お龍の嫁入り(第36号)

文聞亭笑一

NHKの「龍馬伝」が司馬遼太郎の原作から大きく逸脱して大脱線を始めそうなので、原稿のつなぎが必要になってきました。歴史考証などする気は毛頭ありませんが、私の読んだ本のどれにも「弥太郎が新撰組につかまって拷問を受けた」という記述はありません。そこら辺りがドラマ作家の醍醐味でしょうね。今まで誰も思いつかなかったフィクションを挿入して、歴史を劇的に塗り替えると言う作業は、歴史の一場面に自分をはめ込んで、タイムスリップする気分だと思います。まさに、ドラエモンとノビタの世界です(笑)

司馬遼太郎にしても、津本陽にしても、すべてを歴史的事実に基づいて書いたわけではないのですから、どれが正しくて、どれが間違いだと目くじらを立てても仕方がないのです。

竜馬のように激動期を走りぬけた人の記録は、維新を生き抜いた人の記憶でしかありません。記憶が記録として残っているのですから、記憶が間違っていれば記録も間違えます。歴史と言うのは、どうしても事実とは離れていきますね。

ともあれ、竜馬と言う人物の記憶を大量に残したのが、妻であったお龍さんであったことは確かでしょう。歴女の皆さんのために、今回はお龍さんの人生を追ってみます。

出生

京都の街中で医者・楢崎将作の娘・長女に生まれました。妹が二人、それに弟がいます。

父は大阪や長崎でオランダ医学を学んだ蘭方医で、腕の良い医者でした。患者は京都の庶民が多かったのですが、医術の巧さが評判になり、公卿の家や宮様などにも常連客が増え、青蓮院の宮(天皇の弟)の主治医になって行きます。

これが、楢崎家にとっては悲劇の始まりで、攘夷派の青蓮院宮の情報係として使われだします。攘夷派浪士の手紙を青蓮院に運び、青蓮院宮の手紙や指示を浪人たちに伝えます。

当然のことながら楢崎の家には勤皇浪人が出入りし、集まり、勤皇派のアジトになっていきます。お龍の耳に入る言葉も勤皇思想の情報が多く、長州、薩摩、土佐などには親近感を覚えて育ったことでしょう。

ところが、間もなく井伊直弼の安政の大獄が始まります。井伊直弼の思想的指導者であった長野主膳が指揮する京都大粛清の眼から逃れようがありません。逮捕、拷問、獄死という道から脱出するすべはなく、一家は貧乏のどん底に叩き落されます。さらに悪いことに、家が焼けて住むところもなくなりました。司馬遼の小説では、この火事場でお龍の弟を助け出したのが竜馬で、それが二人の出会いだとしています。

一方で、津本陽の小説では焼け出されて転がり込んだ茶屋に土佐の脱藩浪士がたむろし、そこでお龍と竜馬が出会ったことになっています。

いずれにせよ、極貧の浮浪者同然で、妹二人は借金の形に女衒(ぜげん)に売られてしまいます。

妹の、年上の方が大阪に売られて女郎にされると聞きつけて、お龍は大阪に乗り込みヤクザと喧嘩をして取り返してきたと司馬遼は書きますが、これは誇張でしょうね。

ともかく気が強くて、ヤクザや侍とも対等にやり合っていたヤンチャ娘だったようです。

伏見・寺田屋

寺田屋に奉公に出るのは、竜馬の紹介だったようです。母親は病弱で、妹たちの面倒も見なくてはいけませんから、寺田屋に住み込み奉公に入りました。家族も敷地内に同居させてもらっていたようです。

竜馬が襲撃された寺田屋騒動、あまりにも有名なシーンですが、このときお龍が薩摩屋敷に駆け込んだのは偶然ではありません。寺田屋は薩摩藩の常宿になっていましたから、日頃から寺田屋と伏見薩摩藩邸の使い走りはしていたのです。捕り手が見張っていない裏道など熟知していればこそ出来た緊急連絡で、薩摩藩邸の門番などとは顔見知りでなければ門前払いを食ってしまうはずです。

捕り方も裸同然の娘が逃げ出してきたのですから「斬り合いが怖くて逃げ出したのだろう」程度に考えて見逃しています。ここでも裸同然が有利に働きましたね。何が幸いするか分かりません。

長崎

竜馬と結婚し、日本初の新婚旅行に鹿児島に行ったことは次回本文の方で紹介しますが、新婚家庭を築いたのは長崎です。お龍としては普通の新婚生活を夢見ていたでしょうが、竜馬は東奔西走で家には居つきません。寺田屋でしたら親兄弟やお登勢さんなどの話し相手がいますが、長崎では話し相手もいません。この頃から・・・ヒステリー症状が発症したようです。「釣った魚に餌は要らん」などとほったらかしておくと、病気になりますねぇ。

我々の世代では熟年離婚と三行半を突きつけられそうです。気をつけましょう、お立会い。

下関

長崎に寄り付かない竜馬、たまに帰ってきても丸山で飲んで朝帰りする竜馬にヒステリー症状が悪化し、竜馬は仕方なく下関に連れて行きます。ここには寺田屋騒動で生死をともにした三吉慎蔵がいます。無骨で糞マジメな三吉が良く面倒を見てくれますから、お龍のヒステリーも沈静化して、快方に向かいます。

我々も転勤があり、知らない土地に家族を同伴することがありますが、気をつけないといけませんね。転勤した当人は「会社」という社会がありますから、気鬱になることはありませんが、奥方はゼロからの人間関係を築かなくてはいけません。これは大変なことです。

「家族的な会社の雰囲気はイカン」などと西洋カブレした輩が偉そうなことを言いますが、転勤をさせるなら家族的雰囲気は残すべきでしょう。人間関係というのは紹介者がいてくれないと広げにくいものです。子供のイジメ、これにも細心の注意が必要です。「転校生は虐められるものである」と考えておくべきで、性格や教師の問題とは別次元の話です。

横須賀

竜馬は下関にお龍を置いたまま奔走し、京都で暗殺されてしまいます。

未亡人になったお龍の面倒を見たのは三吉慎蔵でした。維新後、東京に連れて行きますが、お龍は東京の水に合わず、海軍との縁で横須賀に転居して余生を過ごします。

意外に近いところに竜馬のゆかりの地があったのだと、驚きましたね。

幕府の内側

横須賀で思い出しました。竜馬とお龍が新婚旅行をしている頃、この地では幕府とフランスの密約でとんでもない計画がスタートしていました。

立案者はフランス公使のロシュと、幕府の勘定奉行・小栗上野介です。

フランスは幕府支援のために600万両の軍資金と、7隻の軍艦を貸与します。

横浜に合弁の製鉄所を建設し、横須賀に造船所を建設すると言う契約ですが、その担保として北海道全土をフランスに貸与するというものです。

これは、欧州列強がアジアや中国を植民地支配してきた常套(じょうとう)手段(しゅだん)で、この手にうまうまと乗せられかかっていたのです。この計画は小栗一人が推進していたわけではなく、外交音痴の老中・板倉、小笠原なども承認していました。

長州征伐の戦争で、もし幕府が勝っていたら・・・、この計画は実行に移されます。

現にこの時には、横須賀造船所は建設が始まっていましたから、危ないところでした。

小栗の計画では、まず長州を潰し、次に薩摩を潰し、土佐、越前、宇和島などのうるさい藩から順次征伐してしまおうと戦略を立てていました。机上論ではありますが、目的のために手段を選ばない政治家ほど怖いものはありません。

現代でも・・・なんとなくその手法を感じさせる政治家がいます。手腕、力量とは別に怖さを感じますねぇ。が、やらせて見ないことにはわからないのが政治でもあります。

小栗とロシュの夢の跡が横浜に残っています。横浜港を眼下に見下ろす「港の見える丘公園」にフランス山という景勝地があります。

小栗上野とロシュの間では、ここにフランスの総領事館を置き、横浜から三浦半島にかけてを「香港化」しようとしていた節がありますね。「徳川家による専制支配」にこだわるあまり、国を売る契約を進行させていたとは…驚きです。

同じ幕府の官僚で、ともにアメリカを見てきた仲間でも勝海舟と小栗上野介とでは国家観が全く違っていましたね。互いに相手を奸物、大邪と呼びあい、嫌い合っていました。

153、この小栗の大構想はすでに幕閣の公然たる秘密になっており、その内容は「滅ぼされる」はずの越前、薩摩、土佐などの諸侯にことごとく漏れてしまっている。
幕末にこれらの諸侯や志士が幕府を見限るに至った契機の最大の一つは、この小栗構想にあったといっていい。

この構想とは別に、徳川慶喜の躁鬱症的政治姿勢も幕府離れを起こさせます。

幕府陸軍を先頭に立てて長州を退治すると、天皇を脅して官軍の旗を立てたかと思えば、舌の根が乾かぬ間に「やめた」と方針変更して、勝海舟を派遣して和平交渉を始めたり、和平交渉が成立すると、今度は又攻撃すると言ってみたり・・・、ブレ方がひどすぎました。

普天間基地移設問題の鳩山、菅、小沢の民主党トロイカも、どうやらそれに似てきましたね。明治の長州、平成の沖縄・・・振り回される者にはいい迷惑です。