いろはにほれて(第41号)

文聞亭笑一

明治政府になって元勲になった土佐藩の主だったものは、当時、長崎に全員集合しました。

国許の土佐では、中央の動きに対して何も対応できていませんでしたが、土佐藩長崎分室とでも言うべき「土佐商会」が土佐藩の政治の中枢を担っています。政治面では後藤象二郎、佐々木三四郎などが采配を振るいます。軍事面では中岡慎太郎の陸援隊が京都に乗り込み、薩長と連絡を取りながら倒幕の準備に余念がありません。一方、土佐にあっては、後藤の指示の元に板垣退助や谷干(たて)城(き)などが洋式歩兵の訓練に精を出します。

そして…経済・財政を賄うのが岩崎弥太郎と、竜馬の海援隊です。

弥太郎は主に土佐の物産の輸出と、財務経理を担当します。

竜馬は諸藩の物産の輸出入を斡旋する商社…というよりブローカ稼業と海運を手がけます。

170、竜馬の商法は大いに盛(さか)っている。
あちこちの小さな藩でも藩士を長崎に派遣して、貿易で利を得たいと躍起になり始めたというのは、やっぱり時勢だろう。
彼らが長崎に来ると、すぐに竜馬のもとに訪ねてきたのは、竜馬の海援隊が「諸藩の武家商法斡旋所」といった印象を世間に与えていたからだろう。

土佐藩の資金援助が後ろ盾になってからというもの、竜馬の商才が、俄然として発揮されだしました。竜馬は、資金繰りや経理といったお金の扱いは苦手ですが、営業に関しては天才的な才能を持っていたようです。資金は、金庫番である土佐商会の弥太郎に無心すれば、なんとでもなります。土佐ホールディングス…後の三菱銀行…がバックにありますから積極的な商売が出来ます。勿論、弥太郎はシブチンですから、その都度、喧嘩にはなりますが、後藤の浪費に慣れてしまった弥太郎は、竜馬の、言うがまま、融通します。

当時、日本には280ほどの藩がありましたが、そのうち西日本の海沿いの藩は、財政再建のためには輸出促進しかないと、海外との密貿易を志向していました。幕府の長州征伐に狩り出されて出費がかさみ、債務超過に陥っていたのです。特に西日本の藩では借金漬けになっていましたね。

最初に海援隊の上得意になったのは舞鶴の京田辺藩です。田辺藩が物産をかき集め、それを海援隊が船で長崎に運び、輸出します。そして、田辺藩が欲しがる西洋物産を輸入して運びます。これだけでかなりの粗利と運賃が稼げますから、海援隊は黒字になります。

さらに、竜馬は四国の大洲藩に働きかけ、蒸気船を買わせます。レンタル料を払うからそれで儲けろという提案です。大洲藩がこれに乗って、手に入れたのが「いろは丸」です。

風帆船一隻だけだった海援隊の商売が、大きく飛躍できるインフラが整いました。

いろは丸・・・商売のいろは、操船のいろは…竜馬たちの想いがこもった名前です。

今日をはじめと乗り出す船は  稽古はじめのいろは丸

医者の頭に雀がとまる  とまるはずじゃえ藪だもの

竜馬が作詞したといわれる海援隊の隊歌だそうですが…、これにどんな節をつけて歌っていたのでしょうか。ヨサコイ節、デカンショ節で歌うと…なんとなく…合いますねぇ。

順風満帆、いろは丸は鉄砲、弾薬などの輸入品を満載して大阪への処女航海に出航します。

当時大阪には海援隊の支店ができていて高松太郎(竜馬の甥)などが手広く商いを始めていました。奈良や兵庫などの小藩との斡旋ビジネスは順調です。

171、竜馬は一介の素浪人の身で御三家・紀州藩を相手に大喧嘩をする以上、命は亡きものと覚悟していた。敵は当然、刺客を放つであろう。だから、お龍のいる小曾根家を居所とはしない。<万一襲われたときはお龍を巻き添えにする>と思い、この訴訟騒ぎの間は、近寄らぬつもりでいた。

ところが・・・好事魔多し。瀬戸内海の福山沖で紀州の新型蒸気船と衝突事故を起こし、いろは丸は沈没してしまいます。濃霧の夜間航行ですから、操船技術に熟練していないと事故がおきやすい状況でした。

竜馬たちは紀州の明光丸に飛び移り、遭難者こそ出しませんでしたが4万3千両の船を失ってしまいます。これは大洲藩からの借船ですから、弁償しなくてはなりません。

鞆の浦に上陸し、賠償交渉が始まりますが、御三家の紀州藩が相手ですし、相手方では<浪人結社風情が…>と舐めてかかってきていますから交渉になりません。斬り捨て御免的な態度で、早々に長崎に向けて出港してしまいます。

長崎でも、交渉は遅々として進みません。そこで、竜馬は世論操作にかかります。

長崎と大阪で、紀州藩を非難する歌をはやらせます。いわばマスコミ操作です。

船を沈めたその償いは  金をとらずに国を取る

これも、ヨサコイ節の調子に乗りますねぇ。

マスコミ操作を得意とする政治家のルーツは、もしかして、竜馬かもしれません。

御三家の権威を傘にきて、高圧的交渉をする紀州藩に、長崎商人の常識、国際法の常識を宣伝して外圧をかけます。長崎は、反政府の機運が強い町ですから、子供までがこの歌を歌い、紀州藩士は精神的に追い込まれていきます。

同様な機運にある沖縄の基地移転、果たしてどうなりますことやら・・・。

172、後藤は竜馬のもとを訪ね、解決策を協議した。
「どうだ、問題解決の法を藩に預けてくれぬか」と、後藤は言った。
竜馬は了承した。土佐藩が矢面に立てば紀州藩の腰も定まるだろうと思った。

後藤象二郎にとっても、海援隊の挫折は彼の構想を狂わせます。長崎の土佐商会は土佐藩にとって重要な資金源なのですが、海援隊が倒産してしまえばその構想は水の泡です。

紀州藩が海援隊を浪人結社として見くびり交渉に応じないのなら、土佐藩が相手になってやろうというものです。

これには紀州も驚きました。土佐が相手で、しかも、竜馬の後ろには薩摩と長州がついているということも、だんだん分かってきました。薩長土の三藩を相手にするのでは、さすがの紀州藩でも腰が引けてきます。

紀州藩に残る手は、交渉当事者の暗殺しかありません。竜馬は丸山の花街や、土佐商会などを転々として、居所を隠す工作もしなくてはなりません。…が、これがお龍さんのヒステリーの原因になっていきます。お元という恋敵の存在もばれていますしねぇ。かといってお龍のところに帰れば狙われますし、竜馬にとっては辛いところです。

173、後藤は天性の駆け引き上手といっていい。この場合、土佐藩の態度がひどく硬いということが、先方に分かれば分かるほど、賠償金が高くなることを見越していた。

紀州藩は竜馬に暗殺者を派遣しますが、失敗します。

英国船の艦長に法律相談しますが、確たる有利な助言ももらえません。

そのうえ、土佐藩が交渉当事者として出てきましたから、多いに困りました。交渉を拒否し続けるわけには行きません。薩摩藩の長崎駐在である五代才介に調停を依頼します。

五代才介…後に、岩崎弥太郎同様に政商として活躍した五代財閥の創業者です。明治の財閥創業者には岩崎、五代のほかに渋沢栄一がいますが、この当時、渋沢は一橋家・徳川慶喜の家臣として、商売とは縁のない京都で、幕府のために奔走しています。

後藤の交渉上手は賠償額を言い出さないことです。万国公法などの法律論や、積荷の値打ち、土佐藩の信用などを持ち出し、一戦も辞さずという強硬姿勢です。紀州藩にとって、土佐山内家は軽視できません。24万石の大藩という以上に、山内容堂は公武合体派のリーダであり、親幕府派の重要人物なのです。ここで土佐藩を敵に回しては、劣勢にある幕府は崩壊の危機に瀕します。

このとき、紀州藩の交渉責任者は、政治の分からない経理担当の家老でした。竜馬一派の執拗な世論操作、後藤の強硬姿勢に恐れをなし、五代の提案する8万両強の賠償額で調印してしまいます。

ちなみに、船の衝突原因についてですが、諸説があります。

司馬遼太郎は土佐藩の主張を全面的に採用して、紀州藩の公法無視、操船未熟を原因にしていますが、津本陽は海援隊の公法無視、操船ミスを原因にしています。その他、弥太郎伝などでも竜馬に分が悪いですね。舟の損傷位置などから科学的に分析すれば、津本説のほうが正しそうに見えますが、事実は、果たしてどうだったのでしょうか。

「この怨恨が…後に竜馬暗殺の引き金になった」と司馬遼太郎は「花屋町の襲撃」という小説に書いています。紀州藩士・三浦休之介が新撰組・見廻組をそそのかして暗殺させたのだという意見ですが、果たして真相は…??