八重の桜 25 西郷家の悲劇

文聞亭笑一

今週もNHK出版のネタ本発刊が間に合いませんので、勝手に「このあたりであろう」、という戊辰戦争の一こまを辿ってみたいと思います。

読者の一人から「西郷頼母なる人物が良くわからぬ」というレスを戴きました。確かに、この人は取り上げる歴史家、政治家、作家によって善人、悪人と大きく評価が分かれます。政治家というものは概ねそういうもので、支持者から見たら英雄、善人ですが、反対派から見たら、極悪非道の悪人です。どちらの立場で評価するか、それ次第。

ですから、勝海舟が言う通り「行蔵は我にあり。評判は人の勝手」ということですね。

海舟も明治に入って評価が大きく分かれた人です。佐幕派からは「江戸城を官軍に売り渡した変節漢」と言われ、新政府からは「改革を中途半端にさせた悪党」と言われます。

この言葉、私も時に心の中で繰り返したことがあります。海舟流に江戸弁でいえば、「自分が正しいと信じたことは、自分を信じて断固行うことさ。それをとやかく言う者もいるが、そりゃぁ、そいつの勝手だ。一々気にしていたら何もできねぇじゃねぇか」となります。

西郷頼母は、その意味では、自分を信じ、信念に従って行動した人、ということになりますが、その信念なるものが適切だったのかどうか? そこですね。

よくわかりませんが、東北出身で剛腕と呼ばれる現代の政治家がいます。あの人と頼母が重なって見えてしまいますねぇ。あの人も自分を信じて剛腕を振るいますが、壊すだけで何も生み出しません。外交はからきし下手くそです。危機管理もまるで、できません。地元が大震災を受けても、一度も国許に帰りませんでしたしねぇ。

97、会津軍は城門を固く閉ざし、西軍の侵入は防いだものの、激しい市街戦で、戦死者460人余り、藩士家族の殉難したる者230余人、その他一般市民の犠牲者多数を出し、約千戸の家屋を焼失した。   (会津若松史 #5)

白河口を破った西軍は、猪苗代方面から一気に城下になだれ込んできました。藩士は分担に従って城下の防衛に当たります。藩士の家族は籠城のために城へと避難します。引用した部分は、戦闘初日の総決算ですから、この間にいくつかの物語が挟まります。

滝沢峠の攻防、白虎隊の出陣、会津娘子軍の奮戦、郭門での戦い、西郷一族の自刃、飯盛山で白虎隊士19人の自刃、八重の銃が大山弥助(巌)を狙撃・・・

まずは、西郷頼母の話から始めてみます。

頼母は、白河城での戦いで惨敗して会津に戻ります。戻るなり和平、つまり講和を進言します。これは「仙台(伊達)も米沢(上杉)も頼りにならん。敵の戦力は想定外に強力だ、戦にならん。ゆえに、やめた方がいい」というもので、一見、正しい判断なのですが、「藩主の首を差し出して降伏する」ということと同義語です。官軍側の要求は、首尾一貫して「容保の首を差し出せ」でしたから…。

これで、頼母は家老を罷免されます。「今更要求を呑むのなら、最初からそうしている」というのが藩士一同の心理です。緒戦で負けたから降参する、というのでは奥州諸藩に対して義理が立たぬ、という心理もあったでしょう。及ばずながらも政府軍に損害を与え、しかる後に交渉するという方針で固まっていました。実際、越後口、日光口では政府軍を翻弄し、食い止めています。

98、頼母は歌人でもあったから、戦雲が会津盆地に近づいてきたいずれかの時点で、家族たちに辞世を用意させたり添削してやったりした。そのため「栖雲記」にこれらの辞世を書くことができたのであろう。   (幕末会津の…  中村彰彦)

この『いずれかの時点』とは、西郷が家老を罷免されて謹慎中のことと思います。罷免された家老の家族ですから、籠城に参加することはできません。敵が城下に侵入すれば、自殺するしかないのです。しかも、こういう場合は自宅に火をつけますから、辞世の句などは残りません。一緒に燃えてしまいます。辞世の句を紹介しておきます。

なよ竹の 風に任する身ながらも たわまぬ節は有(あり)とこそきけ   (妻・千恵子34)

なよ竹のようにか弱い女だが、武士の妻の節操、心根を見てみよ…という心の叫びです。

死に還り 幾たび世には生まるとも ますら武雄となりなんものを (妹・眉寿子26)

死んで生まれ変わることができたら、男として戦えたものを…悔しい

もののふの 道と聞きしを頼りにて 思い立ちぬる黄泉(よみ)の旅かな  (妹・由布子23)

 武士道を守れば、死出の旅も怖くはないでしょうね

手を取りて ともに行きなば迷はじよ     (娘・瀑布子16)

        いざ辿らまし死出の山道   (娘・細布子13)

娘二人は連歌にしています。「一緒だから怖くないよね」という意味でしょうか。

頼母の一族は9歳、4歳、2歳の娘たちを含めて21人が集団自決しています。行き場のなくなった人たちの悲劇でした。ここで首をひねるのは、妹二人、娘二人は当時の結婚適齢期ないし、それを過ぎていることです。家老の妹、娘がなぜ行き遅れたか? やはり、藩主との不仲が、ほかの藩士に遠慮させていたと思われます。浮いていたんですね。

西郷一族の自決は有名ですが、私は「藩士家族の殉難したる者230余人」という記事に目が行きます。西郷家と同様に、逃げ遅れたり、節に殉じたりした人たちが200人以上いたのです。思想、教育と言う者の怖さをしみじみ考えます。

99、頼母は、性格は強直で曲がったことに仮借ないため、近寄りがたい人物であったという。身長は5尺に足りなかったが、がっちりした体格だったので「ひげダルマ」という仇名があった。  (会津郷土史 宮崎十三八)

テレビでは西田敏行が演じていますが、姿かたちはこの表現によく似ていますね。

ただ、釣りバカ日記のハマちゃんとは大違いです。(笑)

性格だけでなく、名門意識が相当に強かったようです。西郷家はもともと保科家です。つまり、戦国時代に武田軍団の24将と言われた信州高遠・保科弾正の末裔です。この弾正が将軍・秀忠の息子である正之を養子に迎えたために、血脈のつながる頼母の家は家老職として代々藩主を支えてきました。幕末の藩主・容保は養子の家系の上に、さらに養子を重ねたようなものですから、頼母は、より「本流意識」が強くなったようです。

「世が世なら、藩主は俺だ」と思っていたかもしれません。それもあって、やや優柔不断の傾向のあった容保には不満がたまります。ことごとくぶつかります。容保にとっても小姑のような、煙たい存在でもありました。

現代の企業経営者にも、創業家出身者と、社員から昇進した者と、落下傘で天下って来た者の3種の人間がいます。良い、悪いの問題ではなく、頼母のような人物がいると、会社の和が乱れます。悪くすると、派閥抗争を起こします。出自の問題は、経営にとってどうでも良いことで、それを笠に着てはいけませんし、ありがたがってもいけません。人物次第、能力次第でしょう。現代の政治も世襲禁止などと言っていますが、出自のことなどどうでもいいではないでしょうか。問題は能力、人物です。

100、六日町口、守兵ことに少なし。神保内蔵助 敗兵を励ますも、守ること能(あた)わで破らる。内蔵助、田中土佐と邂逅(かいこう)し、ともに土屋一庵が屋敷に入りて、自刃しにけり。

(七年史)

会津は城下町です。城を囲むように外堀をめぐらし、町の出入り口には守備用の門、砦などがあります。会津には東から三日町口、六日町口、甲賀町口、馬場口、大町口、桂林寺口の6つの郭門がありました。六日町、甲賀町は城の大手門に通じる目抜き通りです。

「守兵ことに少なし」とありますが、どの門も戦力不足です。主力部隊の朱雀隊、青龍隊は白河口、日光口、越後口に出動していますから、守るのは年寄りの玄武隊と白虎隊の少年兵です。しかも、政府軍は強力な大砲で門を崩します。いわば物量作戦ですね。太平洋戦争での硫黄島のようなものです。白虎隊は城中に後退させ、残る玄武隊で戦いますが、勝てるものではありません。次々郭門が破られ、持ちこたえていたところも後方に回り込まれます。退路を断たれた神保内蔵助と田中土佐、ここで会津を支えてきた二人の家老が自刃します。この二人、会津の交渉事を引き受けてきた、いわば藩の顔であっただけに、その後の交渉事では、会津はエースを失いました。

この後です。藩士の家族230人が次々と自刃し、家に火を放ちます。逃げ遅れた下僕たち、町人たちが戦に巻き込まれ、殺害されたり、拉致されたり…悲惨な結果になります。

テレビでは放映しないと思いますが、神保雪の悲劇もこの時です。夫の修理が引責切腹で実家に帰っていましたが、父から「神保家の者と行動を共にせよ」と叱られ、帰る途中に大垣兵に拉致され暴行を受けます。それを止めに入った土佐仕官に脇差を借りて自刃して果てました。薙刀で突撃した中野姉妹など、八重の友達の多くが、亡くなりました。