ことをなす人間(第47号:最終回)

文聞亭笑一

政治の混迷は今に始まったことではなく、所詮、政治というものは混迷を続けるものです。

自由主義、民主主義とは政治的混乱を前提にして出来上がったシステムで、安定した政治を求めるのなら江戸期の幕府独裁、そして隣国の○○党独裁に向かうのでしょうが、独裁政治の元では、すべての面で制約だらけになって、身動きが取れなくなります。そのような政治体制を求める人などは、ほんの一握りで、しかも、自分は独裁者、体制側になろうと志向する人たちだけでしょう。

世を挙げて「政治不信」というのが現代です。これは何も日本に限ったことではありません。アメリカも、ヨーロッパも、そして共産中国も政治不信が渦巻いています。

そしてそれが、民主主義であり、自己実現を目指す個人主義なのです。

そういう個人主義、民主主義をこの国に初めて持ち込んだのが明治維新という運動であり、その運動の一翼を担ったのが坂本竜馬という若者だったのです。

竜馬人気…当然でしょう。人気の元は改革を仕上げずに退場した爽やかさにもありました。

191、この長い物語も終わろうとしている。人は死ぬ。
竜馬も死ななければならない。その死の原因がなんであったかは、この小説の主題とは何のかかわりもない。筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件を考えてみたかった。それを坂本竜馬という、田舎生まれの、地位も学問もなく、ただ一片の志を持っていた若者に求めた。

司馬遼太郎が最終章に書いた小説の主題です。事をなす人間の条件 というのがそれです。

そしてまた「ただ一片の志を持っていた」という結論に結び付けています。

竜馬は、最初から志を持っていたわけではありません。ペリー艦隊の来航という衝撃を受けて「攘夷」という思想にふれ、さらには勝海舟によってもたらされた「民主」という思想に感じ入り、「日本」という国家意識を自らの中に描き出しました。

いわば、元祖・草の根政治家として育っていったのです。が、現代の草の根政治家と違うところは、最後まで草は草としての本分に徹したことでしょう。政治の裏側には経済があることを見抜き、この国の姿を「通商立国」と見定めて海外雄飛を求めたあたりに、竜馬らしさがありますね。

竜馬の、そういうところを嫌う作家、評論家は「坂本竜馬は死の商人である」とも書きますが、それはそれで正しい見方かもしれません。竜馬が生存中に行った商売の大きな取引は鉄砲、弾薬ばかりです。武器の輸入商社が海援隊でもありましたからね。

しかし、それは、竜馬の一断面だけをついた批判です。薩長連合、大政奉還につながる船中八策の提言などは余人ではなしえなかった功績です。

船中八策を「他人のアイディアの寄せ集めで独創ではない」と批判する人もいます。

これも、ヒガミ、ヤッカミの類の意見ですね。個々バラバラの意見を一つにまとめ、誰が見てもわかりやすく、この国の形を描いて見せるのは素晴らしい才能です。その証拠に、現代の政権与党が出したマニフェストなる愚作と比べてみたら、その値打ちがわかると思います。方や8か条でこの国の姿を明示しています。もう一方は187か条も使って、「読めば読むほどわからなくなる」代物です。しかも、それにこだわる余り、国を危うくする外交的失敗を繰り返していますね。内政では「一に雇用、二に雇用、三に雇用」と連呼しますが、187のうちどれが雇用につながる政策なのか、言った本人がわかっていないようです。

192、「慎の字、俺は脳をやられている。もういかぬ」
それが、龍馬の最後の言葉になった。言い終わると最後の息をつき、倒れ、何の未練もなげに、天に向かって旅立った。
天に意思がある。としか、この若者の場合、思えない天が、この国の歴史の混乱を収拾するためにこの若者を地上に下し、その使命が終わったとき惜しげもなく天へ召し返した。
この夜、京の天は雨気が満ち、星がない
しかし、時代は旋回している。若者はその歴史の扉をその手で押し、そして未来へ押し開けた。 (完)

1867年11月5日、京都四条河原町の近江屋の二階で、竜馬と中岡慎太郎は刺客に襲われ絶命します。竜馬はほぼ即死状態、中岡慎太郎は後頭部に受けた傷が致命傷となって翌日死亡します。

司馬遼太郎は「その使命が終わったとき」と断言していますが、確かにそうですね。

戦争回避を志向する竜馬が生きていたら、岩倉、西郷、大久保、桂が志向し、作り上げた明治新政府にはならなかったでしょう。竜馬は勝海舟、大久保一扇、永井尚志などの旧幕臣も加えた挙国一致政府を構想し、推進したでしょう。

どちらがよかったか? 歴史に「if」はありませんが、多分、竜馬の夢に反して政府は空中分解していたと思います。官軍が越後征討、東北征討をしたのはやりすぎですが、江戸の彰義隊、函館五稜郭などで反乱軍を殲滅したのはやむをえなかったと思います。

「話せばわかる」が民主主義ですが、話してもわからない、わからず屋が武器を持って立て籠もったら、統一国家としての日本が出来上がりません。そのことは、西郷反乱軍による西南戦争でも証明されています。佐賀の乱、萩の乱など、官軍の中心地で維新後の戦乱が起きていますからね。竜馬の出る幕ではなかったのです。

193、もののふや その魂やたまちはふ 神となりても国守るらむ
(三条実美)

明治新政府の首班となった三条実美が、竜馬、慎太郎の葬儀にささげた歌です。

最大級の賛辞、愛惜を歌っていますね。

明治新政府は、その後の版籍奉還をもって完成します。この大仕事を成し遂げたのが大久保一蔵(利通)で、新政府樹立以上に大変な仕事でした。

何が大変か、現代人には理解しがたいのですが、殿様、上士を平民に落とす作業です。

平等…というのは、口で言うのは簡単ですが、それまでの階級社会で上に居た人は格下げになります。下から上がる方は文句を言いませんが、上から下げられる方は大不満です。

企業で「職名で呼ぶのはやめよう。さん付け運動をしよう」などということが流行りましたが、平等を当たり前と考える現代人ですら、抵抗がありますからねぇ。

そのひとつに…企業、役所で管理職をしていた人ほど町内会、ボランティアなどに参加しませんね。誇りという埃が染み付いて、平等の世界に入り込めないのです。

194、竜馬の面白さは、その豊かな計画性にあるといえるだろう。
幕末に登場する志士たちの殆どは倒幕後の政体を、鮮明な像としては持っていない。竜馬のみが鮮明であった。そういう頭脳らしい。

人間の脳は、右脳と左脳でその役割が違うといいます。たしか左が論理脳で知識をつかさどり、右が芸術脳だと記憶しています。言い換えれば、左は微分…物事を分析し、より詳しくことを追及していく役割でしょうか。一方の右は積分…個別の事象を寄せ集めて全体を眺める機能でしょうか。

竜馬の物語を追いかけていて感じるのは、竜馬が右脳、積分脳を多用していたように思います。右脳は絵や音楽といった分野に限らず、スポーツ感覚にも結びつきます。イチローを例に出すまでもなく、優秀なスポーツマンは身のこなし方が違います。これは理屈ではありませんよね。「体が覚えている」などといいますが、右脳が理解しているのでしょう。

竜馬は、典型的なスポーツマンタイプだったと思います。当時のスポーツといえば剣術、柔術くらいなもんでしょうが、千葉道場の塾頭の腕ですから、現代のプロ野球選手くらいには相当するでしょう。

竜馬は左脳で仕入れて理解した部品を、右脳で組み立てて形にしていきます。

司馬遼はこの作業を「計画性」といいますが「課題形成力」「構想力」といったほうが適切かもしれません。しかも、その構想を人に伝えるのに、素晴らしい情熱を発揮します。

この情熱があればこそ、人が動くのですが、現代人はそれをどこかに置き忘れてきてしまったようです。わかったようなことを言う講釈師、評論家全盛ですが、こういう連中ばかりをテレビに露出させるマスコミの弊害でしょうね。

政権交代…その情熱の発揮を期待します。言い訳内閣など要りません。