花それぞれに(第21号)

文聞亭笑一

大河ドラマでは竜馬が中心ですから、どうしても土佐藩や薩長の人々が中心に描かれます。ましてや、岩崎弥太郎の目で見た物語ですから、幕府側の動きは見えません。

そのあたり、原作の「竜馬が行く」のほうがバランスは良いのですが、それでも、幕府中枢や会津藩、新撰組などの動きは関心が薄くなります。まぁ、当時の幕府の行動をざっくり言えば、「迷走」という一言で片付けられますが、幕府自らの自壊作用が着々と進行しています。

「日本国の将来をどうするか」という正論が抑えられ、目先の問題に如何に対処するかという、小手先の対応ばかりに奔走しています。

ここらで、幕府の自壊していくステップをおさらいしてみます。

まずは黒船来航以前に、外交方針を持たなかったことですね。国防策が全くありません。

「鎖国しているから国防はいらない」という考え方ですが、「戦争を放棄しているから攻められることはない」という平和主義と同じで、諸外国を信頼(?!)していました。

ペリーの黒船艦隊による脅迫的外交要求などは青天の霹靂(へきれき)にほかなりません。

次に、政権担当者ですから「攘夷か、開国か」を決断しなくてはいけないのですが、決めません。アメリカへの回答延期の策として「主権は天皇にある」などという詭弁(きべん)を使います。これが、尊皇熱に火をつけました。「そうだ! 日本の元首は天皇だったのだ」と国民の多くが、そのことに気がつきます。現代の誰かさんが「国民の皆様」を連発しているのに良く似ています。この時点で対外的には「主権放棄」を宣言したようなものです。

当然、京都の公家はそれを利用して、主権回復に動きます。薩長土などの外様雄藩もそれに便乗して、政権に参加しようとします。幕末騒乱の始まりですね。

少数野党が乱立し、政権与党と連立を組みながら、国政を私しようとしている現代とても、ますます似てきているのではないでしょうか。

まぁ、こんなことを睨みながら、物語の筋を追っていきましょう。

97、(略…お龍相手に蔵王権現に灯り続ける法灯の話をする)
人間仕事の大小があっても、そういうものさ。誰かが火を消さずに灯し続けていく。
そういう仕事をするのが、不滅ということになる。

勤皇浪士の一員とみなされている竜馬が、京の町をぶらついていれば、当然新撰組の標的になります。ましてや、幕臣・勝海舟の子分として、開国のための軍艦操練所の人集めをしているのですから、佐幕・開国派とも見られて、攘夷派からも狙われます。ともかく京都は物騒な町なのです。当然というか、なるべくして新撰組に遭遇し、斬り合いになります。たまたま、遭遇した新撰組の隊長が江戸・千葉道場の同門だった藤堂平助でしたから、手心を加えてもらって何とか逃げ切りましたが、肩に怪我をします。

寺田屋に戻って、お龍の手当てを受けながら…お龍の愛の告白に「結婚より仕事だ」といって逃げるのが、この抜き書き部分です。

「ヒトは死ぬ。しかし、その人の業績や、記憶はそれを守るものがいたら死ぬことはない。永遠に生き残る」 これは仏法の精神です。竜馬の口を借りて、司馬遼太郎が自分の人生観を語った部分だと思います。

「私は引退しますが、わが巨人軍は永久に不滅です」長嶋茂雄にもつながりました。

そうなんですよね。会社というものは一時の方便、金儲けの手段ばかりではないのです。

社是、社訓の精神が衰えない限り、永遠に続いていきます。そういう考え方の上に成り立っているのが「日本型経営」なのです。終身雇用、年功序列、カイゼンなどという手段ばかりが注目されますが、本質は「法灯の精神」ではないでしょうか。

竜馬が残した日本、それは「独立した通商国家」の理念だと思っています。脳天気な鳩が唱える平和福祉国家ではなかったと思いますよ。

98、魁(さきがけ)て またさきがけむ死出の道 迷いはすまじすめらぎの道(清河八郎)

大河ドラマには多分登場しないと思いますが、幕末の脇役として怪人と呼ばれる清河八郎に触れておきたいと思います。東北・山形は新庄藩の郷士で酒屋の息子ですが、江戸に出て尊皇攘夷の志士として活躍します。

弥太郎とは漢学で同門、竜馬とは千葉道場で同門、近藤勇をたきつけて新撰組を結成します。彼の思いは新撰組を天皇直属の親衛隊に衣替えし、攘夷運動の先兵とする構想でした。

が…、組む相手を間違えました。近藤、土方は熱烈な幕府信奉者で、清河の思惑通りには動いてくれなかったのです。しかたがないので江戸を中心に活動し、薩摩藩士などと徒党を組んで攘夷運動を展開します。が、道半ばで仲間に裏切られて幕府の刺客に斬られます。

勤皇の志士と言えば西日本中心と思われがちですが、全国区で展開していた大運動です。

ただ、東日本では藩の支援が得られずに野垂れ死にするものが多かったですね。

抜書きしたのは清河八郎の辞世ですが「すめらぎの御子」といえば天皇のことです。

倒幕、天皇親政が清河らの理想でした。清河の連判状・同志名簿には坂本竜馬の名前も載っています。多種多様な人物の混成部隊だったようです。

99、時は激しく動いている。
坂本竜馬といえば、その行くところ必ず風雲が起こるといわれたほどに時の動きを見るのに機敏な男になったが、しかしこの時期はなお、「風雲」に参加していない。
京の志士の群れから離れて、ひとり海運事業に熱中していた。

坂本竜馬は思想家ではありません。現実重視の実務家です。現代の企業経営者に似たタイプです。したがって、この時期の攘夷を推進していた武市半平太や長州の久坂玄瑞、久留米の宮司・真木和泉のような思想家、理念派とは一線を画します。

「風雲」に参加していないというより、参加する気もない時期でした。竜馬が風雲に参加し始めるのは、自分の組織を持ち、自分の会社(亀山社中)を動かすのに政治を必要としだしてからのことです。船もない、金もない、人だけ揃えた竜馬海運会社が事業を続けるためには、風雲に参加せざるを得なくなったのです。

「事業は人なり」といいますが、ヒト、モノ、カネの3拍子揃って事業が成り立ちます。人だけでは食うに困ります。

100、要するに、この当時の長州人が火のつきやすいガソリンだとすれば、 薩摩人はマッチを近づけても燃えない原油のようなものだ。しかしどちらも可燃性の藩であることに間違いない。
その薩長が、仲が悪い。 極端に悪い。

この時期の京都朝廷内部は、さまざまな思惑が入り乱れて、少数与党の連立政府のような混乱にありました。

孝明天皇は外国嫌いの攘夷一本やりですが、そのくせ大の幕府びいきです。

「幕府よ、お前は武家の棟梁ではないか。武家なら武家らしく、勇敢に外敵を追い払うのが役目だ。攘夷を実行することこそ武士の本分だ」

という気持ちだったと思います。強い意思の元に攘夷実行を迫ります。

これに便乗したのが若手の公家で三条実美、姉小路公知などの、いわゆる七卿です。その陰で攘夷を煽り立てているのが長州を筆頭にする尊皇攘夷の志士たちです。彼らは天皇を利用して倒幕、政権奪取を目指します。その手段として天皇を大和行幸に引っ張り出し、その地で天皇の軍勢を旗揚げし、倒幕の官軍を結成しようと目論見ます。天皇には無断で密勅などを乱発し、仲間を募ります。

一方、穏健派の公家は開国もやむをえないという立場で、幕府に協力して混乱を鎮め、幕府と雄藩による合議制の政治体制作りを模索します。いわゆる公武合体派です。薩摩藩、土佐藩、越前藩、宇和島藩などがこれの推進者で、四賢公といわれた殿様が主役ですね。

この3つの勢力が御所という密室の中で暗闘していたのがこの時期です。

そこに事件が起きます。攘夷派の最右翼といわれた若手公家の姉小路公知が何者かに暗殺されます。犯人として捕らえられたのが薩摩の人斬り、田中新兵衛ですが、真偽のほどはわかりません。ともかく、長州が騒ぎ立てて「薩摩は悪人だ」とされて京都政界での地位が低下します。濡れ衣だ…と薩摩は長州を強く憎みます。

早い話が、薩摩、長州、土佐の勢力争いが激しかったのです。自民党の派閥の争いを想像していただくのと同じことでしたね。

ここから、長州による単独攘夷の決行、禁門の変、七卿落ちへとつながっていく政争になります。奈良で発生する天誅組事件もこの一連の政争の一環でした。

この事件、禁門の変で幕府方についた薩摩を長州は強く憎みます。