ジョン・万次郎(第7号)

文聞亭笑一

NHKドラマの第7回のタイトルは「遥かなるヌーヨーカー」となっていました。

土佐に帰った竜馬が、海外知識を仕入れるために河田小龍や中浜万次郎から知識を吸収する場面です。ですが…、この時期に中浜万次郎(ジョン・万次郎)は土佐にはいなかったものと思われます。幕府に呼び出され、米国との条約交渉の通訳として活躍していた頃なのです。肩書きもすでに幕臣です。竜馬などと直接話をする間柄ではありませんが、江戸でなら、佐久間象山の塾や、土佐藩邸で出会った可能性もあります。

どの小説を読んでも、時期の違いこそあれ、竜馬は万次郎からアメリカの知識を聞いたことになっていますが、かなり疑わしいですね。幕府も、土佐藩も、万次郎の海外知識は危険思想として警戒していたはずです。「平民から選ばれた大統領」、それ以上に「世襲しない大統領」などという知識は、士農工商・長子相続・鎖国の幕藩体制を否定します。

野放しにしておくはずがないのです。ましてや、ほかの地方よりも複雑な身分制度を基本にした土佐藩が情報公開するはずがありません。藩の制度をすべて否定してしまいます。

竜馬は、多分、絵描きの河田小龍から間接的に情報を仕入れていたと思います。後に、勝海舟から紹介されて万次郎と親しく付き合ったと思いますが、この時期ではありませんね。

ついでですから、ジョン万次郎の軌跡をおさらいしておきます。

万次郎は中浜の漁師の子供です。漁船に乗って海に出ますが嵐に襲われ、黒潮に流されて小笠原諸島に漂着します。当時は無人島でしたから、ロビンソン・クルーソー同様にアホウドリなどを捕まえて飢えをしのいでいました。そこにやってきたのがアメリカの捕鯨船です。救助されアメリカに渡り、教育を受けます。捕鯨船の船長から息子同様に可愛がられ、アメリカでも上流階級の生活をしていました。

当人は帰国する意思は薄かったのですが、日本に開国を求める捕鯨団体、アメリカ政府の意思で帰国させられたのです。幕府、土佐藩では罪人の扱いでしたが、薩摩の島津斉彬が重要な情報源として借り受け、薩摩近代化への情報源として重用します。

その後、黒船到来で慌てた幕府が、通訳として江戸に呼び出します。ペリー、ハリスなどとの通商条約は、万次郎なしには話にならなかったと思われます。オランダ語の通訳はたくさんいましたが、英語は全くダメでした。ペリーの一回目の交渉では、英語をオランダ語に通訳し、それを日本語にするのですから、丸が三角になっても不思議ではありません。しかも、常識が全く違いますからお話になりませんでしたね。

ペリーの二回目の来航では万次郎の通訳で、話が見え出しました。井伊直弼が開国の決心が出来たのも、万次郎が通訳したからです。その意味では、日本が清国のような窮地に陥らずに済んだ最大の功労者といっても過言ではありません。単なる通訳ではなく、アメリカ側の強引な交渉態度に、法律的に対抗していますからね。国際法の知識が全くなかった幕府の役人が、どれだけ救われたかわかりません。

竜馬や桂、西郷などと同様に、日本史上の偉人として称えられるべき人でしょうね。

23、江戸へ出ているうちに、いつの間にか竜馬には、
<同じ土佐藩士でも、上士は山内家の侍であり、郷士は日本の侍じゃ>
というような考えが、漠然と出来始めていた。土佐郷士には、高知城への忠誠心が、もともと薄いのである。

江戸の土佐藩邸でも上士と下士の区別はありました。ありましたが、剣術や学問の世界では身分で分け隔てすることはできません。やはり、実力勝負の世界なのです。それに、広い江戸では、土佐藩の特殊な身分制度は例外中の例外で、常識外れです。色々な藩の、色々な藩士と付き合ううちに、土佐藩の特殊性はおのずと見えてきます。

「わしが藩はおかしいぜよ」

おかしいと気づき、おかしい理由を竜馬なりに納得したのが山内侍と日本侍でした。

現代人も、会社に入って、会社の組織風土を教えられ、それになじんでいきます。それが普通だと、いつの間にか納得していますが、異業種交流会などに参加すると、自分の常識が、いかに世間からかけ離れているかを思い知らされることがあります。

「うちの会社はおかしいんじゃないか?」

こんな気持ちになったこともありましたね。「会社の常識、世の非常識」は結構あります。

「官庁の常識、世の非常識」「政権党の常識、世の非常識」

こんな話題で国会が荒れています。常識に戻らないと議論になりません。世の中の支持を集めることはできません。前政権は党と官僚の常識にどっぷりつかって自壊しました。

今度の政権党も、何か常識離れの結束力がありますねぇ。身内大切の論理では多くの国民の支持は得られませんね。

24、「すると竜さん、あんたは攘夷党じゃな」
「むろんそうです」
「アメリカを夷狄(いてき)と思ってばかにしちょるか」
「ばかにしちょります」
「それはならんぞ」
新輔は急に怖い顔になった。
「そのばかどもは、どえらい文物をもっちょる。医術だけじゃない。黒船も大砲も、どっさりもっちょる。それをどうするか」
竜馬は返事に困った。

黒船来航と時を同じくして、日本列島は揺れに揺れます。日本全国に大地震が頻発し、江戸も大地震に見舞われますが、高知も大地震と津波の被害に見舞われます。竜馬とて暢気に江戸での学生気分を味わっているわけには行きません。高知に帰ります。

竜馬の家族は、幸い無事でした。乙女姉さんも結婚して新輔さんの女房です。

乙女の亭主は長崎帰りの医者・岡上新輔、海外の事情にはオランダを通じて知識があります。黒船=攘夷!と単純な竜馬に説教します。まぁ、私の時代の安保騒動と同じです。

竜馬も、熱病に犯されて「攘夷、攘夷、異人はたたっ斬る」しか考えていなかったのです。

義兄の新輔だけではありません。竜馬の親戚筋は経済的に恵まれていたために、医者や学者が多く、長崎や江戸に遊学したものが多く、西洋の進んだ科学技術の情報が多かったのです。その分だけ、攘夷熱へのブレーキが利いていました。竜馬自身も、身内から論理的ブレーキをかけられると、攘夷運動にのめりこむわけには行きません。

この辺りが武市半平太との大きな違いになります。半平太の主催する土佐勤皇党に参加しますが、どこかで醒めていたのは情報量の差だったのでしょう。ジョン万次郎のアメリカ知識も河田小龍を通じて、かなり正確に仕入れていました。「西洋とまともに喧嘩しても勝てぬ」「たたっ斬る前に鉄砲でやられる」「鉄砲よりも先に大砲で吹き飛ばされる」・・・

こんなことは仲間の熱狂とは別のところで、冷静に理解できていました。

25、黒船渡来以来、江戸の中央政界や京都の論壇がどう動いているのかというのが、 遠国土佐人の強烈な関心であった。
だから、江戸や京都を見てきたというものが帰国すると、話を聞きにどっと集まる。
同じ遠国の大藩である薩摩や長州も同じであった。この三国は、彼らが遠国であるゆえにかえって中央への憧れが強く、中央の動きについては、江戸や京阪の市民よりもはるかに敏感であった。この三州の武士が、明治維新の原動力になったのは当然のことである。

遠国であるだけなら、東北も北陸も同じです。仙台60万石の伊達藩や加賀100万石の前田藩とて同様な環境にありましたが薩長土肥のように維新の原動力にはなっていません。

最大の違いは長崎との距離でしょうね。情報がありません。「攘夷!」と燃えますが、敵の姿が見えないのです。槍や刀、それに火縄銃でやっつけられると思っていますから、攘夷運動も上滑りします。How−toまでには思いが至りませんでしたね。 攘夷運動の中心になったのは京都ですが、京都との距離も情報力の大きな差になります。

西国の藩は、参勤交代の通り道で京大坂とは交流が盛んでしたが、東国は京大坂とは無縁でした。尊王攘夷運動が起こっても情報が入ってきません。情報はもっぱら江戸発=幕府発だけに頼っていましたから、体制派の情報に偏ってしまったのです。

それにもう一つ、民力の差があります。民力とは地域経済力です。

明治維新で官軍の主力となった薩摩(島津)、長州(毛利)、土佐(山内)、肥前(鍋島)の4つの藩は経済的に余裕がありました。薩摩は表向き70万石ですが、琉球を通じた海外との密貿易で150万石程の経済規模を持っていましたし、長州も表向き36万石に対し、100万石の実収入といわれていました。通商による富で財政的にゆとりがあったのです。後に維新戦争に入るにつけて、この情報と金が各藩の行動力の大きな差になっていきます。