どうなる家康 第21回 走れ 走れ 強右衛門

作 文聞亭笑一

信玄亡き後の「家康対勝頼」の戦いは勝頼が押し気味に三河、遠江の領土を蚕食してきました。

東部戦線では国境の大井川を越えて、高天神城の辺りまで武田勢力圏になりました。

また、遠江の地侍達も武田に寝返るものが増えてきました。

奥三河の地侍達も同様です。

山岳地帯の小領主達は日和見をしながらも、どちらかと言えば勝頼シンパへとなびいていきます。

岡崎の町奉行までもが反逆を試みた・・・と言うゴシップニュースは家康の指導力への不信を煽ります。

その意味では勝頼の仕掛け、情報戦は着実に効果を生んでいます。

そんな中を奥平家が武田から徳川へ寝返ってきました。

押され続けてきた家康にとっては久々の吉事です。

その奥平を長篠城に送り込みます。

長篠城は元々徳川陣営にあったのですが、信玄の西上作戦の折に武田方に取り込まれた城の一つです。

家康は取り返した長篠城の主将に、亀姫の夫・奥平信昌を派遣します。

今回のドラマでは女の世界を丁寧に描きますので、どういう展開になるかはわかりませんが、奥平信昌には「おふう」という前妻がありました。

彼女は人質として甲府にいましたが、信昌が徳川方へ裏切ったというので、激怒した勝頼の命で磔になりました。

余談になりますが、この奥平家は亀姫の産んだ4人の男子のうち一家が豊後・中津藩10万石の大名として明治維新を迎えます。

福沢諭吉はこの藩の出身でしたね。

長篠城

恥ずかしながら文聞亭は、歴史好きにしてはうかつに、長篠・長篠城の位置をずっと信濃寄りの位置と勘違いしていました。

また、天竜川の支流かと思っていましたが豊川の上流で、ずっと海寄りの位置でした。

今回Googleで付近の地形や、決戦のあった設楽が原との位置関係を確認して頭の中のデータを修正しております。

地図帳で見ると北設楽郡というのがかなり山岳地帯にありますので、設楽が原の位置をそれと勘違いしていました。

それにしてもGoogleのマップは凄いですね。

長篠城の地形は勿論、長篠の戦いに出てくる鳶の巣山砦とか、勝頼、家康、信長の陣所跡まで写真で紹介してくれます。

勿論、スポットとしての情報は入手できますが、空間的広がり、立体的位置関係は現地に行かないと体験できませんね。

ともかく、長篠城の位置は信玄が最後に攻略した野田城と至近距離にあります。

ここを落とされると岡崎と浜松の間を分断されかねません。

家康としても必死です。

一方で、勝頼が長篠を攻めたのは「ついでの仕事」「帰りの駄賃」という説もあります。

勝頼が1万5千の大軍を引き連れてきたのは、大賀弥四郎の反乱が成功することを見越して、岡崎城へ入城し、三河を占拠してしまうという予定だった・・・と言うのです。

岡崎を落としてしまえば、長篠などは孤立します。

攻めなくても落ちます。

しかし、勝頼にとっては残念ながら・・・弥四郎一味の企ては事前に露見し、岡崎乗っ取り計画は挫折します。

さて・・・手ぶらで帰るわけにもいかぬと始めたのが長篠攻めだった・・・と言うのです。

この説に納得性が高いのは勝頼の率いてきた兵の数です。

徳川と決戦し、叩きつぶすには少ない、少なすぎます。

岡崎城を占拠してしまえば良いですが、そうでなければ、地の利のある徳川、更に織田の援軍が来ると、劣勢になりかねません。

事実、そうなりました。

鳥居強右衛門

長篠城の攻防戦には「援軍来る!」というドラマがあります。

多分に後世の脚色が混じっていますが、1万五千の大軍に包囲された僅か300人の城兵が1ヶ月近く粘るのですから驚異的です。

また、長篠城の地形上の要害さ、攻めづらさも察せられます。

籠城戦は「味方の救援がある」という前提で戦います。

「ない」とわかれば「降参する」か「玉砕する」しかありません。

勝頼に奪われた高天神城の場合は、織田の援軍が遅れたため、城将が援軍到来を待ちきれずに降参してしまいました。

今回の長篠のケースも信長の援軍は遅れます。

「援軍に来てくれぬのなら、徳川は武田に寝返って尾張を攻める!」

・・・と、言ったとか、言わぬとか、従来にない異論が幾つかありますが家康の必死の要請に信長自らが出動してきます。

今回はこの辺りの駆け引きを面白おかしく演出するようですね。

テレビのやりとりを楽しみましょう。

鳥居強右衛門という奥平家の軽輩の武士がいます。

城主の奥平信昌の要請に応えて城を脱出し、岡崎城まで援軍要請にいき、帰ってから「援軍来る」と叫んで刑死します。

江戸期に入り、儒教的教育で「忠義」「信義」という概念が重要視されるようになると、一躍・大スターに祭り上げられた人物です。

彼の活躍で籠城兵達は息を吹き返し、長篠の大合戦までの5日間を耐え抜きました。

メデタシ・メデタシの物語ですが、今回はどう描きますかね。

とりあえずは物語本の筋書きをお復習いしておきます。

巨万の敵に囲まれて、籠城兵達に不安が広がる、高天神と同様に援軍は来ないのではないか?

「誰か確認に行くものはいないか」 皆尻込みをする中、末席から鳥居強右衛門が名乗り出る

「頼む」と名刀の脇差しを渡そうとすると 「無事帰ってからいただく」と固辞

夜陰に紛れて水中を潜り、流れに乗って下流まで泳ぎ包囲網を抜け出てから上陸

岡崎までの45kmをひたすら走る・・・水泳からマラソンへ、トライアスロン並みです。

岡崎城の奥平貞能(城主の父)の元に駆け込み、長篠の窮状を伝える⇒家康へ⇒信長へ

「しっかり休んで明日は道案内せよ」という信長の言葉を振り切って、長篠へ戻る

帰路、武田兵に捕まる 「援軍は来ないと言え」と脅されて承服

しかし城に向かって「援軍はそこまで来ている、もうしばらくの辛抱だ」と伝え、処刑される

奥平信昌以下、城兵達は頑張って城を守り抜き、設楽が原の戦の当日を迎える

信昌は約束の脇差を幼い強右衛門の息子に与え、後に奥平家の家臣として取り立てていった

この話は実話のようですね。

磔になった鳥居強右衛門の姿を、戦の旗印にした落合左平次という侍がいます。

関ヶ原ではこの旗印で活躍したといい、旗に血痕が残ってもいたようですから・・・実際に戦場で使われたもののようです。

関ヶ原ですから、江戸期の物語本より早いですね。

いよいよ設楽が原の、いわゆる長篠の戦いが始まります。

1万5千の武田と4万近い織田・徳川がぶつかります。

兵器の差もありました。

織田軍には千とも、3千とも言う鉄炮があります。

それに対して武田騎馬軍団の突進・・・これも戦車並みの威力です。

結果は武器ではない武器、馬防柵を使った信長の圧勝でした。

この辺りは次回でしょうか。