海舟が幕府から借り受けてくれます。それがだめでも、全国の雄藩には、買っただけで動かせない蒸気船が十数艘もありました。加賀前田藩などは高額な蒸気船が、使われずに港に浮いていただけです。要するに砲台代わりの軍艦が港に浮いていました。

勝は、竜馬には溺愛という言葉がぴったりのほどの期待をかけます。馬が合うというのか、彼がアメリカで見てきた西洋人に発想が似ているというのか、ともかくも船員養成のすべての期待を、竜馬にかけます。

その点を司馬遼太郎は次のように分析しています。

勝は人物とみると偏愛の癖がある。しかも勝の評価眼があまりにも厳しすぎたために、彼が、「人物」と認めたのは、一生の間に数人にしかすぎなかったが、そのほかの人物は、里芋頭の<馬鹿>である。

勝海舟の発想法は、現代人のそれによく似ています。人格論などというものを無視して、使えるか、使えないかの審判をします。家柄などはもちろん無視しますし、頭の善し悪しも評価の対象になりません。勝と一緒に「やるか、やらないか」だけで評価しますから、当時の日本人で、勝が気に入る者など数人しかいなかったでしょう。徹底した能力主義の人でしたね。里芋頭…どういう頭でしょうか。

それがわからないから…里芋頭なんでしょうね(笑)

82、下田港には土佐藩の藩旗を翻した大鵬丸が停泊していた。三つ葉柏の家紋は、土佐山内家の象徴である。この船には山内容堂が乗っていた。
後に、三菱会社を起こした岩崎弥太郎は、土佐藩の財産を初期の会社資産にしたため、この三つ葉柏を より一層図案化して、三菱の社章にした。

以前にも書きましたが、三菱のマーク・スリーダイヤは山内家の紋所がルーツです。土佐藩の官営商社「土佐商会」を受け継いで、設立したのが三菱です。社章にしたどころか、社名そのものですよね。

山内容堂はすでに息子に社長の座を譲った隠居ですが、代表権付き会長という立場です。

息子の社長は、武市半平太に踊らされて尊皇攘夷をやっていますが、会長の親爺はそれが気に入りません。機会を見て武市一派を粛清しようと狙っています。

そんなところに幕府の軍艦奉行の勝がやってきて、竜馬の脱藩罪の無罪放免を求めます。

武市一派でなければ…と、あっさり土佐藩への帰参を認めます。これで竜馬は随分と動きやすくなりました。容堂は結構見栄っ張りなところがあって、腹の大きさ、包容力を幕府の役人に見せつけたかったようです。

83、竜馬には武市の成功に驚く気持ちもあるが、刺客を使うやり方が解せない。
<史上に名を残す男だ。しかしながら一流の名は残すまい>
武市の格調の高さは薩摩の西郷に匹敵する。その謀略は大久保に肩を並べ、その教養は二人よりも豊かである。しかも、人間感化力は長州の吉田松陰に及ばずとも似ている。が、最も重要なところで、武市は違っている。
<仕事を焦るがままに、人殺しになったことだ。天誅というのは聞こえが良いが、暗い。 暗ければ民はついてこぬ>

勝と出会ってから、竜馬はがぜん忙しくなりました。勝は幕府の役人ですから、気楽に外様大名や、他藩の有識者に会うわけにはいきません。その代理をするのが竜馬の役割です。

東奔西走…言葉通り、駆け回ります。特に、越前松平藩には頻繁に出入りします。殿様の松平春嶽をはじめ、横井小楠、三岡八郎など、竜馬のその後に大きな影響を与える人たちと出会います。

松平惷嶽は政治家としての能力は疑問ですが、時勢を捕らえる評論家としては一流の目を持っていました。後に、竜馬のスポンサー(株主)として大いに手助けをしてくれます。

武市半平太は…この時期、得意の絶頂にあります。

やりたい放題、勢い余って「粛清」に手を染めました。岡田以蔵を使って反対派を手当たり次第に暗殺します。土佐の以蔵、肥後の川上玄斎、薩摩の中村半次郎…この3人が「人斬り」と冠がつけられるテロリストですね。現代ではビンラディン一味というところでしょう。古今東西、テロで成功した政権はありません。