忙中閑あり(第37号)

文聞亭笑一

西郷に勧められた鹿児島行きですが、竜馬は気乗りしません。

それもそのはずで、やることが山ほどあります。長州への武器の調達もなんとか済みましたが、これに活躍した饅頭屋長次郎が英国留学を企て、仲間に露見して切腹させられてしまっています。竜馬にとっては商売という点で片腕をもがれたようなものです。亀山社中には土佐出身の船乗りは大勢いますが、商売を任せておけるのは長次郎くらいなもので、帳付けのできるのは陸奥が残っただけです。さらには暴れん坊の池(いけ)内蔵(くら)太(た)が加わって、ますます社中の面々が長崎市内で問題を引き起こします。「亀山の白袴」といえば、乱暴者の代名詞になり、奉行所に目を付けられています。ともかく、自分の会社を何とか立て直さなくてはなりません。

さらに、運用を任されていたユニオン号を、長州海軍が自主運用をするのだと言い出して揉め事が起きています。船の運用については桂や高杉の手を離れて、大村益次郎や山県狂介(有朋)などの急進派奇兵隊の意見が強まっています。幕府に攻められている戦時下ですから政治家の発言より、軍人の発言力が強くなっていますね。まぁ、戦争とはそういうもので、文民統制などといってもブレーキはかかりにくいものです。

154、西郷は ―― 何事も天だ。
と、大きなものから受けている恩恵を思うのである。天が、西郷の命を温存させるために、かつ、その命を歴史の中で有効に使うために、遠島の運命を与えたのであろう。
西郷はそう感ずるようになっている。

西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」です。文字のとおり<天を敬い人を愛す>という思想ですが、これは西郷の人生観でもあります。西郷は二度、島流しに遭っていますが、一度目は島流しというより、奄美に匿(かくま)われたという方が適切なようです。安政の大獄で京都から逃げ帰り、島津斉彬の温情で「死んだ」ということにして幕府の目から逃れたのです。

二度目は本物の島流しで、藩主久光に逆らった罰です。

このいずれもが、西郷の命を救いました。政争の場から避難して時を待つ。天とは時と勢いを言うのでしょうか。運とも言い換えられます。運というのは人智ではコントロールできませんからね。「何事も天だ」というのが西郷の悟りです。

その悟りが、のちのち明治維新の大業を成し遂げ、さらには「愛人」のあまり、不満武士たちに担がれて西南戦争に巻き込まれ、鹿児島城の露に消えます。

竜馬を薩摩への湯治に誘う頃から、西郷の腹の中には敬天愛人の4文字が浮かんできていたのでしょうか。自分の経験を踏まえ、今の竜馬は世間から身を隠すべきだと考えたようです。確かに、竜馬を京都に置いておけば、必ず新撰組、見廻組の捜査網に捉えられます。

とりわけ不用心な竜馬は、薩摩の護衛には内緒で薩摩屋敷を抜け出して、お龍と手をつないでの、銀ブラならぬ京ブラをしていますからねぇ。怪我が治っておらず、刀を使えない状態ですから新撰組に見つかったら命はありません。

こういう無用心さ、天衣無縫さが、後の暗殺事件の伏線でもあります。

ともかく・・・西郷の勧めを受けて鹿児島に行くことにしました。新婚のお龍をつれての旅で、日本初の新婚旅行だといわれています。

155、お龍も近づいてそれを見た。鉾の柄(つか)の両面をよくよく見ると、なるほど天狗の面が両方にある。神代(かみよ)に天狗(てんぐ)などと言う想像の怪物が創作されていなかったであろう。竜馬は大喜びをして、
「お龍よ、世間はすべてこうだ、遠きにいるときは神秘めかしくみえるが、近づいてみればこのたぐいだ。将軍、大名のたぐいもこれとかわらない」

竜馬とお龍が向かったのは、鹿児島からかなり霧島山の山奥に入った塩浸(しおびたし)温泉です。

名前のとおり塩泉ではなかったかと思います。竜馬の傷は化膿菌が入って、かなり重症だったようですから、塩分と硫黄分による消毒作用が効果的だったのでしょう。

ところで塩浸温泉というところは司馬遼太郎が原作を書いていた頃(S30年代)は寂(さび)れて旅館すらなかったようですね。現代ではどうなっているでしょうか。NHKが「竜馬のゆかりの地」で紹介してくれるのを期待しています。

傷がいえたら・・・温泉にのんびりと浸かっていられる竜馬ではありません。あちこち歩き回ってみたくなります。お龍をつれて霧島山への登山に出かけます。

山頂でも「ヤッホー」などといって引き返すような、お行儀の良いことはしませんね。

天孫(てんそん)降臨(こうりん)の、いわれのある天(あま)の逆鉾(さかほこ)を引き抜いて遊んでしまいます。修学旅行で中高生が落書きや悪戯(いたずら)をするようなものです。そういえば逆鉾という相撲取りがいましたねぇ。鶴ヶ嶺の息子で、寺尾の兄でしたね。親父の鶴ヶ嶺が鹿児島出身でしたから霧島山にちなんでつけたのでしょう。同門に霧島という大関もいましたね。

余談はさておき、引き抜いた逆鉾を調べながら、竜馬らしい、科学的な解釈をします。

先入観や感情が、いかに人の目を曇らせるかということで、権威に対する反抗姿勢です。

ほかにも竜馬語録とされるものの中に、富士山の歌があります。竜馬が最初に江戸に修行に行ったときに、駿河あたりで詠んだ歌だといわれるものですが、後世の作文でしょうね

来てみれば さほどでもなし富士の山 釈迦(しゃか)も孔子もかくてありなむ

156、<池内蔵太も船将(キャプテン)になったか>
竜馬はこの同郷の友人を想うと感慨無量だった。彼は京洛で剣をひっ提げて奔走した典型的勤皇浪士なのである。竜馬はそういう、背景の力を持たぬ浪人の奔走と言うものが、いかに無意味で非生産的なものか知っていたから、池を自分の社中に引き入れたのである。

池内蔵太の経歴は華々しいものです。京都では半平太の暗殺団に加わり、その後は奈良での天誅組(てんちゅうぐみ)事件(じけん)に参加し、さらに蛤(はまぐり)御門(ごもん)の変では長州軍として戦っています。幕末の事件にはほとんど顔を出して生き残ったのですから、実に運の強い男です。

背景の力を持たぬ浪人の奔走と言うものが、いかに無意味で非生産的なものかと司馬遼太郎は言いますが、現代でも無所属、無党派、無派閥政治家にも当てはまるかもしれません。総理にしたいNo1の候補も、背景の力を失ったとたんに色あせてきました。

社民党から無所属に代わった女性議員も出る幕がありませんね。政治家は時々の判断で、集散離合しながらひとつの政治勢力になっていくのでしょう。

157、「ここのところ、事が多かったな」
竜馬の寺田屋での遭難、ユニオン号の船籍騒動、ワイルウエフ号の沈没と同志の死、その間に薩長連合の樹立なども織り交ぜて、亀山社中は「商社」どころか騒動屋の観があった。

湯治の温泉場から鹿児島に帰った竜馬に朗報が届きます。薩摩藩が竜馬たち亀山社中に、専用の船を貸してくれると言うのです。蒸気船ではありませんが、新鋭の風帆船です。

これがワイルウエフ号で池内蔵太が船長として乗り組んでいます。ユニオン号とともに、鹿児島に向けてやってくる手はずになっています。

が・・・鹿児島港に迎えに出た竜馬の前に現れたのは蒸気船のユニオン号だけでした。

長崎からの航海中に暴風雨に襲われ、ワイルウエフは五島列島に流されて座礁し、沈没してしまったのです。池内蔵太以下、ほとんどの乗組員は溺死してしまいました。

ここの所・・・竜馬にはツキがありません。社中の面々に対する統制力、指導力にもかげりが出ています。新婚旅行と浮ついているわけには行かないのですが、お龍はお龍で落ち着いた家庭生活を求めてきます。「男は辛いよ」だったでしょうね。同情したくなります。

さらに、鹿児島でも難問が出ます。

ユニオン号には長州の桂が武器調達に協力してくれた薩摩への返礼として送ってきた米がありますが、これを西郷も小松も「頂戴できぬ」と断ってしまったのです。断るのは全くの善意で、戦時下で大変な友人から、軍事物資でもある食料は受け取れぬと言う理由ですから筋が通っています。一方の長州も「俺の善意が受け取れぬのか」と怒り出すことは目に見えています。500石の米が宙に浮いてしまいました。善意と善意が喧嘩を始めるほど厄介なことはありません。「それをまとめるが竜馬ドンの腕じゃ」と西郷に押し切られてしまいます。下関に持ち帰るしかなくなりました。

下関に向かって鹿児島を出港しますが、竜馬は長崎周りを指示します。本来は豊後水道を通るのが近道ですが、あえて遠回りをして女房孝行と、事故で死んだ仲間の供養をしたいのです。ここらあたりが竜馬らしいですねぇ。人気の秘密でしょう。

しかし、ホンネは下関海峡での海戦準備です。良質の石炭を積みたいのです。