胆(はら)と胆(はら)(第33号)

文聞亭笑一

東奔西走の言葉通り、ここからの竜馬は天を翔るほどに京大阪と下関・長崎を往復します。

京で、薩長会談と攻守同盟を西郷に確約させ、すぐに下関から萩に入って高杉晋作と桂小五郎を説得し、桂に、京都での同盟交渉に参加するよう強談判です。

「失敗したら生きては帰らぬ」という桂に、「そのときは西郷を斬ってわしも死ぬ」と答えます。互いに決死の同盟締結交渉なのです。

それにひきかえ・・・

現代の安全保障交渉の、なんと生ぬるかったことか。普天間基地を移設する交渉に全く、迫力が伝わってきませんでした。アメリカと強談判(こわだんぱん)することも勿論ですが、沖縄県、名護市との交渉すら腰が引けていましたね。徳之島などは軽視、無視に近い対応でした。

軍事基地、原子力発電所、ごみ処理施設・・・これは現代版嫌われ者の三横綱です。こういう話は、当事者が誠心誠意、智恵の限りを尽くして話し合うしかありません。ぶら下がり取材にヘラヘラと答える話ではありません。密約だって、命がけでするんです。

政治生命の懸かる話を、現地にも行かず、米大統領と膝詰めもせず、小手先の小細工で済まそうとした鳩総理が、民意によって息の根を止められたのは当然の成り行きです。

今度の総理も、この問題に逃げ腰で当たると短命に終わりますね。

消費税だって・・・増税というのは古来、嫌われ者の大横綱なのですよ。

141、みな、このきらびやかな構想に呆然とした。竜馬が言う。
「とにかく、ゆくゆくは亀山社中が百万石ほどの藩の実力をつけねばならぬ。それをもって薩長を主導しつつ幕府を倒して新国家を樹立するのだ」
さらに竜馬は「幕府を倒して新政府が出来ても、皆は役人になるな。一方では海軍を興し、一方ではこの亀山社中を世界一の商社にする。そのつもりでやれ」

竜馬は長崎に回ります。自らが社長をする「亀山社中」に経営方針を訓辞しなくてはなりません。下関、大阪への支店展開、地方による物価の差を利用した流通商売、軍需物資の密貿易など、基本方針を伝えます。

百万石といえば当時、表向きは加賀前田藩だけですが、実力では薩摩、長州がこれに匹敵します。それに竜馬の百万石が加われば、三百万石で、幕府の石高に匹敵します。

維新後も竜馬のこの指針は受け継がれました。役人にならなかった連中は岩崎弥太郎の下で三菱を起こし、世界的商社へと雄飛していきます。海軍を目指したものは薩摩に吸収され、後の大日本帝国海軍の基礎を築きます。

役人になったのは、土佐出身者ではない紀州藩出身の陸奥宗光だけでしたね。陸奥は伊藤博文内閣の外務大臣として欧米との不平等条約の改正、日清戦争と修羅場を巡ります。

ともかくも、亀山社中は長州への武器取引で、事業のスタートを切りました。

142、幕府も馬鹿ではない。
それどころか、その諜報組織は鋭敏なもので、すでに竜馬の入洛を探知し京都守護職松平容保を総司令官とする警察組織が、京都所司代、京都奉行所、伏見奉行所、新撰組、見廻組、などを動員して竜馬の潜入を待っている。

幕府の諜報組織、密告組織はいたるところに網を張り巡らせています。奉行所の与力、同心などというものは表組織で、世襲の武士が担当していますから機能していませんが、目明し、岡っ引きという駐在さん、それに名主、庄屋、町名主、貸家の大家などは、すべて警察官と思っていいでしょう。密告警察・・・それが江戸時代の警察組織の主役です。

戦国時代の忍び、忍者組織が、そのまんま行政組織として組み込まれていたのです。

幕府はすでに、竜馬が危険人物であると察知し、重要指名手配犯として京都、大阪に万全の警戒網を敷いています。

おりしも、高杉と喧嘩して国抜けした長州藩士が京都で捕まり、桂と竜馬が京都に向かっていることを白状してしまいました。港など交通の要所には臨時の検問所が出来、手配の似顔絵を持った警察組織が竜馬たちを狙っています。

サミットなど国際会議における特別警戒網と同じだったでしょうね。「水も漏らさぬ」です。

中でも張り切っているのが新撰組です。淀川の川筋は彼らが固めて、斬り捨て御免の態度で通行人の首実検をしています。

そんな中を、竜馬と長州が護衛につけた三吉慎蔵の二人が京都に向かいます。神戸から、夜間に船で大阪に入り、まずは大阪の薩摩屋敷に逃げ込みます。

143、竜馬が兵庫に潜入した慶応二年正月、時勢は勤皇派にとって最悪の段階にあった。将軍家茂はすでに大阪城にある。
大阪城を大本営として、第二次長州征伐の戦備を整える一方で、天下の親長州分子の弾圧を進めつつある。

大阪には将軍がいますから、警戒は特に厳重です。幕府だけでなく、全国の藩兵が狩り出されて戒厳令が敷かれていたようなものです。

この時期、各藩は攘夷の志士たちを徹底的に取り締まり、捕まえては死刑にしています。

全国ではその数が数百人とも、千人以上とも言われ、徹底的に弾圧されています。

井伊大老の安政の大獄が歴史に残っていますが、この時期の弾圧のほうが酷(ひど)かったのです。

特に水戸から京都を目指した武田耕雲斎率いる攘夷志士800人は、加賀藩につかまり、敦賀のニシン倉庫に素っ裸で放り込まれ、そのうち抵抗した350人は斬首にされています。なんとなく・・・ナチスの大虐殺に似た光景ではありませんか。

こういう歴史の恥部は、意図的に歴史教科書からは抹殺されています。

そのほかにも熊本細川藩、福岡黒田藩などで大量虐殺をやっています。

明治維新は無血革命だ、と歴史は教えますが、後の戊辰戦争といい、西南戦争といい・・・

やっぱり、流血革命なのです。明治政府は「神国日本」を演出するために情報を隠しましたが、大勢の流血の上に出来上がったのが明治新政府です。

現代日本も、太平洋戦争での300万人を超える戦死者、空襲被災者、原爆被災者の流血によって出来上がった民主主義です。天から授かったものではありません。尊い犠牲者の血液でもたらされた平和です。どこかの鳩のように平和ボケしていてはいけないと思いますよ。「学べば学ぶほど分かった」とか。大いに結構です。大いに学んで、安全保障の問題に命懸けで取り組んでください。

・・・・・そんな中を、竜馬は大阪城にノコノコ出かけ、大久保一翁に面談しています。大久保は京大阪にあって警視総監的立場を受け持っていました。「窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず」石田三成が家康のところに乗り込んだのと似ていますが、大久保は竜馬に警備の盲点を教え、京都への手引きをします。

ここらあたり・・・司馬遼の「小説」でしょうねぇ。

144、ところが、薩摩の側は,ひとことも、薩長連合の話を切り出さないのである。
西郷は桂の薩摩非難に「尤(もっと)もでごわす」といっただけで黙々と肴(さかな)を食っている。

竜馬より10日早く京都に入った桂小五郎は、早速談判に入ります。

まずは、桂が過去の恨み言、薩摩の裏切りを詰(なじ)ります。心情を吐露します。

西郷は「もっともでごわす」と全面的に認め、陳謝し、宴席を設けます。

その後は、宴会・接待を繰り返すばかりで、どちらも肝心な薩長同盟を切り出しません。

先に切りだしたほうが弱みを握られる・・・そういう駆け引きですね。藩と藩の意地が交渉をスタートできない壁なのです。

会社と会社の合弁交渉、M&Aなどの交渉でも似た場面が展開されます。合併に同意していたキリンとサントリーが、薩長同盟の現代版だったのでしょうか。ここには竜馬が現れず、破談になってしまいました。破談の原因は「両社の企業文化の差」と評されていますが、意地と意地、メンツとメンツ、そんなものが複雑に絡み合い、具体論に踏み込めなかったのではないかと推察します。

文聞亭も三度ほど合弁交渉をやりましたが・・・最初の、この壁を破るのは大変でしたね。

結局はテーブルに着いた責任者同士の胆(はら)と胆(はら)の戦いなのです。お互いの誠意が通じ合うまでは不毛な議論が続きます。枝葉にこだわって、相手との腹の探りあいなのです。

普天間問題だって・・・多分、同様だと思いますよ。日米の政府が、腹を割って議論しないと出口は見つからないでしょう。政府と沖縄県、名護市、徳之島との関係もこれからですね。

防衛大臣は党利党略などを離れて、死ぬ覚悟でアメリカや沖縄と折衝しなくてはなりません。マスコミも、外野席から野次を飛ばして面白がる案件ではないのです。

「ニッポンのためぜよ」を意識して、真摯(しんし)に議論をしてもらいたいものです。