先立つものは(第46号)

文聞亭笑一

現代の政権交代に当たっては、竜馬や三岡八郎に匹敵する財政通がいなかったこともあって、予算編成に四苦八苦し、マニフェストの実行が出来ず顰蹙(ひんしゅく)を買っていますが、明治維新成功の鍵は三岡の錬金術であったといっても過言ではありません。

画龍点晴を欠く…という言葉がありますが、財政の裏づけのない政策は絵に描いた餅です。それを、強引にやろうとすれば増税に走るか、政策を絞り込んで緊縮財政を取るしかありません。先立つものがなければ、いくら上等な理想を語ろうと、それは嘘になります。

大政奉還がなった今、竜馬は新政府構想を実現させねばなりません。岩倉具視も、西郷隆盛も、大久保利通も、そして中岡慎太郎もアイディアの持ち合わせがないのです。

まずは組閣人事、そして財政、つまり資金の確保こそが新しい国を発足させる必須条件でした。薩摩の島津が、徳川に成り代わっただけでは何事も変化しないのです。

「竜馬どん、おまんさぁに何か考えがごわんそ」と、西郷は龍馬に頼りきります。

「ある。あの男を閣僚として、すべてを任せることだ」

それが福井越前藩士・三岡八郎でした。竜馬の人脈というのは、脱藩して各地を走り回っていただけに全国区での逸材のデータベースがありました。三岡は安政の大獄で処刑された橋本左内の愛弟子です。それもあって、この頃は罪人として謹慎中でした。

「事業は人なり」といいますが、人材の発掘と登用こそが事業の成否を分けます。縦割り組織で身内ばかり集めているようでは発掘も登用もありませんね。広く人材を求める視点こそが経営の要諦でしょう。

187、やがて、草案が出来上がった。
関白一人・・・公卿より選ぶ。天皇を輔弼(ほひつ)し大政を総裁する
議奏(ぎそう)若干名・・公卿、諸侯のうち徳望知識のある者。天皇の意思決定に参画する。
参議(さんぎ)若干名・・広く人材を求め大政に参与する。諸官の実務を行う。
竜馬がこの案を草し終わったとき、すでに夜は明けようとしていた。

役職名に昔ながらの言葉を使っているところが可笑しくも感じますが、適当な新語が思いつかなかったのでしょう。それに、公家言葉を使う方が「天皇親政」を印象付けるうえで好都合だったかも知れません。

この職名を現代に当てはまれば、関白とは総理大臣というよりは衆参両院議長というイメージでしょうか。議奏とは、いわば国会議員ですが、後の貴族院(参議院)的な位置づけで名誉職の色彩が強かったですね。政府の中心は参議でこれが現代の大臣に相当します。

竜馬の頭の中には当然、具体的人名が浮かんでいたはずです。

関白は三条実美、議奏には尊王諸藩の殿様などが入っています。ここに、もし、徳川慶喜の名を入れれば…戊辰戦争は起こらなかったでしょうが、「維新」とは言えない中途半端な連立政権になったでしょう。政権交代を実現した現代の民主党が、左派の社民党と右派の国民新党を抱え込んで失敗した事例を見れば、連立の危うさが分かります。明治政府も、薩摩と長州、土佐の寄せ集め内閣でしたが、求心力を維持できたのは三条実美、岩倉具視の功績だったかもしれません。公卿が緩衝材の役割を果たしました。

もうひとつ、特筆すべきは「議奏」に土佐の山内容堂が入っていません。薩摩の島津久光との確執を避けたのでしょう。犬猿の仲ですからね。国会が機能しなくなります。

188、竜馬はいまひとつ言うことがある。財政のことであった。
「新政府は英雄豪傑には事を欠かない。しかし、政府を成功させるか、させぬかは、財務にある。財務のわかるものが、容易にいない」

いつの時代でも「金の切れ目は縁の切れ目」になります。理念経営などと叫ばれますが、どんなに立派な理念を掲げても、給料を満足に払わない会社からは人が逃げ出します。

私が長いことお世話になった会社の社憲(社訓)は「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」というものでしたが、社会より自分の生活を先に持ってきているところが好きでしたねぇ。建前の理念よりも、当たり前の本音が大事なのです。

英雄豪傑とは政治、軍事についてのことです。薩摩には小松、西郷、大久保がいます。

長州には桂、広沢、大村などがいて、土佐にも後藤、板垣がいます。錚々たるメンバです。

しかし、後藤に代表されるように、金を持たせたら一晩で使ったうえに借金の山を作るような連中ばかりです。公卿に至っては金の稼ぎ方などには全くの音痴です。

唯一、薩摩には五代才介がいますが、彼は岩崎弥太郎同様に事業家志向が強くて国家財政の運用とは別分野の才能でしたね。

この一節は、西郷との会話の中から抜き出しましたが、この時すでに、竜馬の頭の中には越前の三岡八郎の顔が浮かんでいました。

189、竜馬は語録を手帳に書きとめ、自戒の言葉にしている。
「世に生を得るは、事をなすにあり」
と、竜馬は人生の意義をそのように截断(せつだん)しきっていた。どうせは死ぬ。死生のことを考えず事業のみを考え、たまたまその途中で死がやってくれば、事業推進の姿勢のまま死ぬというのが、竜馬の持論であった。

この時代の人たちの凄さは、常に死と向き合って生きていたことだと思います。

「武士道とは死ぬことと見つけたり」

有名な佐賀・鍋島藩の「葉隠」の冒頭ですが、武士道という倫理観が現代の「民主主義」と同じ位置づけで刷り込まれていた時代なのです。竜馬の物語を読んでいると、人々がいとも簡単に切腹して死にますが、死ぬという行為にある種の正義感が同居していたのでしょう。植物人間になっても死なせてくれない現代では、想像すらできません。

「世に生を得るは、事をなすにあり」

全くその通りで、文句のつけようはありません。が、なすべき「事」が見つからないのが現代人で、とりわけ定年という無情な制度に出会うと、それまでの「事」が消えてしまいます。やりたくても続けられなくなります。

老年に入ってから「事」を探すのは容易ではありません。旅行やゴルフだけではすぐに飽きてしまいますし、そう、先立つものが底をついてきます。「困ったもんだ」とぼやいているうちに鬱になったり、呆けが始まってしまいますからねぇ。

まずは企業戦士のプライドを捨てて、それからでしょうね。犬も歩けば棒に当たる、今までと違う世の中に出て歩くことでしょう。なにかの「事」に当たると思いますよ。

190、三岡は、新政府財政の基本はこうあるべきだと説き、その財政技術の一つとして金札の発行を説いた。
兌換紙幣のことである。新政府にはまだ信用がないから京大阪の富豪を説き、彼らに勧進元をさせ、その財力と信用を借りれば一千万両くらいな金はたちどころに出来上がるだろう、と三岡は言うのである。

三岡の提案は、現代ならば国債発行に相当します。京大阪の富豪から借金をしようということです。が、この当時は通貨が金銀などの貨幣(コイン)でしたから、紙幣の発行という奥の手があります。

これは何も三岡の新発明というのではなく、江戸中期から「藩札」という地方債が発行されていましたし、開国以来のインフレで藩札の発行は返済不能、債務超過に陥っていました。藩内では一両で通用しても、江戸、京大阪の金融市場に持ち込んだら「半値八掛け五割引き」として扱われます。つまり、額面の二割の値打ちです。そう、商店街のクーポン券の様なものでした。

開国以来、京大阪の大商人が儲けたのは、このからくりの利用です。

当時、外国商人に人気の輸出品は生糸でした。農民から生糸を買い上げる(仕入れ)ときは藩札で買い取ります。藩札で一両払っても金銀の値打ちでいえば0,2両です。これを外国商人には一両の銀貨で売ります。濡れ手に粟とはこのことですねぇ。品薄になって、仕入れ値が倍になったとしても、痛くも痒くもありません。

このケースは実態商売が伴いますが、両替商などは藩札と金銀の交換という金銀取引で、もっと楽に金を稼げます。藩札と金銀の交換レートを上げたり、下げたり…現代の通貨取引、株取引だけで巨万の富が手に入ります。

維新後、岩崎弥太郎が財をなしたのは、土佐の藩札を政府の太政官札に交換する事業を独占したからです。金融音痴の後藤象二郎のおかげで、三菱財閥の資本金が湧いてきました。

エコポイント…これは錬金術ではなくバラマキですね。財政は痩せます。