混迷の坩堝(第22号)

文聞亭笑一

この章の名前をなんとしようかで結構悩みました。世の中が攘夷一辺倒の流れから、公武合体へと大きく転換し、揺り戻したのです。作用・反作用の法則というものがありますが、まさにその現象でしょうか。幕府を中心とする体制派が勢いを盛り返しました。

現代も「政権交代」と「政権奪還」で激しく鍔迫り合いをしていますが、果たして結末はどうなるのでしょうか。幕末は列強の侵略という外交上の大問題が争点でしたが、現代はいったい何が争点なのでしょうか? 主題がはっきりしないままに政権交代がなされ、前政権のやったことを片端から否定して自己満足しているだけでは政権を交代した意味はありません。ただ、国家の財政が破綻への道を加速しだしたことだけは事実です。ギリシャのマネをするのはOlympicだけにして、財政は立て直してもらわなくては困ります。

101、朝廷が長州藩を蹴落としてその藩論を否定した以上、土佐藩の上層部はおそらく勢いづき、長州と気脈を通じている武市半平太らを遠慮会釈なく弾圧するに違いない。長州だけではなく天下の勤皇党にとって最悪の時代が来たのである。

土佐藩は大揺れです。勤皇党弾圧は主役の武市半平太に及び、さらに、藩内の武市一派を掃討します。京、大阪に拠点を持つ脱藩浪人たちも藩の後ろ盾を失い、薩摩には嫌われ、最後の砦だった長州藩は朝敵として追い払われてしまいました。頼るところがありません。

唯一、竜馬たちの海軍塾にいるものだけが幕府を後ろ盾にして残っています。

山内容堂は公武合体の推進者として、吉田東洋暗殺事件を徹底的に洗い始めます。その主体となった検察官は東洋の甥の後藤象二郎と板垣(乾)退助です。根こそぎ…攘夷派の粛清に掛かります。

勝海舟の用心棒をしていた岡田以蔵も、勝の留守中を狙われて逮捕され、土佐に強制送還されます。以蔵は東洋暗殺事件ばかりでなく、京都における暗殺事件の一部始終を白状してしまい、武市半平太処刑の証拠にされてしまいました。

以蔵にしてみれば、半平太に対する信仰的な信頼が失われて自暴自棄になっていましたね。

以蔵を飼い犬のように扱っていた半平太の自業自得ともいえます。さらに、大殿・容堂の異常なまでの半平太嫌いが大弾圧につながっています。

司馬遼太郎の山内容堂に対する評価は手厳しいですねぇ。

自称名君の容堂は、幕末で最も華々しい暗君だったといえるかもしれない。政治家・容堂の本質はお調子者なのである。

容堂は一人英雄的に悲壮がり、喜劇を演じつつあった。 山内容堂は名門の殿様育ちです。頭は良いし、度胸はあるし、弁舌にも秀でていますから現代で言えば…東大卒の誰かさんに似ています。本当に良く似ていますねぇ、その場限りの発言を繰り返すお調子者に・・・。当時は宇宙という概念はありませんでしたから宇宙人とは名づけられませんでしたが、私は勝手に山内容堂をあの方に重ねます。

102、家康以来300年の政権が、僅か数十人の浪士団で崩れるとは思えない。彼らはおそらく死ぬ。死んだ後でさらに誰かが死ぬ。さらに誰かが死ぬ。その累々たる屍の列の果てに、いま大和に屯集している吉村らの脳裏にある理想時代が来るであろう。

吉村寅太郎…土佐の脱藩浪士で、竜馬の先輩に当たる男ですが、行き場を失いました。

支援者であった武市半平太を失い、土佐藩からは脱藩の罪で追われます。薩摩藩も当てにできません。長州藩は、藩士である桂小五郎ですら木屋町の芸者・幾松の世話になって、乞食同然の逃亡者ですから当てになりません。さらに、公武合体で勢いづいた会津藩と、その配下の新撰組に付けねらわれます。毎日のように仲間が斬られ、囚われて処刑されていくのを救出することすら出来ません。

彼らは、自暴自棄で暴発するしかありません。最後に頼りにしたのは、後醍醐天皇以来の勤皇集団である十津川郷士たちだけでした。奈良で自殺的攘夷行動を始めます。幕府の代官所を襲い、錦の御旗を振ろうとしたのですが線香花火に終わります。

ここに抜き出した一節…ビン・ラディンたちテロリストの思いと全く同じではないでしょうか。死ぬことを一切怖れません。後に続くものがいると信じて、爆弾を抱えて飛び込んでくるのですから堪りません。理想の時代が来るのは結構ではありますが、我々現代人は攘夷志士の屍の果てに発展した文明を享受させてもらってはいますが、テロを正当化する論理は否定します。

103、勝は全身が頭のような男であった。
幕末の政局を動かしたのは竜馬、西郷、桂など行動家の「行動」であるが、行動だけを追うことで幕末を理解しようとするのは誤っている。そこには常に勝の頭脳が存在した。この頭脳は奇妙な座布団に座っている。幕臣でありながら幕府の利害を考えず、日本的な観点から時勢を捉え、そこからものを考えた。

幕末維新は薩摩、長州、土佐が主導したということになっていますし、事実、倒幕を実現したのはこの三藩の軍事力です。ここで司馬遼太郎が言わんとしていることは、倒幕後のシナリオの話で、倒した後をどうするかについては三藩とも思惑が分かれていました。

土佐藩の主流派の考え方としては幕府を倒す気がありません。徳川幕府の中に山内容堂が入り、大老として権力を握るという、今で言う、大連立構想でしたから…。

薩摩藩は徳川幕府を倒し、島津幕府を作ろうというものですし、長州藩は毛利幕府構想です。ですから島津の殿様も、毛利の殿様も維新後に「わしはいつ将軍になるのか」と西郷や桂に問いただしています。竜馬が勝海舟や横井小楠のメッセンジャーとして、新政府構想を植えつけるまで、西郷も桂も維新政府の構想を持ち合わせてはいませんでした。

勝海舟は、咸臨丸で渡米し、つぶさにアメリカ社会を勉強してきています。民主主義というものの姿をしっかりと目に焼き付けて、その姿を日本に実現しようと考えていたと思います。一緒に渡米した福沢諭吉も同じ景色を見て帰りましたが、政治機構をどうするかについては考えが及びませんでした。

そのくせ、維新後に海舟の批判ばかりして、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」などと、あたかも自分が民主主義を日本に持ち込んだようなことを言います。思想としての民主主義を持ち込んだのは福沢諭吉の功績ですが、維新政府の実態を作ったのは勝海舟です。政権交代をしたと浮かれている鳩山、菅、小沢に重ねてみましょうかね。

誰が誰のタイプでしょうか。まぁ、殿様が一人いますね(笑)

薩摩、長州、土佐というのはそれぞれが天下を担う藩だと自負している。そのくせ三藩とも自分の藩の運営についてはおそろしく保守的だった。

この三藩の侍が目の仇にしている幕府のほうが進んだ面が多い。特に、人材登用に関しては上士、下士というより、士分にさえこだわっていない。

人材登用ということは、言うは易く行うが難しいことの典型例です。仕事が出来るものは多く集めたいし、仕事を任せたい気持ちはあっても、信用できるかどうかについては未知数です。ある意味での度胸がないと人材登用は出来ません。大体において、仕事のできるものほど、過去に傷を持っています。過去に傷をもつほど頑張ったからこそ、仕事が出来るのです。が、新参者はなかなか登用しません。休まず、サボらず、働かず、という三ズ主義者のほうが権力者にとっては安心なのです。旧来からいる無能な者をはべらせておいたほうが気楽ですから、席任者ばかりが増えます。

席任者とは「長」の席に座ることを主務と心得、仕事をしない人のことを言います。

104、「藩じゃとか大殿様じゃとかのご意向を気にしていたら、世の大事はならんぜよ。 もし攻めてくれば、弾丸刀槍をもって馳走する覚悟じゃきに、そのつもりでおれ」

海軍塾で勝海舟の手伝いをしている竜馬にも、土佐藩からの帰国命令が出ます。藩内では依然として竜馬は武市半平太の手下で、以蔵を子分にしていた男という評価ですから、帰ったら投獄、処刑というストーリーが出来ていました。そんなことは分かりきっていますし、もともと脱藩していたのですから、いまさら藩政府の言うことなど聞くはずがありません。土佐出身の塾生が動揺するので、勇ましいことを言って動揺を鎮めます。

この頃の神戸海軍塾は、建物は出来て勉強は始めていますが、肝心の船がありません。

竜馬は、船を借り受けるために江戸に出て、幕府と掛け合います。勿論、勝海舟の紹介ですが、開明派の大久保一翁との交渉です。

「あわてなさんな」とあしらわれつつも、海軍支援者の大久保と交渉することで、海外知識や、外国の政治の仕組みを学んで行きます。後の、船中八策(新政府構想)につながる政策の部品を仕入れて行きます。が、まだまだ部品を仕入れたに過ぎません。