竜馬どんを救え(第35号)

文聞亭笑一

伏見奉行所による寺田屋での竜馬捕り物劇は、踏み込んだ側の勢い不足で、結局は竜馬と三吉慎蔵を取り逃がしてしまいます。百人もの警察官(捕り方)を揃えていたのですが、剣客としての竜馬の評判と、竜馬が放つピストルの音を恐れて「突入」が出来なかったのです。そういう意味では現代の警察官と似た持久戦でしたね。奉行所方は特別機動隊である見廻組(みまわりぐみ)に応援を求めていましたから、剣の腕に優(すぐ)れた彼らの到着を待って一斉に踏み込むつもりをしていたのかもしれません。<袋の鼠(ねずみ)にした>と言う安心感もあったのでしょう。無理押しをしませんでした。

ところが、竜馬と慎蔵は裏の家に逃げ込み、その家を通り過ぎて一筋先の通に逃げます。

さらに堀を渡って材木置き場に逃げ込んで奉行所(ぶぎょうしょ)の目をくらませます。

なぜ、新撰組ではなく見廻組に応援を求めたかですが、新撰組は会津藩の管理下ですから指揮系統としては福島県警・機動隊です。一方、見廻り組は幕府直属部隊ですから警視庁機動隊になりますね。奉行所にとっては同じ指揮系統になります。江戸時代も官僚組織は実利よりも組織論理、身内論理が優先します。

こういう失敗があったために、その後、新撰組は幕府直轄に切り替えられ、近藤勇は千石取りの大旗本に出世していくわけです。

149、この娘の行動は、竜馬にも、お登勢にも、敵方にも分からなかった。
彼女は階下で着物を着、腰紐(こしひも)を結ぶなり、帯を手に持ち、そのままはだしで裏口から路上に飛び出した。飛び出すなり、5,6人の捕吏(ほり)を突き飛ばして真っ暗な道を駆けた。
伏見の薩摩屋敷に急を知らせようとしたのである。この場合、これほど適切な行動はなかった。

竜馬たちが応援を求める、救助を求めるとしたら、伏見にあっては薩摩藩の伏見屋敷しかありません。が、この時代の薩摩藩・伏見屋敷というのは、京都大阪間の休憩所的な役割しか持っていませんから、常駐する兵力はごくわずかです。お龍が駆け込んだとき、屋敷にいたのは6,7人程度で兵力と呼べるものではありません。

責任者は大山彦八。後に日露戦争で活躍する大山巌(いわお)元帥の兄ですが、彼の判断が適切でした。襲撃(しゅうげき)の模様をお龍から聞き、部下の一人を西郷の下(京都屋敷)に走らせます。

次に、屋敷の裏手に船を用意させ、下僕たちには市内の状況探索を命じます。

「捕り方が走り回っておれば竜馬どんたちが生きちょる証拠じゃ」

こういう危機管理の基本が出来ています。

薩摩藩と言う組織は、江戸時代を通じて戦国期の兵制を続けていた唯一の藩だったでしょう。260年間軍事態勢を維持していましたから、緊急時の対応もしっかりしていました。

明治維新の主力部隊として活躍する下地がありました。平和時でも軍隊は必要です。

150、竜馬はこの場では動きが取れない。それに夜間ではものの区別が見えにくい近視である。
「自分を置いて薩摩屋敷に走れ」
と、慎蔵に言った。うまく走りこめば竜馬も助かる。この上は慎蔵という男の運に頼る以外にない。
「賭(か)けて見ることだ。天がもし俺たちを生かしてくれるつもりなら、君は薩摩屋敷へ走りこめる。さもなければ天命に従うだけさ」

材木置き場に逃げ込んで、幕吏の目をまきましたが、竜馬の手の傷は重症です。出血多量で身動きが取れません。一方の三吉慎蔵は無傷です。「もはやこれまで、切腹して死のう」という慎蔵を励まして薩摩屋敷に走らせます。

竜馬の近視というのはかなりきつかったようですね。視力で言えば0,1以下ではなかったでしょうか。それに竜馬は風邪を引いていました。さらに親指の動脈を斬られて貧血していますから無理が利きませんでした。親指が利きませんから刀は握れません。見つかったら最後です。

普通の人は命の危険に遭うとパニックになり、死を急ぐ行動に出ます。山で遭難するケースでもそうなのですが、下へ、下へと沢に降りて行き、崖から転げ落ちて死ぬのが遭難者のパターンなのです。海でもそうですよね。海流に逆らって岸へ、岸へと泳いで、力尽きます。山の場合は尾根に向かって上り、海の場合は海流に乗りながら斜めに岸に向かうのが正解なのですが、経験してみないと分かりません。知っていることと、できることは違います。むしろ、知っていることが害になることのほうが多いですね。

危険だから・・・と、冒険をさせない教育が現代の主流ですが、若者の遭難死は経験不足の一言に尽きます。痛い目を見ることなしに育った頭でっかちの子供たちに、果たしてこの国の将来を託せるのか・・・時々不安に思いつつ、炎天下でノックバットを振るのが文聞亭です。

どこまで暑くなったら熱射病になるのか。体験しておかないと温暖化は乗り切れません。

151、それが看病と言うものだとはいえ、もはやお龍がいなければ、竜馬は日常のことが出来ないようになってしまった。それが竜馬のお龍への気持ちを、寺田屋事変の前とは質的に変化させることになった。
「この龍女がいればこそ、竜馬の命助かりたり」と、竜馬は兄権平へ書き送っている。幕吏襲来を告げた彼女の果敢な行動とその後の看病が、竜馬の心情を深めさせた。

竜馬は、一言で言えば、女性にはシャイです。乙女姉さんと言うマドンナの印象が強すぎて、女性恐怖症のタイプで、別の言い方をすればマザコン男です。加尾、さな、お龍・・・長崎丸山のお元など、小説では随分と女遍歴をしたように描かれますが、典型的フェミニストですからプレイボーイとは本質的に違います。女性のほうからアプローチされたら断りきれず、ズルズルと引っ張り込まれてしまうのです。

楢崎お龍は、乙女姉さんに似て個性の強い、男勝りの女性です。幕末当時の平均的女性からすれば、かなり自己実現を志向する現代女性に近い、ハネカエリのじゃじゃ馬娘でした。

シャイな竜馬の相手にしては相性の良いタイプとはいえません。が、母親代わりという見方からすれば最適の世話女房タイプだったかもしれませんね。

竜馬の傷は意外に重症で、傷口から化膿菌が入って敗血症的な症状を起こします。大量の出血で貧血症の上に、化膿菌のいたずらで高熱が続き、寝たきりになります。

お龍は、さすがに医者の娘です。父親の手伝いで怪我人の看病は手馴れていますから、しかも、なんとも気になる竜馬の看病ですから、隅々まで気配りが行き届きます。竜馬にとっては生まれて初めて、天使に会った気持ちだったでしょうね。竜馬の心の中に「この世でたった一人の女」と日に日に刻み込まれていきます。

152、吉井(よしい)幸(こう)輔(すけ)は馬上で笑った。大砲一門と最新式元込め銃を装備した洋式歩兵にかかっては奉行所も見廻組(みまわりぐみ)も、手がつけられぬであろう。
幸輔は、ちょっといい気持ちであった。ここで桂なら下手な一詩を作るであろうが、孫に吉井勇と言う歌人を持つに至るこの幸輔どんは、その孫に似ず詩痴(しち)であった。

孫に似ず・・・といわれても幸輔どんには良い迷惑ですよね。孫がどういう分野で才能を発揮するかなど、爺さんには分かりません。それを・・・詩痴などと言われてしまったら<穴があったら入りたい>気分でしょう。孫が高名な音楽家になれば音痴、絵描きになれば画痴・・・

冗談ではありません。この部分は司馬遼の言いすぎです(笑)さしずめ司馬遼太郎の爺さんは文痴、書痴にされてしまいます(笑)

さて、竜馬襲われる・・・の報に西郷が過剰反応をします。まずは吉井幸輔にライフル一個小隊と大砲一門をつけて伏見屋敷に急行させます。白昼堂々、軍事行動を起こしたのですからクーデターなのですが、伏見奉行所は全く手出しをしません。奉行所に逃げ込んで幕府の沙汰を伺いに伝令を走らせるだけです。新撰組も、見廻組もライフル部隊が相手では手出しできません。遠くから眺めるだけです。

吉井幸輔は伏見で竜馬の護衛をし、続いて大山弥助(巌)が竜馬を京都に迎えるため出陣します。これも一個小隊です。吉井が先頭、大山弥助が後衛、堂々たる大名行列で、竜馬とお龍は薩摩の京屋敷に護送されます。薩長同盟を西郷がどれだけ重視していたか・・・

その一つに証拠かもしれません。

さらに、西郷は竜馬の身の危険を守るために、竜馬とお龍の新婚旅行を提案します。藩邸では西郷が待っていた。

竜馬が帰ってくるなり、その部屋に入ってきて、

「坂本さあ、薩摩へお行きになはらんか」

と、ひどく魅力的な案を出した。いい温泉があると言うのである。