乱に咲く花 28 ローニン、ヤクニン

文聞亭笑一

NHKドラマは、文さんが美和と名を変えて奥勤めに入る場面を中心に展開するようですが、歴史の本流からは少々外れます。今回はドラマの筋からは少し離れて外交や、国際環境を中心にお話をしようと思います。いわばドラマの背景説明ですね。

この頃、1864年の夏は、まさに戦争の季節でした。蛤御門の変という内戦が起き、それに呼応する形で幕府は長州征伐を号令します。朝廷は御所が攻撃され、京の町が焼け野原になったことに怯えて、幕府に積極的に「征長令」の勅書を出します。主義も主張もありません。戦争への恐怖感だけでした。闇雲に、ヒステリックに、「戦争反対」を叫ぶだけでした。現在のマスコミに似た姿だったと思います。

そういう中で、長州は英仏蘭米の4か国艦隊の砲撃を受けます。これは先に行った下関海峡での洋船砲撃に対する報復です。前門の虎、後門の狼・・・という表現がありますが、目の前には4か国17隻の連合艦隊が筒先をそろえて下関海峡を扼し、京には幕府の動員令を受けて諸藩の軍勢が揃いつつあります。絶体絶命・・・双方を相手にしたら万に一つも勝ち目はありません。

我々日本人――ことにその奇妙さと、聡明さと、その情念――を知ろうと思えば、幕末における長州藩を細かく知ることが必要であろう。この藩――つまり藩を挙げて思想団体になってしまったようなこの藩――が、狂気の活動をしてくれたおかげで、日本人とは何者であるかということを知るための大実験を行うことができた。

・・・と、司馬遼は書きますが、言わんとすることは主義主張に関しての可燃性の高さと、振子の振れ幅の大きさ、速さのことでしょうね。「中庸を以て是とする」のが日本人の根っこにある生き様ですが、日本人の天性の頭の良さは「ことば」に対する可燃性の高さに繋がります。「攘夷」という言葉が日本全体を覆い、大きく振子が揺れます。ところが、薩英戦争、下関砲撃の二つの事件が攘夷の不可能であることを満天下に示し、諸外国の外人たちは鬼畜ではなく人間であることを知らしめ、「開国、外交」へと正反対に向かって振れ戻りを起させます。

司馬遼は次のようにも描きます。

国際環境よりもむしろ国内環境の調整の方が、日本人統御にとって必要であった。
このことはその77年後、世界を相手の大戦争を始めた時のそれとそっくりの状況であった。これが政治的緊張期の日本人集団の自然律のものであるとすれば、今後も起こるであろう。

物騒な予測ですね(笑)そうならないためには、あまりにも極端なことを言って緊張感を高めないことです。百田さんも自民党の若手議員も極論を言いすぎですよ。

攘夷の総本山と化していた長州藩で、最初に開国を主張したのは僅か三人でした。

上海で欧米諸国が中国人を使役している姿を見てきた高杉晋作。

留学生としてロンドンに滞在中に、下関海峡封鎖(商船砲撃事件)を知って、急ぎ戻ってきた井上聞多と伊藤俊輔です。この二人は欧米社会にわずか半年暮らしただけで、攘夷の無意味さを確信しています。4か国連合艦隊が下関に現れた時、長州における開国論者はこの三人しかいませんでした。

藩内の攘夷派、松下村塾系からは「裏切り者」と命を狙われます。

井上と伊藤は危機一髪の時期に帰ってきた。既に劇的であった。歴史が緊張する時、極めて高度な劇的状況を演出するものだが、その劇的状況下で劇的そのものの帰り方で帰着した彼らは、当然、英雄たらざるを得ない。英雄とはその個人的資質よりも、劇的状況下で劇的役割を演ずるものを言うのである。

ドラマの中で初代総理大臣になった伊藤博文(俊輔)と井上馨(聞多)の活躍がどの程度語られるか不明ですが、4か国連合艦隊が下関海峡に現れるこの時期、間違いなく歴史の主役の立場に立っていました。

聞多と俊輔が帰着したのは横浜です。二人は密航の犯人ですから、保護を求めて英国公使館に駆け込みます。そこで情勢を知り、「自分たちが長州を説得するから艦隊派遣を待て」と交渉し、長州へ向かいます。勿論、長州まで送り届けたのは英国軍鑑です。

そこから井上聞多の活躍は目覚ましく、藩主や藩の重役を説得しようと大車輪の活躍を見せますが、燃えたぎった奇兵隊以下の反乱を怖れて藩論を覆すことができませんでした。時間切れで外国艦隊は出動、下関砲撃と上陸作戦が敢行されます。砲台のあった沿岸は、3千人の外国兵に占領されてしまいます。

時を同じくして、京から蛤御門での敗報が届きます。さらに征長の勅書のニュースが入ります。長州藩の重役たちの慌てぶりは目を覆うばかりでした。だからこそ井上聞多、伊藤俊輔などの活躍の場が与えられ、高杉晋作も牢から出されて「長州藩全権大使」として外国艦隊との和睦交渉に当たります。

この時、高杉晋作は「宍戸刑馬」という変名を使います。宍戸というのは毛利藩・筆頭家老の家柄で、その養子になるという形式ですね。というのも「武鑑(紳士録のようなもの)」で長州の政治組織は英国にわかっていますから、藩の代表であることを示すための小細工です。宍戸刑馬と名乗る高杉晋作が正使で、通訳が伊藤俊輔というコンビです。

この時、高杉が名乗った「刑馬」という名乗りですが、将棋の駒の「桂馬」を意味しています。

「俺の身分は桂馬程度だ」という自嘲と、「真っ直ぐには進めぬぞ」という冗談を掛けています。

遊び心というのか、武鑑等で日本の組織に精通しているイギリス側通訳のアーネスト・サトーを誤魔化す方策か、いずれにせよ開き直った心境だったと思われます。

ヤクニンという日本語は、この当時、ローニンとならんで国際語になっていた。ヤクニンというのは幕府の封建制が生んだ役割機能で、西洋の官僚とは違う精神構造である。極度に事なかれ主義で、自分の責任では何も決めない。漠然と「上司が」というが、上司とは実在の人物ではなく、例えば老中会議と言うような煙のような存在である。

アーネスト・サトーは回想録の中で「日本人で信頼できたのは3人だけだった」と書いています。

一人は薩英戦争の和議に当たった西郷隆盛、そして下関戦争での高杉晋作、さらに後の長崎事件で交渉に当たる後藤象二郎です。

この見方が、結局は英国の対日政策の基本になります。ヤクニンばかりの幕府は相手にせず、サムライの薩長土の勢力に加担する方針になります。そう言う点では幕府こそ日本の代表と見て肩入れしたフランスとは正反対の外交姿勢になりました。

さて、英国艦に乗り込んだ時の高杉の格好がふるっています。鎧(よろい)直垂(ひたたれ)に陣羽織を着こみ、長い立て烏帽子(えぼし)をかぶっていたようです。高杉らしい見栄というか、芝居ッ気でしょうね。サトーはこの姿を見て「魔王のような姿で傲然と構えていた」と書いています。

しかも、「降参しに来たか」と聞かれて「負けていない。だから降参しない」と言いきります。

そこで、英国は講和の条件として賠償金300万ドルと、彦島の租借を申し出ます。

彦島を、香港にしようという魂胆ですね。香港と九竜半島の地形と彦島・下関は良く似ています。この要求を高杉は頑としてはねつけます。曰く、

「攘夷令を発したのは幕府である。賠償が欲しいなら幕府に言え」

彦島租借の件は「フン」と鼻先でせせら笑って無視してしまいます。これは井上、伊藤がイギリスだけの欲で、4国の合意ではないことを嗅ぎつけていましたね。更に、同席していたフランス、オランダなどの代表の態度でそのことを感じ取っていました。

これで第一回目の交渉は終わり、翌日、二回目をやることに決まりました。イギリス側は「この男なら薩摩同様に話がつく」と安心したようです。ところが…陸に戻ると奇兵隊士たちが激昂しています。「弱腰三人を消せ」と血眼で探し始めます。三十六計逃げるに如かず・・・消えます。

文が藩主から拝領の衣装を渡そうと訪ねてきたのはこの時です。

二度目の交渉は高杉不在ですから代理の家老・毛利登人が交渉に赴きますが、門前払いです。「宍戸刑馬を出せ」といわれて、話が前に進みません。

そんな中に、京からの情報が届きます。尾張大納言を征長総督にした幕府軍が京に揃い、山陰、山陽、海路から攻め込んでくるという報告です。挟み撃ちを食ったらひとたまりもありません。

「高杉を斬る」と騒いでいた攘夷派の態度が一転します。「まずは外国船にお引き取り願うしかない」と講和に豹変します。まずは幕府との戦争を優先しようというのです。

司馬遼はこういうところを「日本的だ」というのでしょう。定見なしに騒ぐ、勢いがついたら手の下し様がないが、情勢が変化すれば正反対にも動く…というあたりでしょうね。

それを「日本人的思考法の大実験」と評したのでしょう。

安保法制で騒いでいますが、尖閣や小笠原辺りに異国が上陸でもしたら…、世論は一気に変わるでしょうね。タイなどの外国で日本人学校がテロに巻き込まれたら、自衛隊を派遣せよと騒ぐでしょうね。想定は楽観論で、現実には大騒ぎの過剰反応…こういう気質がありますねぇ。

「そもそも日本国なるは…」高杉は朗々と古事記、日本書紀の講釈を始めた。
長州藩士も4か国側も呆然としている。日本通とはいえ通訳のサトーも翻訳に窮してしまった。晋作はこれを延々と二日間ほどやり「だから一島なりとも割譲できぬ」というつもりである。

音を上げたのは英国艦長のクーパーである。「彦島租借要求を撤回する」と折れてきた。

煙に巻いた・・・というのでしょうか。後藤象二郎はイギリス公使が足を踏み鳴らし、机を叩き、ステッキを振り回すのを見て「今なぁ何ちゃぁ踊りかのう」と聞き返しています。理不尽な要求には取り合わないというのも交渉術の一つではあります。現代日本の憲法談義、反戦主張も結構ですが、世界情勢を見極めるべきだと思いますね。