攘夷の嵐(第5号)

文聞亭笑一

ともかく、黒船来航は大事件です。250年の長きにわたって「鎖国」という国防上の手抜きをしてきた日本国ですから、外国に対する防衛戦略などはありません。「攻めなければ、攻められない」、という非武装中立発想は、実は江戸時代の鎖国に原点があります。

江戸時代に比べて、ずいぶんと地球が狭くなった現代でも「非武装中立」を主張してやまない政党もありますが、時代錯誤ではないでしょうか。当時は貿易もありませんでしたから、もめ事も起きませんが、今や通商国家となった日本ですから鎖国なんてできません。鎖国したら数日で食糧が枯渇しますしね。食料自給率も最低の国なのです。

15、竜馬は終生、餅はあくまで餅に過ぎぬ、という考え方の持ち主であった。腹が減ったときに食えばよい。しかし武市は餅一つを見ても単なる物質とはとらず、そこに何かの意義づけをしたがるのが性向だった。だから、ことごとに逆らいあう。そのくせこの現実主義者と理想主義者は、どこかで馬があっていて、ひどく仲がいい。

黒船来航で土佐藩にも出動命令が出されます。江戸詰めの家臣は、身分にかかわりなく総動員され、品川周辺の警備に駆り出されます。竜馬や半平太のような学生も例外ではありません。学徒動員といったところでしょうか。

携帯食料の餅を挟んで、竜馬と半平太が議論をします。竜馬は科学者、理系の発想ですし、半平太は哲学者、文系ですから議論がかみ合わぬ珍問答になります。共通するのは鎖国という国法を踏みにじった米国艦隊に対する怒りです。

さて、土佐藩の軍制ですが…関ヶ原時代のままです。銭勘定が専門の江戸家老を大将に、軍学指南の家柄の者が参謀長、上士が隊長で竜馬たち下士を率います。200年間、軍事演習すらしたことがありませんでしたから、号令の掛け方すら忘れています。ともかく珍妙な軍隊と、その出陣式でした。軍学指南は首実検の作法ばかり教えます。

武市半平太といえば鏡心明智流の免許者で、儒学、軍学に明るく、智謀秀で、大軍を指揮する器量がある。その武市が、竜馬同様、雑兵なのだ。300年、家格だけで成り立ってきた藩の組織がばかばかしい。

ばかばかしくとも、従わざるを得ません。品川の海岸に陣を敷き、何もない海とのにらめっこです。それでも一応、土佐藩は軍隊らしい恰好をしています。少なくとも、刀は差していますからね。上士は槍や鉄砲を持っています。

それに引き換え、どうしようもないのが直参旗本です。動員すらかけられません。

ところが奇怪なのは、江戸を守るべくして300年、将軍のひざ元に駐在し続けてきた旗本八万騎である。幕府は、黒船の警備に、大名の力を借りようとするばかりで、直参という直営兵団を使わない。・・・使えないのだ。

要するに、幕府も旗本も金がないのです。刀も質屋にあるか、それが流れていて竹光です。

ともかく消費文明の中心地江戸で、武士が経済的に破たんしてしまっていました。この時、旗本の間で流行したのが「隠居願い」です。成人男子が当主であれば、招集がかかれば身分相応の装備をして出陣しなくてはなりません。が、当主が病気で勤務に耐えぬと隠居すれば、子供が当主になって、幼ければ兵役免除になります。

「2軒に1軒は隠居したよ、だらしがねぇったらありゃしねぇ」と、維新後に旗本出身の勝海舟が嘆いています。

ともかく、旗本は元服前の子供会のような組織になってしまいました。

16、「黒船の夷人を残らずたたっ斬れ」と、だれかれなしに叫ぶ。
幕末の天地を包んだ攘夷論は、この時に始まっていると言っていい。
「武市さんはどう思う」
竜馬が聞くと、武市半平太は後に土佐勤皇党の首領になった男だけに、黒船が要求している開港には大反対だった。
「俺もそう思う」

ならば「斬りに行こう」と竜馬が提案します。応援に来ていた千葉道場の重太郎やさな子も燃えています。たった四人で黒船を乗っ取ろうというのですから漫画ですね。

こういう雰囲気というのは、冷静な判断力を麻痺させます。かく言う文聞亭も60年安保騒動の時に同様な経験があります。「議事堂にデモ掛けよう」「そうだ、そうだ」とその気になりました。文聞亭たちの場合は、仲間の一人が事前に計画を親に漏らして、校長から大目玉を食ってしまいましたが、竜馬たちは浦賀に向けて出立します。

さすがに…冷静な半平太が途中リタイアし、重太郎や、さな子もバカバカしさに気づいて熱が冷めました。が、竜馬の好奇心は一向に衰えません。要するに黒船が見たいのです。

神奈川宿を警備する藤堂藩を突破し、三浦半島の山中をたどって浦賀の近くまで潜入します。そこで、三浦半島担当の井伊藩の警備隊に見つかりながらも、すり抜けて黒船を見ます。このことが、後の竜馬にとって大きな財産になりましたね。噂だけでなく、実際に蒸気船が外輪を回して航行する姿を見たのです。こういうところが理系の竜馬らしさですが、こういう発想をする人材は、当時は希少価値でした。その反動でしょうか、明治の文明開化以来、一気に理系発想が現れ、ゆきすぎて、そのまた反動が昭和の軍国主義になります。

人間社会というのは、定まりなく揺れますね。現代は、戦後の理系社会から精神主義への揺り戻しかもしれません。なにせ「友愛」「ガンジー」ですからね。

17、ペリーはよほど日本人をなめていたのだろう。
この品川沖の数発の砲声ほど日本史を変えたものはない。
幕閣が震えあがって、開国へ徐々に踏み切りだしたのもこの時だし、全国に、猛然と志士が立ち上がって、開国反対、外国人打ち払うべし、の攘夷論が、黒煙の如く天下を覆い始めた。

人種間の偏見はいつの世でもついて回ります。「人権啓発」と何度研修しても、「人類みな兄弟」「友愛の精神」と建前を叫んでも、なかなかに消えないのが差別です。差別するという心理は、元々が劣等感の裏返しで、劣等感の強い人ほど弱いものにきつく当たる性向があります。そうですね、弱さを隠すための見栄のようなものです。

ペリーも同じで、米国軍制では騎兵が最上位にあって、海軍などは陸軍になれなかった落ちこぼれの集まりでした。それが、アジア人に対して居丈高な態度を取らせます。アジア人、日本人などは「ものを言う猿」程度の認識だったでしょうね。

ペリー艦隊は、品川沖で空砲をぶっ放します。明らかな威嚇ですが、一応は「大統領の誕生日を祝う祝砲」、「…の祝砲」などともっともらしい理由をつけますが、一発撃つごとに右往左往する沿岸警備隊と江戸市民を見て笑っていました。日本人は空砲だとは思っていませんでしたからね。ましてや、祝砲などという行儀作法は日本には存在しません。

この居丈高なアメリカ艦隊の態度は、燎原の火の如く日本全国に伝わります。「野郎!なめやがって」100人中99人までが怒りに燃えます。ただ、幕府だけは冷静に彼我の力関係を分析していました。

「戦っても勝てぬ」と戦力分析したのは井伊直弼、会津松平、讃岐松平などの幕府中核大名です。一方、攘夷だ!と大騒ぎをしたのも水戸斉昭を中心に松平春嶽、島津斉彬などの大大名でしたね。幕府は真っ二つに割れます。それには将軍の後継ぎ問題も絡んで、幕末を揺さぶります。井伊直弼が和歌山(家茂)派、水戸斉昭が一橋(慶喜)派でした。

この辺りの駆け引きは、一昨年放映された「篤姫」を、懐かしく思い出しますね。

18、当時の日本人は、極めてまれな例外を除いて、誰も海外知識を持っていない。
むろん、300年の鎖国という社会の環境がさせたことで、日本人の無知がさせたことではなかった。

当たり前のことなのですが…、これが当たり前でなかったところに攘夷運動の危なさがありました。幕府には、海外知識を持った者が何人もいます。長崎奉行所の経験者は、オランダを通じてヨーロッパの列強の実力や、中国でやっていることを知っています。彼らが、海外情報を幕府中枢に伝え、戦いの無謀さ、列強の強さを認識させます。

一方、攘夷派でも島津斉彬などは知識を持っていた方です。琉球を通じて西欧と密貿易をしていましたからね。庶民レベルでは、長崎で医学修業をした連中は、海外知識を持っていました。が、オランダは競争相手のイギリスやアメリカの情報はあまり出しません。

オランダがヨーロッパの弱小国であることを知られたくないからです。情報をかなり歪曲して、米英は悪党であるという情報を渡していますから、攘夷には火に油を注ぎます。

国内の攘夷運動の火に油を注いだもう一つが京都朝廷です。

恐ろしさに震えあがり、「攘夷」を連呼しだします。これも、攘夷熱を盛り上げます。