長崎ちゃんぽん(第40号)

文聞亭笑一

前号で司馬遼太郎は 「後藤の場合は頭のてっぺんから足の先まで政治家であった。政治家的性格だけで後藤象二郎という人物は出来上がっている。」 と言っていました。

司馬遼太郎の言う政治家とはどういう定義なのでしょうか?

思うに「風見鶏」のことでしょうね。時勢に合わせて考え方を順応させていく、喩えそれが昨日までの意見と正反対であっても、臆することなく転向して行けるという人ということでしょう。武市半平太を憎み、殺しておいて、今度は武市の描いた一藩勤皇・倒幕を推進しようというのですから、180度転向です。見事としか言いようがありません。

その後も竜馬が発案した船中八策を自分の発案と偽ったり、公私混同をやりたい放題やったり、薩長には「竜馬は自分が動かしていた」的な偽装をしたりと、まさに変節漢です。

ただ、岩崎弥太郎にとってはありがたい経営音痴の後援者でした。NHK龍馬伝では弥太郎が準主役ですから、あまり悪くは書きませんね(笑)

現代にも政治家がゴロゴロいますね。ミンイミンイ(民意)と蝉のように鳴きながら右顧左眄(うこさべん)する政治家が権力争いをしています。野党政治家ならそれでもいいかもしれませんが、為政者となればそれでは困ります。為政者と野党政治家は違いますからね。為政者は方針を示してやりきる、過ちならば潔く出処進退する、そうあってほしいものです。

今週は長崎に土佐の維新の元勲たちが勢ぞろいします。竜馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、弥太郎、福岡藤次、佐々木三四郎・・・土佐人が入り乱れて長崎ちゃんぽんですねぇ。

海援隊、陸援隊の発足です。

166、「人は皆平等だ。人が平等の権利を持つ世を作る」と竜馬は言った。
後藤は、竜馬という男の、ほかの勤皇志士とは違う点を初めて覗いたような気がした。竜馬もまた、自分の同志にさえこの意中の秘想は明かしていない。 明かせば、彼は同志から斬られる羽目になるだろう。ただ、後藤象二郎だけはこのことがわかってくれるように思えたのである。
この頃の竜馬は、もはや、思想家として孤絶の境地に達し始めていた。

二人の会談はその後も大浦お慶の別荘・清風亭で頻繁に開かれます。

海援隊発足の交渉は後藤と竜馬の想いがすれ違って、一筋縄では行きません。

土佐藩の下部組織として藩政府の組織の中に吸収したい後藤、自主独立して、どの藩にも属さない道を貫く竜馬、相談は平行線です。

二人の相違点は、封建思想と民主主義思想の違いですから、なかなかに難しいものです。

竜馬はついに、勝海舟から聞いたアメリカの民主政治を後藤に語って聞かせます。後に、板垣退助が主導者になって土佐で沸きあがった自由民権運動の基盤になる話です。

実利を求める政治家の後藤は・・・分からぬままに、竜馬の意見を丸呑みします。

民主主義は、現代人にとっては至極当たり前の話なのですが、当時としては恐ろしく革命的な話で、士農工商の身分制度が常識ですから、後藤もたまげましたね。たまげた分だけ妥協しやすかったのかもしれません。後藤の頭の中では「使い捨ての海援隊」という絵が描きやすかったのだと思います。竜馬の名声と、船を手に入れ、薩長に遅れをとった土佐藩を維新の先頭に押し出すためには、<なりふりかまわず>妥協してしまいます。

豪腕といわれる政治家がいますが、後藤象二郎などはその先駆者でしょうね。

167、中岡は、京で土佐藩官僚の思想転換の工作に没頭し、そのことにほぼ成功して長崎にやってきた。竜馬は竜馬で、後藤の当方への接近ぶりを語り、話は面白いほど一致してゆく。
「陸援隊」という言葉を竜馬が発したとき、戦火の中で自分をたたき上げてきた革命児である中岡慎太郎は、瞬間、内容を直感した。「よかろう」と中岡は言った。

竜馬と慎太郎が久々に長崎で再会します。薩長同盟を仕掛けようと下関で再会して以来ですが、互いに勤皇活動のために奔走していたのです。二人とも、やはり、土佐への気持ちは絶ちがたく、後藤の海援隊、陸援隊という構想には「待ってました」という気持ちだったでしょう。二人とも活動資金に困窮していましたから渡りに船でした。土佐藩が後ろ盾についてくれれば、仲間の生活のことに煩わされずに目標に向かって邁進できます。

先の事になりますが、竜馬と慎太郎は一緒にいるところを暗殺されてしまいます。暗殺者は、京都見廻り組だとか新撰組だとか諸説がありますが、実行犯はそのいずれかにしても、主犯・教唆犯は後藤象二郎だという説が、私には有力に思えます。

後藤は海援隊、陸援隊のことも藩侯の山内容堂を騙していますし、大政奉還の建策も竜馬のアイディアを盗んでいます。金に関しても藩の公金を私物化するなど汚職だらけでした。

そのすべてを知っているのは竜馬と慎太郎、それに、弥太郎でした。

主犯・後藤に共犯弥太郎・・・これは一篇の推理小説になりますのでこの程度にしておきます。

168、天皇の死、少年帝の践祚(せんそ)、さらにその前には将軍家茂の死、慶喜の襲職がある。これらがほとんど同時に来た。時代が変わったという気分は、百姓町人にまで広がった。この、世の気分と言うのは、竜馬の好きな、「時運」という言葉に当たるであろう。この時運という洪水を巧みに導けば、あるいは回天の奇跡も成るかもしれない。
今まで佐幕的土佐藩が、大いに狼狽したのも、この時勢の変化を肌で感じたからに相違ない。

この時期、ともかく事件が頻発します。幕府びいきの孝明天皇が麻疹(はしか)を発症して突然薨去してしまいました。その前に将軍家茂も死んでいますから、幕府にとっては大打撃です。

さらに、徳川慶喜は「徳川宗家は継ぐが将軍職は受けぬ」などと駄々をこねたりしていますから幕府内部は右往左往です。

内政や外交のことなどそっちのけで迷走していますから、薩長土の革命勢力にとっては宮廷工作が草刈場の感じでしたね。ここで言う少年帝の践祚(せんそ)とは明治天皇の即位のことです。明治天皇が即位したときは、まだ高校生の年齢ですから政治的には何も出来ません。

後に、倒幕の勅書、錦の御旗など出てきますが、すべては薩摩の大久保一蔵と岩倉具視の裏工作でした。京都朝廷の公卿たちの多数派をどちらが握るかの争いで、幕府は完全に出し抜かれました。

そういえばこの間、良く似た話を現代の政権党がやっていました。民意という錦の御旗の奪い合いでしたが、維新のときの朝廷の公家衆に似ていましたねぇ。「国民の皆様のお暮らしのために」などと美辞麗句を並べても、所詮は内輪の権力闘争で、経済・外交などは蚊帳の外です。尖閣列島、円高で揺さぶられても碌な手を打てませんでした。

残念ながら政治も150年間進歩していないのです。国民の政治意識の低さ、マスコミという煽動家の論調に流されているだけですねぇ。攘夷が民意に変わっただけ???

169、<会議などは、無能なものの暇つぶしに過ぎない。古来、会議でものになった事柄があるか>というのが弥太郎の考えだった。物を創り出すのは一人の頭脳さえあればいい。衆愚が百人集まっても、「時間が潰れ、湯茶の浪費(ついえ)になり、厠(かわや)に無能者の小便がたまっていくばかりのことだ」と、弥太郎は思っている。
その「一人の頭脳」とは誰のことか。弥太郎に言わせれば、自分のことである。
それだけの自負がある。抱負もある。しかし哀れにもこの男は小役人に過ぎない。

これこそが創業者の発想です。これは事業を起こしたり、危機を切り抜けていくときには正しい(?)発想なのです。「正しい」という表現は問題かもしれませんが・・・ほかに適当な言葉が思いつきません。

会議の悪口には「会して議せず、議して決せず、決しても行わず」などというものがありますが、何も今に始まったことではありません。昔から人間社会はこのことを繰り返し、時に独裁的な者が現れて弥太郎流を始めます。それがうまくゆけば英雄で、うまくいかなければ暴君です。企業の創業者などは、いずれもうまくいった人のことを言うのであって、うまくいかなかったら会社が潰れてなくなりますから、記録に残らないだけのことです。

それにしても・・・「湯茶の浪費」「厠に小便」とはきついですねぇ(笑)

それもあってでしょうか、最近の国会は会議をしませんねぇ。与党は審議未了でも採決を多発しますし、野党は審議拒否の乱発でした。

永年野党をやっていた方が政権をとりましたから、これからは会議らしい会議があるのかと期待していましたが、前の政権よりひどい国会運営です。弥太郎的な人が政権をとると怖いなと思っていましたが、それは今回なくなって・・・さぁ、どうなりますか。

哀れにも、我々は一国民に過ぎませんね(笑)目の前の仕事を粛々とこなしましょう。