蛤御門(第25号)

文聞亭笑一

龍馬伝の原作、司馬遼太郎の「竜馬が行く」では戦闘場面の記述が詳細です。池田屋の変から蛤御門の変にいたる辺りは、登場人物も多く、それぞれの人物がいかに闘い、いかに死んでいったかを詳しく追ってくれます。登場人物の中には読者自身に似た人や、読者の血筋につながる人も出てくるでしょうから、気になって一気に読んでしまいますね。

とくに、薩長土肥の出身者や、会津、桑名の生まれの方には身近でしょうね。

文聞亭の郷里などは幕末動乱には殆ど縁がなく、せいぜい真田藩の佐久間象山程度しか出てきませんから、蚊帳の外です。ということもあって、戦闘場面はテレビに任せます。

とは言いつつも、蛤御門の辺りにはよく行きました。会社の研修センタが近くにあって、この門から御所の庭園に出入りしました。また、高校駅伝のコースでもありましたから、この門の前で、郷土選手たちを応援したりもしました。懐かしいですねぇ。

113、「古来、志士とは度量識見が狭い」
と、勝は無遠慮に言った。志士の資格は、その激烈な気節と行動力である。この二つは、狭い狂信的な思想から生まれる、という意味である。勝はさらに説き、「もし、こんにち攘夷家を汽船に乗せて、広く外国を見せたならば、おのずから意見は変わるであろう」と言った。
「国は度量狭小の志士の手では救えない。かえって国を破る」とも言った。

蛤御門の変と言うのは、長州によるクーデターです。薩摩、会津に奪われた政権を軍事的圧力によって取り戻そうとしたもので、久坂玄瑞などが中心となって京都に押し寄せてきました。軍事力で天皇を奪ってしまえば、天皇を持ったほうが勝だと言う将棋の感覚です。

しかし、面白いことに、後に急進派のリーダとなる奇兵隊の高杉晋作はこの行動を止めにかかっています。京都を戦場にしたら、今まで投資してきた町衆の人気を無駄にするという判断だったのでしょうか。それとも、長州の藩論が固まっていないという内部崩壊への危機感からだったのでしょうか。

このクーデター軍の参謀であり、思想的に軍隊を率いていたのは長州藩士ではなく、久留米藩の神主・真木和泉でした。その真木を勝海舟が説得に出かけます。勝に言わせれば「時期尚早」で、長州や攘夷志士たちの自殺的行動に見えたのです。

残念ながら勝の説得は不調に終わり、長州は暴発してしまいます。

現代にも「民主主義の志士」や、「平和主義の志士」のような政治家がいます。

彼らが、野党でいる間は何も問題は起きませんが、ひとたび大臣や為政者になると度量狭小なるがゆえに国を破るような政策を実行し、国民を混乱に陥れます。いまどき外国を見せるだけでは意見は変わらないでしょうが、沖縄に行っただけで、海兵隊の存在意義が分かったようですから、やはり現場、現物、現象の三現主義で実態を把握し、現実的判断を重視しなくてはいけません。政策が根本的に違う者同志が、政権のために野合するのはいかがなものかと首を傾げます。

114、薩摩人もまた、日本人には違いない。しかし西郷だけでなく、彼らは日本人離れしているほど、外交感覚に卓越している。いわば戦国時代からの島津家のお家芸で、特に幕末に余すところなく発揮された。

司馬遼太郎は「薩摩人」を日本人的でない文化風土の人たちだと捉えていますが、果たしてどうでしょうか。地方にはそれぞれ地方の文化があるわけで、それが全国平均とずれていたからといって「日本人離れしている」とはいえません。私などの感覚からすれば、京都人などは相当日本人離れしているように思えますが、しかし、千数百年間日本の中心は京都で、そう思うほうが日本人離れなのかもしれませんね。

ともかく、江戸時代までの島津藩はかたくなに独立文化を守ってきました。中央政権からの介入を拒否してきた伝統があります。薩摩飛脚という言葉がありますが、偵察のため薩摩に向かった隠密は、一人も帰ってくることがなかったといわれるほどの秘密主義に徹していたようです。薩摩飛脚とは鉄砲玉と同じ意味で、行ったきり戻らないことを言います。

外交感覚とは…確固たる自分の意思を譲らず、あくまでも五分と五分の立場で交渉する態度です。安易な妥協をせずに、自己主張を貫くことです。

外交感覚がない人が外交をするとどうなるか? 事例が豊富です。つい先だっても…。

115、古来、武家と公家の関係は、源頼朝この方、男性と女性の関係である。双方の心理もそのとおりであった。天皇は、恋で狂い死にしそうになっている長州男児の深情けを、疎(うと)ましく思うばかりか、憎み始められたのであろう。
それよりも、訳知りの薩摩紳士に好意を寄せられた、と見ていい。

天皇という立場は微妙です。日本人の心情、情の世界を代表する存在で、理屈では説明できないのです。そう…多分に宗教的存在で、統合の象徴なのです。その天皇を取り巻く神主たちが公家です。僧侶、牧師と同じ存在ですね。武家と公家を男と女に見立てた司馬遼の見方は、じつに当を得ていると思います。

私の友人の説によれば、「中庸とは情の世界51%、理の世界49%のスタンスで物事を判断することである」といいます。そうかもしれません。実業の世界は理屈が優先されますが、かといって情の世界を無視しては商売が成り立ちません。良いものを、安く、早く、提供しても、それだけでは売れませんからねぇ。情の世界で気に入ってもらわないと買ってもらえないわけで、この世界を「サービス」といいます。

理屈好きの長州が嫌われ、情に厚い薩摩や会津に朝廷が靡いたのは当然だったのでしょう。

116、要するに勝の意見は
「幕府を否定し、日本の外交権、軍事権は雄藩同盟の手で抑えてしまえ」
というのである。まだ、倒幕論とまでは行かない。が、幕府無視論である。
西郷は、勝とのこの時の対面によって、初めて自分の世界観、新国家論を確立させた、といってよい。

長州軍が伏見、山崎の天王山、洛西の天竜寺と3箇所に陣取り、京都を包囲する形で朝廷に圧力をかけます。要求は「長州の罪を許し、薩賊会奸を天皇のそばから遠ざけよ」というものですが、「国内から米軍基地を撤廃せよ」というほどに飛躍した要求です。

薩摩は賊である、会津は奸物である、という主張ですから、妥協の余地はありません。

こういう緊迫した状況の中で、勝海舟は西郷隆盛と会談して戦争を回避すべく、薩摩に自重を促します。薩摩から戦争を仕掛けてはいけないと説得します。勝の論旨は幕府がなくなったあとの政治体制をどうするのかということで、目の前の戦争のことばかり考えていた西郷にとっては意外な成り行きです。「天皇を掌中におさめ、幕府を倒す」ことまでしか考えていなかった西郷にとっては、目から鱗の落ちるような話でした。

後に、竜馬の書いた船中八策、さらには五箇条のご誓文につながる新政府の骨組みを海舟から聞かされて、西郷の国家ビジョンが朧げにまとまりだしたのです。

勝と西郷による江戸城無血開城の話し合いは有名な話ですが、その話し合いが成り立ったのも、この蛤御門の変が勃発する前夜での、二人の会談にその下地が出来たのです。

西郷にとっては、勝海舟を師匠という以上に、政治学の教祖的な意味合いを感じさせました。明治維新の物語は、桂小五郎、月形半平太などの勤皇の志士たちと新撰組による活劇が中心に語られますが、勝海舟が脚本を書き、坂本竜馬が演じた政治改革戦略が基本にあります。

たまたま、この原稿は沖縄の米軍基地問題で福島大臣が罷免された翌朝書いていますが、この事件が「辺野古の乱」として歴史に残るかどうかは百年後でないと分かりません。

もし残ったとしたら、友愛の鳩は「国家戦略もなしに、理想論を振り回した優柔不断の為政者」として徳川慶喜と同列に扱われるでしょうね。

徳川慶喜、最後の将軍ですが、この人を良く書いた小説にはお目にかかったことがありません。しかし、この蛤御門の変では快刀乱麻の大活躍をしています。皇居守備隊の総司令官として、反乱軍の長州を各個撃破し、壊滅させています。さらには、砲撃と銃弾に驚いて「長州を許せ、許せ」と泣き叫ぶ公家たちを一喝し、会津藩主、桑名藩主の兄弟を天皇のそばにおいて監視させ、公家の寝返りを防いだ手捌きなどは軍人として見事なものです。

この人は、幕末の複雑な政治情勢ではなく、戦国時代に生まれていたら、祖先・家康以上の英雄になっていたのではないでしょうか。生まれる時期を間違えました。

将軍は当時、外国ではタイクーン(大君)と呼ばれていました。今はソーリと呼ばれます。諸外国から「アイム・ソーリ」などと呼ばれないようにしてもらいたいものです。