思案橋ブルース(第39号)

文聞亭笑一

幕府と長州の戦争は、幕府方の腰砕けで長州軍優勢のまま講和交渉に入ります。

幕府の講和全権大使に指名されたのが、竜馬の師匠・勝海舟でした。勝が選ばれた理由は

「アイツは長州にも顔が利く」ということで、慶喜に信頼されていたわけではないのです。

慶喜の指示は「休戦だ。よきに計らえ」というだけで具体的には何も指示していません。

ならば・・・と、勝は単身で安芸の宮島に乗り込み、長州の広沢平助、井上聞多と休戦協定を結びます。そのときの長州の言い分は「幕府は信用ならんが勝先生は信用する」というもので、実に危ない橋を渡っています。条約も単純明快「幕府は無条件に撤兵する。長州は追い討ちをかけない」というだけのものです。休戦協定なのですから、これで十分なのですが、慶喜は「長州に詫びの言葉がない」と不満だったようですね。

勝は、又、臍を曲げます。「やってられるか、ベラボーめ」と幕府の役職を放り出します。

慶喜への不信もありましたが、それ以上に敬愛する将軍・家茂の死が堪えたようですね。

162、<利とは、それほど魅力のあるものだ>
この場合、利とは経済と言う意味である。経済が時代の底を揺り動かし、政治がそれについていく。竜馬は、奇妙なカンでそう歴史の原理を身に付けていた。

一方、竜馬は海戦で長州のために活躍したにもかかわらず、船、ユニオン号を長州海軍に取り上げられてしまいます。これは、約束事ですから仕方がありません。

「陸に上がった河童」という言葉がありますが、船のない海運会社「亀山社中」がまさにそれで、手元に残ったのは長州が薩摩に送ろうとしていた500石の米だけです。これを切り売りしているだけだったたら、資金はすぐに底をつきます。

竜馬は、一案を講じます。九州の諸藩に働きかけて「九州連合会社」を立ち上げようと、下関に集まる九州諸藩の志士たちに働きかけます。九州諸藩が金と船を出して、竜馬の亀山社中が貿易をやるというものです。これは明らかに幕府の禁令に違反しますが、責任はすべて亀山社中がかぶると言うものですから、出資した藩には迷惑がかかりません。

この計画、アイディアとしては良かったのですが、集まったのは九州の小さな藩だけで、大所の筑前の黒田、肥後の細川、肥前の鍋島の腰が引けています。特に日和見の細川、黒田は幕府に情報を売る恐れすらあります。そうなると、中小の藩も腰が引けてきて、結局はアイディア倒れに終わってしまいました。

どの藩にとっても「金」には食指が動くのですが、犯罪行為というところで二の足を踏みます。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のですが、みんなの中に密告者がいるかもしれないとなると、動けなくなります。

ただ、経済が時代の底を揺り動かし、政治がそれについていくと言うところは事実ですね。

現代でも経済の混乱が政権交代を成し遂げさせ、景気回復を期待させて、さらにそれが望み薄となると「ねじれ」を再現させました。

いつの世でも経済が政治をリードします。

163、仕事と言うものは騎手と馬の関係だ、と竜馬は、ときに物悲しくもそう思う。
いかに馬術の名人でも、老いぼれ馬に乗っていてはどうにもならない。少々下手な騎手でも駿馬にまたがれば千里を征けるのだ。桂や広沢における長州藩、西郷や大久保、五代、黒田における薩摩藩は、いずれも千里の名馬である。土州浪士・中岡慎太郎に至っては、馬さえないではないか。徒歩で駆け回っているようなものだ。
男の不幸は馬を得るか得ぬかにある
竜馬にも藩はない。しかし、この男には「亀山社中」という私藩とも言うべき馬を、独力で作り上げようとしている。その点が二人の行き方の違いと言っていい。

仕事を成功させられるか否かについて、面白い喩えなので引用してみました。

確かに・・・、司馬遼太郎のいうような側面もあります。『仕事』は規模の大小こそありますが騎手である『自分』がいて、馬である仕事の内容があります。やっている事業が時代のニーズに合っていて、資金もふんだんにあり、良いパートナに恵まれていれば・・・

確かに千里を駆けます。「絶好調!」と叫びたくなるでしょうね。しかし、3拍子が揃うような仕事というものはほとんどありません。何かが欠けていたり、時にはすべて逆境にある仕事というのもあります。そこを切り抜けていくのが仕事ですから、弱音を吐いていたら鬱病になって命を縮めるか、仕事を失って河原の住人になるしかありません。

多くの志士たちが、逆境に自暴自棄になって死に急いだのに比べて、竜馬も、中岡慎太郎も強かったですね。薩摩、長州という他人の馬を借りながら、しぶとく生き延びます。

故郷の土佐藩が、徐々に脱幕府に変わっていくのを待っています。彼らを支えたのは「時勢は倒幕に向かう」という、大局の読み、信念でした。

164、高杉晋作は平素、同藩の同志に、「俺は父からそう教えられた。男子は決して困った、という言葉を吐くなと」と語っていた。どんなことでも周到に考え抜いたすえに行動し、困らぬようにしておく。それでもなお窮地に陥った場合でも「困った」とは言わない。困ったと言った途端、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

「困ったというな」人間の心理を衝いたいい言葉だと思います。現代語では「パニくる」などといいますが、困った・・・と口に出したとたんに、頭が回転しなくなり、逃げることしか考えられなくなります。山や、海での遭難がその典型です。

生きている限り、困ったことの連続ですが、「困った」と何度言っても困ったことは片付きません。困ったと言ったとたん、人間は知恵も分別も出ないようになってしまう。

そのとおりなのです。頭の中が真っ白になるだけです。

「困った」といわない人を「腹の据わった人」などとも言うようですが、口に出すということは同意を求めたり、逃げを打つ態度ですから、相手に能力の限界を見透かされます。

アメリカ人が決してI’m sorryと言わないのもこの伝でしょうか。

165、この頃竜馬は、革命家である反面、一個の思想家としての風姿を帯び始めているが、後藤の場合は頭のてっぺんから足の先まで政治家であった。政治家的性格だけで後藤象二郎という人物は出来上がっている。 幕長戦争における長州の勝利で、後藤はすでに一変しているのである。

九州連合商社構想が破綻して、収入のアテがなくなりました。亀山社中の社長である竜馬が下関に留まっていても社中の経営不振は解決しません。竜馬にとっては国事に奔走することも大切ですが、亀山社中の仲間を食わせていくことの方が、もっと大切でした。「解散、会社整理」も選択肢の一つではありますが、それでは竜馬の夢「海外雄飛」が出来ません。

ともかく長崎で再起を図ろうと、長崎で待つお龍の元に帰ります。

この頃長崎では、土佐から疎開してきた後藤象二郎が土佐の代表として幅を利かせています。後藤はこの頃、積極的開国派に鞍替えしていて、土佐にいては攘夷派に付け狙われていたのです。土佐では依然として武市半平太の人気が高く、武市を殺した後藤象二郎は仇として狙われていました。後藤を殺したくない山内容堂の配慮で、後藤は上海に密航し、その後は長崎の丸山で遊んでいます。名目は武器の購入ですが、商売知らずの後藤ですから、外国商人に騙されて、市価の倍もするライフル銃を買わされたりしています。

長崎とて、後藤にとっては安全な場所ではありません。亀山社中の土佐出身者にとっても、武市先生の仇なのですから、隙あらば、と暗殺を狙います。そんなところに竜馬が帰ってきました。竜馬にとってお龍と新婚家庭を楽しむ余裕などありません。

まずは敵討ちを主張する社中をなだめ、後藤との直接会談に臨みます。土佐にあっては藩の執政と郷士の次男坊ですから、天と地ほどの身分の差ですが、自由都市・長崎にあっては対等どころか、竜馬のほうが格上です。外国人、商人たちの見る目が違います。さらに、薩長同盟の仲介をしたことも知れ渡っていて竜馬は有名人なのです。外国人などは竜馬が土佐藩の代表であるとすら思っていました。

後藤象二郎にとっては胸糞悪い話ですが、世間の評判には抗しようがありません。

対等の立場で竜馬に助言と、援助を求めます。竜馬のほうも破綻寸前の亀山社中の資金繰りに援助を求めます。政治家後藤と企業家竜馬、二人のニーズはがっちりかみ合いました。

この二人を取り持ったのが、長崎の商人・大浦お慶です。女ながらに上海に密航し、緑茶のマーケティング、広告宣伝をこなし、肥前の嬉野茶の大量輸出に成功しています。ヨーロッパ人には全く縁のなかった緑茶の市場開拓をしたのですから、凄い企業家でしたね。

亀山社中のスポンサーである小曾根乾堂ともども、竜馬の活動を支えた維新の脇役です。

亀山社中は土佐藩の支援を得て、いよいよ海援隊として再スタートを切りました。