次郎坊伝 29 今川領分割

文聞亭笑一

ついに…今川の最後の砦が崩れ落ちます。女戦国大名、尼大名と言われた寿桂尼が亡くなりました。これで今川家の外交能力は地に堕ちます。家臣、とりわけ地方豪族への求心力も核を失って遠心力の方が上回ってしまいました。とりわけ遠隔地の遠江と、薩埵峠の東側、駿東地方にはその傾向が強く出ます。

「滅びゆく今川を離れて、さて、誰につくか」

それぞれの思惑が交差します。

当然のことながら、海を求めて今川領獲得を狙う武田信玄の揺さぶりと誘いが、その進撃路を中心に活発になります。進撃路は富士川ルート、これはミエミエです。軍の移動には最短距離であり今川軍が応戦するにしても主力が駿河から出動するには薩埵峠を越えなくてはなりません。

この峠越えの道、現代人はトンネルで越えてしまいますから理解しにくいのですが、剣路です。高い山が海に突っ込む形で立ちはだかりますから海岸は通れません。東名高速道路が崖に張り付くように通っていますが、これとて少し海が荒れたら通行止めになるような隘路です。

残るは海路ですが、今川水軍を握る岡部家が態度をはっきりさせません。今川・北条・武田のどちらにもつくといった姿勢で、キャスティングボードを握ります。岡部としてもどこにつくかで命運が決まりますから、なかなか決断がつかないでしょうね。

こういう場合は一種の賭けですが、決断の遅れはどこにつくにしても信用と反比例します。

真田昌幸が秀吉から「表裏卑怯なもの」と呼ばれましたが、真田の決断は早かったですよね。

決断の遅れが滅亡に繋がったケースは枚挙にいとまがありません。まずやってみて、状況に応じて寝返るのも戦国では大切なことです。その点では現代のビジネスにも通じます。

小野但馬による井伊家乗っ取り

今回の物語では、どうやら最後までこのストーリは封印するようです。次郎坊、直親、政次の3人の幼馴染の友情物語という主題のようですから、いまさら小野但馬守政次が井伊家を乗っ取る話は書けませんね。テレビの方は作者にお任せしましょう。

歴史的には、井伊直虎が徳政令施行を受け入れた段階、つまり永禄11年11月9日を以て、直虎は地頭職を追われ、小野政次が井伊谷の地頭職に就任しています。ですからまだ直虎は今川に逆らっている段階なのですが、テレビの方は随分前に徳政令を施行してしまっていますね。

そこらが混乱の元です。今回の放送で寿桂尼が死ぬのが永禄11年春のことです。

そして武田信玄が駿河に攻め込むのが12月です。それに合わせて、家康が遠江に攻め込みます。

どうやら今回の舞台は永禄11年4月ごろのようですが、時計の針が進んだり戻ったりして訳が分かりません。まぁ、物語というものは歴史事実を知らずに「そうか、そうか」とみている方が気楽で面白いでしょう。文聞亭のようにあれこれ調べて「?」を積み重ねるのは亜流です。

山岡荘八の「徳川家康」にしても、司馬遼の戦国物にしても、池波の「真田太平記」にしても、多かれ少なかれそういうところはありますが、今回ほど「?」の多い歴史物語は初めてです。

作者のこだわりでしょうね。小野政次を悪人にしたくないのです。

やむに已まれず…、または直虎のために・・・という話にこだわっています。

今川分割協議

「大井川を境に、東を武田が、西を徳川が奪う」という「今川領分割協議がなされた」ということになっています。密約ですから証拠書類などは見つかっておりません、当然です。

結果的にそうなった…とばかりは言えないことで、武田と徳川が今川領に攻め込んだのが殆んど同時なのです。たまたま・・・にしてはタイミングが良すぎます。これは、事前に何らかの打ち合わせがあったというのが常識的判断でしょう。

今回の作者もその立場をとります。

武田の重臣・山県昌景が家康を訪ねて分割協議を持ちかけた・・・としています。山県昌景のような大物が三河まで出向いたというのは「?」が残りますが、それ以前に外交的接触が頻繁にあって、最終の大臣協議のような形で大筋合意に達したのでしょう。

この当時、武田信玄の参謀本部というか旗本衆には少壮気鋭の3人組が揃っていました。

松代城代になった高坂弾正、真田の三男坊・真田昌幸、それに曽根昌世です。彼らが信玄の手足となって政治外交を一手に引き受けていました。高坂は特に対上杉、真田は対北条、でしたから、駿河方面を担当していたのは曽根ではなかったかと思われます。

度重なる事務折衝で徳川の外堀を埋め、内堀を埋め、最後に大物の山県大臣を派遣して、決着を付けたと思われます。徳川の外堀とは織田信長、内堀とは酒井忠次、石川数正という、家康の左右の両輪でしょう。家康とて独裁体制はとれていません。重臣たちの意見には逆らえません。

今回の作者は今川や徳川が上杉謙信と結ぼうとした・・・と云う仮説を入れていますが、それは多分、無かったと思います。今川は勿論、徳川もこの時期は諜報組織・・・つまり忍者部隊や商人組織が未整備です。徳川忍者の元締め服部半蔵や、京の呉服問屋・茶屋四郎次郎などが家康の手足として活躍するのは十年以上先の話です。

三河から越後まで、現代でもどのルートを通って交渉をするか…考えてしまいます。

直線で走るには信州飯田に出て諏訪、松本、長野、高田と経由できますが、武田の領国です。武田軍団でもとりわけ情報通の秋山信友、馬場美濃、高坂弾正の支配地を、上杉と徳川の情報要員が通り抜けるなどは至難の技でしょう。

もしかすると上杉への密使が捕まって、それをネタに武田に揺さぶられたということも考えられますが、普通はこんな危険なルートを使いませんね。織田の領地を通って日本海に抜け、海上を直江津まで行き、謙信に拝謁するというルートですが…万が一にでも信長に見つかったら、その時点で徳川は終わりです。信長ほど猜疑深い男はいません。

それに、この頃は既に信長の娘・徳姫が岡崎城に嫁入りしています。徳姫付きの者たちは信長の忍者集団です。「徳川が上杉に誼を…」などがバレたら、今川より先に徳川が潰されます。

直虎の決断

直虎が今川離れを決断したのは徳政令施行の時だと思います。地頭職解任となり、龍潭寺に逃げ込みます。領主・俗世から僧に戻って身の危険を避けたのですが、井伊族の代表としての地位と期待は次郎坊に寄せられています。小野の専横を許すわけにはいかぬ。…となれば、頼るべきは西隣の徳川しかありません。

この時、甥の直政を鳳来寺山に避難させています。