水の如く 24 嵐の後で

文聞亭笑一

羅針盤のないドラマの追いかけというものは遅れたり、進んだりしますが#23が一話分進みすぎました。有馬の湯にお光(てる)さんや、松寿丸が来てしまいますからお手上げです。官兵衛が姫路に帰り、家族や家臣たちと再会するのは三木城が落城してからなのですが、それでは「猛烈サラリーマン」と同類になって、現代の視聴者に受けないと判断したのでしょう。

しかし、実際のところは秀吉も、官兵衛も、信長の目を畏れます。

というのも…、しばらく後の話ですが、本願寺との和睦の後、織田家の古い重臣である林佐渡守や佐久間信盛が「怠慢」を理由に追放処分を受けます。こういう信長の心の動きを、勘のいい秀吉は嗅ぎ取っていたと思います。ですから、常に信長に先手を打って睨まれないよう細心の注意を払っていました。三木城は早急に落とさなくてはなりません。

現代のサラリーマンもそうですが、部下は選べても上司は選べません。信長のような気分屋の上司というのは最悪ですが、「亭主の好きな赤烏帽子」「上司の好きな酒、麻雀」でご機嫌をとっておかなくてはなりません。現代の大企業の有名な経営者で、1万円以上の出金伝票にはすべて目を通すという人がいますが、そういう人の部下になったら、お金の使い方ではピリピリせざるを得ませんよね。

あはは・・・、そういえば私もかつて上司の一人でした。お金に関しては甘かったですが、目標に関してはきつかったですね。部下だった方々はご苦労様でございました。

ともかく、三木城を囲んでから一年半近くなります。荒木村重の謀反があったので大目に見てもらっていますが、それがなくなった今、モタモタできません。

93、今はただ 恨みもなしや諸人の 命に代わるわが身思えば(長治)
ながはると 呼ばれしことも偽りよ 二十五年の春を見捨てて(長治)
もろともに 消え果つるこそ嬉しけれ 遅れ先立つならいなる世に(長治・妻)
たのもしや 後の世までも翼をば 並ぶるほどの契りなりけり(友之・妻)
後の世の 道も迷はじ思い子を 連れて出でぬる行く末の空(賀相・妻)

「責任者3人の切腹で、他の者は無罪放免にする」…というのが降伏の条件ですから、現代人は「死者3名」と短絡して考えますが、この時代はそうではありません。

責任者3名とその家族全員…という意味です。それぞれの妻3人と、その幼子が6人、あわせて12人が自決しています。引用したのはそれぞれが辞世として残したものですが…どれも悲しいですね。

別所長治は2首の歌を残していますが、「今は…」の歌はタテマエでしょう。次の「ながはる…」の歌が本音だと思います。長治と長春を掛詞(かけことば)にして短い人生を悔やんでいます。叔父の言いなりになって、和睦のチャンスを何度も失いました。決断力と言う点で大将に相応(ふさわ)しくなかったのでしょう。総理大臣を筆頭に為政者、経営者とは決断をする人のことです。これができない人は、組織のトップになってはいけませんね。課長程度ならいいだろう…ですか? ダメですよ。部下を持つ人は決断しなくては仕事になりません。

長治の妻と弟・友之の妻、賀正の妻は「一緒にあの世に行けて嬉しい」という意味の歌を詠んでいますが、我が子を刺殺しての自決です。嬉しいはずがありません。とりわけ、賀正の妻は、落城戦で自ら槍をとって秀吉軍の将兵を斬り倒すほどの女丈夫です。「道も迷わじ」という語句に男勝りの強さ、潔さを感じます。亭主の別所賀相の方が、その意味では迷いましたね。

94、直家は、さきに見た時よりもいっそうやつれていた。やつれるにつれて、おかしなことに、直家の顔に人の良さそうな色合いが出てきた。
「官兵衛殿、頼む。筑前殿にもたのむ、たのむと申しておいてくれ」
まだ8歳の八郎・秀家の前途を頼むというのか、官兵衛に何もかも頼むというのか。頼むということは、そのどちらの意味も入っているに違いない。

備前、美作の二国を持つ宇喜多直家の織田方への鞍替えに関して信長は「まかりならん」と強硬姿勢です。以前にも出てきましたが、「目的のためなら手段を選ばず」という直家の態度は、信長の倫理観でいう「汚い」ものの代表格です。殺してしまえホトトギス・・・で、秀吉には攻め落とせという指令が出ています。

一方、官兵衛、亡き半兵衛とも宇喜多とは戦わずして味方に引き入れるという戦略を採り続けてきました。味方の兵力を温存し、宇喜多勢を毛利攻めの先鋒にしようというものです。これには秀吉軍の弱さが背景にあります。秀吉軍は急成長した新興勢力のため信頼できる武将がいません。兵の数だけはそろっていますが、リーダがいないのです。

勿論、蜂須賀、前野などの美濃勢がいますが、近江で新規採用した面々や、新規に部下にした播磨勢も信頼して任せるには不安です。ですから「戦わずして勝つ」という半官両兵衛…軍師の策が最適なのです。

稀代の悪党といわれた宇喜多直家も、既に癌の進行が進んでいます。悪事の限りを尽くし、一代で築き上げてきた身上だけに、信頼できる部下がいません。

「たのむ、たのむ・・・」は、後に秀吉が口にする言葉ですよね。

頼まれた秀吉は、この後に八郎(秀家)を我が子のようにして可愛がります。それもあって、「秀頼を頼む、頼む」と哀願したのではないでしょうか。自分は頼まれてそうしたから他人もそうしてくれ…、そうするだろう、という独善です。

95、籠城した別所衆は、侍大将も士も卒も、その後ほとんどが他家に仕えなかった。
籠城で武家奉公がつくづく嫌になったということもあるらしい。更には、自分たちの身代わりになってくれた旧主・長治への想いが、ひとしなみに強かったということもある様である。

籠城した者、城外で支援していた者を含めて、三木城で籠城した人数は1万人近かったものと思われます。この数の兵員がそっくり秀吉の傘下に入れば、羽柴軍は倍増できるのですが、実際はそうは問屋がおろしませんでした。

その理由の一つは、「お構いなし」のはずであった城からの退去にあたって、秀吉軍はかなり悪戯をしています。武器や甲冑などの金目の物を持っていれば、身ぐるみ剥いで取り上げる、それに逆らった者を殺しもしています。軍律と言う点ではかなりいい加減で、ヤクザ的な者が多かったようですね。急成長した組織にありがちな法令の未整備と、教育の不徹底です。

最近のIT企業も似た傾向があります。寄せ集めでスタートした新党も同様です。

俺が、俺がという傾向が強いと、組織の弱さを露呈します。

もう一つは、落城した別所勢を束ねるべき別所重棟の人徳のなさだったのでしょう。

兄の賀相といい、弟の重棟といい、名門を率いる力量がなかったようです。

96、御着城は捨てられた城である。空いたままにしておくと、土地のどういう勢力が押し込んでくるのかもしれず、危険であったが、しかし官兵衛がこれを管理する気にはならない。何やら世間の目から見れば、家老の官兵衛が乗っ取ったようで、そう言う目で自分を見られることは、この男の趣味に最も合わない。

官兵衛が姫路に戻る途中で御着に立ち寄ると、城はもぬけの殻です。城主が逃げてしまいましたし、そこに詰めていた重臣たちも、責任が自らに及ばないようにと自分の領地に逃げ込んでいます。「俺は毛利への鞍替えに反対だった」と言い訳の材料を必死になって探しているところです。ましてや「官兵衛を殺してくれ」という荒木村重宛ての手紙に関しては、「殿、小寺政職様の御一存でしたこと」と白を切るつもりです。

こういう輩が大勢して、御着に着いた官兵衛のもとに酒肴を届けて祝いに来ます。口々に旧主の悪口を言って「めでたい、めでたい」と官兵衛を褒め称えます。

こういう態度を勝馬に乗る…などと言いますが、いつの時代でもこのような寄生虫的人たちが数多くいて困ったものです。こういう輩に限って、太鼓持ちのようなおベンチャラが得意ですから、うっかりすると煽てのモッコに乗せられて振り落とされます。

彼らの狙いは、官兵衛の口利きで秀吉軍団に仲間入りしたい、しかも将官クラスで採用してほしいという下心です。虫が良いというのか、厚顔無恥というか、ご都合主義ですよね。見え透いた追従です。

彼らが持ち込んだ物資は、秀吉の部下・石田佐吉はじめ、近江商人出の者たちが処理します。秀吉が早速施行した楽市楽座で「拾得物」として金に換え、姫路城に溜め込みます。

これが、後の中国大返しの軍資金にもなるわけで、あながち無駄ではありませんでした。