日本の洗濯(第45号)

文聞亭笑一

竜馬が土佐にいる姉、乙女にあてた手紙に書いた「日本を洗濯いたしたく候」の仕上げが大政奉還の実現です。いよいよ、その実現に向けて世の中が動きだしました。

土佐藩の建白書が、幕府の複雑な内部機構を通じて将軍・慶喜の元に届けられたのです。

内容を一読して、慶喜はホッとした気持ちになったのではないでしょうか。

ようやく、政争の修羅場から逃げられる、というのが慶喜の気持ちだったと思います。

彼の、この時期における迷走は「幕府の権威を回復する」というツッパリの部分と、「政権を投げ出して、楽になりたい」というホンネの間で、揺れ動いていたものと思われます。それが躁鬱症(そううつしょう)患者のようにも見えたのです。「長州を殲滅(せんめつ)する」と、勇ましい号令をかけ、翌日には「将軍の座を譲りたい」などと口走ったりしています。

現代も短命政権が連続していますが、総理大臣の座も躁鬱病の温床なのでしょうね。

大政奉還とは、現代の「衆議院解散」に似ています。安倍、福田、麻生、鳩山と4人とも、大政奉還ができずに野垂れ死にしました。果たして次はどうでしょうか。

184、公卿岩倉が担当するのは、なんとか幼帝の外祖父中山忠能を籠絡して倒幕の密勅を手に入れることであった。
大久保の担当は、その密勅をもって薩摩藩主を動かすことであり、西郷の担当は藩兵を革命の火中に投じて京都における武力戦の指揮をすることであった。
この三者三様の活躍は、名人の三人舞を見るようにすでに呼吸が合っており、その舞は次第にテンポを速めて最絶頂に差し掛かりつつある。

武力倒幕派の薩摩藩や中岡慎太郎などは、大政奉還の実現などは夢にも信じていません。「幕府が政権を投げ出すはずはない」と考えていますから、準備の手は緩めません。

まずは天皇から「倒幕」の勅命を拝受し、大義名分を明らかにすることです。

天皇の勅命があれば、それを持つ者が官軍となり、その相手は賊軍になります。

岩倉具視、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助(隆盛)の役割分担は引用した通りですが、中岡慎太郎はこの謀議に参加していながら、役割が不明確です。その理由は…薩摩が新政府の主導権を一手に握りたいという薩摩側の思惑にあります。この時点での西郷・大久保の政権構想は、あくまでも島津幕府モドキの創設でした。徳川に代わって島津が政権を担うというだけのことです。それでなければ、彼らの藩公・島津久光がゴーサインを出さないのです。久光の承諾なしには薩摩軍を動かせません。

大政奉還…薩摩にとっては迷惑千万だったでしょうね。徳川が政権を返上してしまえば、徳川を討つ根拠がなくなってしまいます。政権を持たない徳川家は、前田や伊達と同格の一大名にすぎません。

しかし、困っていたのは西郷や大久保だけで、岩倉はちっとも困っていません。

「朝廷に無断で外国と条約を結んだのは徳川の責任である」と、すでに勅書の原稿も作りあげていました。それに、天皇の玉璽(ぎょくじ)を捺印したら密勅の出来上がりです。

この時点での明治天皇はすでに17歳ですから「幼帝」という表現は適当ではありませんね。

若帝というところですが、判断はすべて祖父の中山大納言に任せていました。

中山が「玉璽(ぎょくじ)を」といえば、反対できるほど国政が分かってはいません。傀儡といってもいいでしょう。後の明治政府は天皇の名誉のために(?)、17歳の若者に「幼帝」という名を与え、一年後には「不朽の名帝」と持ち上げます。天皇が政治に使われると、国民も騙されますが、天皇も気の毒です。幼帝などというのは天皇に対して名誉棄損ですよね。

185、事態変化した。この夜、京の町に二条城の使者が八方に飛んだ。
「明日、異例のことながら将軍が諸藩の重臣を二条城に召集し、重大なことについて諮問する」というのであった。
徳川三百年の間、将軍が陪臣である諸藩重役を集めて政治上の問題を直々に諮問するなどということは、たえてないことであった。しかも諮問の内容は
「大政奉還の可否について」ということが明示されている。

京都に藩邸を持つ藩は四十数藩ありました。加賀前田、仙台伊達、薩摩などの外様の大藩を始め、十万石以上の藩は京都に藩邸を持っています。ただし、執政レベルの家老職が京都にいた藩は数えるほどしかありません。多くの藩では京都留守居役…つまり、京都支店長が重大会議に参加することになります。

将軍直々に、しかも大政奉還の様な重大事件に意見を求められたら、留守居役程度では腰を抜かします。右往左往するばかりで、意見などの持ち合わせはありません。

名指しされて「貴藩の意見は?」などと言われたらどうしようか。

ただ、ただ、そればかりが心配です。

参加者の大半は「お上のご裁断のままに…」という答えしか持ち合わせがなかったのです。

二条城での会議では、冒頭に慶喜が

「大政を天皇にお返し奉ろうと思うがいかがか」と諮問します。

ほとんどの参加者は「ハハー」と畳に這いつくばって、だれも顔をあげません。

将軍や老中と目があって、「貴藩の意見は」などと問われたら身の破滅です。しわぶき一つ出ませんでした。

「意見のあるものは申し出て、白書院まで参上するように」

これで会議は終わりです。

薩摩、土佐、安芸を除く各藩の代表はホッと胸をなでおろしました。大政奉還そのものよりも、自分が切腹から逃れられた安堵感の方が大きかったようです。まぁ、現代の陣笠議員と同様な感覚でしょうね。

面接を求めたのは小松帯刀(薩摩)、後藤象二郎(土佐)、辻将曹(安芸)の三人です。

三藩は、いわば共同提案者ですから当然でしょうね。将軍の決心を念押しし、すぐ実行にかかるよう進言をしなくてはなりません。

一方、納得いかないのは会津藩、桑名藩です。かれらは幕府のために血を流して政権を守ってきたのです。簡単に投げ出されては困ります。が、会議に参加していたのは殿様自身でした。小松、後藤、辻といった論客と渡り合って勝てるはずがありません。

かくして・・・その夜のうちに朝廷に参内し、大政奉還を奏上する連絡が取られました。

186、この決定を聞いた時の竜馬の言葉が陸奥の日記に残っている。
「大樹公(将軍)、今日の心中さこそと察し奉る。よくも断じ給えるものかな。よくも断じ給えるものかな。予、誓ってこの公のために一命を捨てん」

陸奥陽之助は文語調で綴っていますが、これを土佐弁で叫んだのでしょうね。

この内容を土佐弁でしゃべるとどうなるか? 夷骨相先生に訊いてみます。

ともかく龍馬は興奮します。ヤッター、ヤッターヤッターマン…というところでしょうね。

187、「俺は日本を生まれ変わらせたかっただけで、生まれ変わった日本で栄達するつもりはない」と言った。さらに、
「こういう心境でなければ大事業というものはできない。俺が平素そういう心境でいたからこそ、一介の処士にすぎぬ俺の意見を世の人々も傾聴して聞いてくれた。大事を成し遂げ得たのもそのおかげである」

京都四条・近江屋(酢屋)の龍馬の下宿には海援隊、陸援隊の面々や、土佐藩邸の若者たちが集まってきて大騒ぎです。プロ野球の優勝祝賀会、ビールの掛け合いのような雰囲気ではなかったでしょうか。

土佐の英雄竜馬が、きっと新政府の要職に就くだろう。そして土佐の名声を高め、土佐藩に大きな利益をもたらしてくれるに違いない、それが嬉しいのです。

が、龍馬はそれをきっぱりと否定します。自分は身を引くと言います。

「仕事というものは、全部をやってはいけない。八分まででいい。

八分までが困難の道である。後の二分は誰でもできる。

その二分は人にやらせて完成の功を譲ってしまう。

それでなければ大事業というものはできない」

その通りで、無欲、無私でなくては大仕事ができません。が、こういう境地にはなかなかなれませんね。凡人はこれを「龍馬の大欲」と邪推します。

竜馬は、アメリカでいう大統領になろうとしているのではないか? 将軍や天皇に代わってこの国の帝王になろうとしているのではないか…と邪推するものも現れます。

それが、暗殺につながっていくんですねぇ。誤解は誤解を増幅し、独り歩きを始めます。