八重の桜 26 ああ白虎隊

文聞亭笑一

1868年8月23日をThe Longest Day ㏌ AIZUと呼ぶ人がいます。 一日は24時間、longestもshortestもありませんが、それほどいろいろな事件が起きた日であるという意味でしょう。8/21から始まった会津盆地での戦いは、最初の数日間に、物語として語り継がれた事件が凝縮されています。

時間軸で追ってみましょう。

22日払暁 二本松を発した官軍は母成峠を越え猪苗代の出城・亀ケ城に迫る。

10時 佐川官兵衛率いる混成部隊が、会津の入り口である滝沢峠に仰撃のため出陣

    白虎隊集合、西の丸に入る。

13時 松平容保が滝沢本陣に出動、白虎隊はそれに供奉して出陣

14時 滝沢本陣に到着 佐川部隊は猪苗代・戸の口原へと出陣

15時 佐川からの援軍要請に応じ、白虎隊が戸の口原へと出陣

16時 官軍との間で戦闘開始  勝敗不明のまま日没となる

深夜  白虎隊は隊長不在のまま、夜襲を決意。官軍宿営地を襲うが撃退され、散り散りになって逃走。そのうち20人が飯盛山にたどり着く。

23日早朝 飯盛山・山頂から城下が黒煙に包まれる姿を見て、落城と勘違い、自決

というのが「事実」です。が、この事実が判明したのは明治40年になってからで、それまでは映画や物語にあるように、深夜の彼らの行動は美化され、隊長は卑怯にも戦場から逃走したことになっています。が、白虎隊隊長・日向内記は佐川との作戦会議で隊を離れていました。命令は「現場待機」でした。その後も日向内記は残った白虎隊を連れて籠城し、籠城戦で活躍していますから、決して逃げてはいません。

なぜ白虎隊士は隊長の命令を待たずに夜襲を決めたのか? 謎です。謎ですが、この夜は雨でした。真っ暗闇の山中で、雨に濡れ、食料もない状況に戦場経験のない若者が置かれたら、発狂する者が出ます。恐怖感と正義感…この二つが交互に襲ってきたとき、人は暴発しやすいのです。私は中学生の時、キャンプ中の深夜に台風に襲われたことがあります。その時、仲間の一人が「母ちゃん」と叫んでテントから飛び出そうとしました。皆で必死に組み敷いて、大事に至りませんでしたが白虎隊も似た心理ではなかったかと思います。真っ暗闇の山中、怖いですよ。私は台風でしたが、白虎隊は戦争です。怖さは一桁上だったでしょうね。「野垂れ死にするくらいなら突撃」という心理はわかります。

日向内記は戦後、全く弁解をしていません。斗南に移住した旧藩士に政府の目を盗んで食料を送る事業に献身しています。古いタイプの古武士だったのでしょう。部下を死なせた責任を全うし、卑怯者のまま喜多方で一生を終えています。英雄伝説には、必ず虚飾があります。英雄が英雄であるためには、卑怯卑劣な悪党が必要なのです。白虎隊神話が、後の軍部によって美化され、203高地の肉弾突撃、太平洋戦争の学徒動員につながっていきます。「事実」を知ることは、将来のためです。

101、会津の女性たちは最後の時が迫ったと自覚して城に走ったが、中野母子は「照姫が坂下に移った」という話を聞いて、急遽、城でなく坂下に向かうことにした。
そう考えた女性は他にもいた。この人たちが後世、会津娘子軍と呼ばれる。

照姫は、会津女性にとっては殿さまよりも大事な人という感覚でした。上総・木更津の飯野藩・保科家から養女に迎えられ、本来ならば容保と夫婦になるべき人でしたが、先代に娘が誕生したため、城に残ることになった女性です。美貌の上に教養に優れ、会津女性の憧れの対象でした。しかし、これはデマでした。

坂下という場所は、もしもの場合の避難場所ですから、城からは離れています。城下は既に敵兵であふれていますから引き返せません。

中野竹子は会津一と言われた薙刀の名手です。そればかりか容姿端麗で歌の道にも優れ、会津小町とも呼ばれていましたね。彼女は薙刀に「武士(もののふ)の猛(たけ)き心に比ぶれば数にも入(い)らぬわが身ながらも」という辞世を結んで、官軍と戦っています。官軍兵士一人を斬殺、数名に大怪我をさせる活躍でしたが、鉄砲に頭部を撃ち抜かれて戦死しています。母や妹は、味方とともに退却し、籠城しました。

102、北出丸は高い土手と、その上に建てまわされた白い漆喰の壁に囲まれている。
八重が駆けつけた時、鉄砲狭間には老人たちが貼りつき、火縄銃や旧式のゲーベル銃で射撃を開始していた。八重も銃眼の一つに取りつき、仰撃戦に参加した。

会津城は、火縄銃の時代なら難攻不落の優れた城郭です。北出丸というのは城の正門に位置し、大手筋をまっすぐに進軍してくる敵を迎え撃つ構造になっています。凹型の構造で、大手門に向かう敵を三方から射撃でき、皆殺しにできます。

事実、真っ先に進軍してきた土佐軍は、この門で隊長の小笠原唯八以下18人の戦死者、28人の負傷者を出して退却しています。次にやってきたのが大山弥助(巌)率いる薩摩の砲兵隊です。小銃ではかなわぬとみて、大砲で漆喰の城郭を破壊してしまおうという作戦でした。銃眼が消えれば、会津の鉄砲隊は裸になります。

が、これに対して八重の指揮で、会津は旧式の臼砲を持ち出します。砲は旧式ですが、高い石垣の上から打ち下ろします。薩摩は新式砲ですが打ち上げます。威力は互角です。

さらに八重は、指揮を執る大山を狙撃します。これが見事に命中し、大山弥助の太ももを貫通しました。薩摩兵も退却します。主力の部隊がやられてしまいましたから、鎧兜の他藩は手も足も出ません。初日の正面での戦いは、八重の活躍で官軍を撃退しました。会津のジャンヌダルク、八重よ銃を取れ…などと言われる通りの大活躍でした。それまでの快進撃で「会津は一日で落とす」と勢いづいていた官軍の攻撃が頓挫します。攻撃が慎重になります。出陣していた会津の兵士たちが、その隙をついて、順次帰城できました。

日向内記に率いられた白虎隊の大半も、この時帰城しています。

103、この日、会津藩兵は城下の家々に駐屯する官軍に対して夜襲をかけた。八重もその夜襲部隊に女としてただ一人、スペンサー銃を抱えて参加している。夜襲部隊は、家々に火をかけ、城下から官軍を追い出した。

城下の、城に近い場所には広大な重臣たちの屋敷があります。ここは家のつくりも立派ですし、防御しやすい構造になっていますから、敵の手に落ちたら厄介なことになります。

事実、北出丸の先、西郷頼母の屋敷には土佐軍が乗り込んで、前線基地にしています。これを焼き討ちし、城下の家々を焼き払ってしまおうというのが夜襲部隊の目的です。戦国時代の籠城戦でも皆そうしていますし、川崎尚之助にはナポレオンを撃退したロシアの焦土作戦の知識もありました。勝海舟も、江戸談判が決裂したら焦土作戦を準備していましたしね。まぁ、戦争の常識です。

八重の役割は、火で逃げ出す官軍の仕官クラスを狙撃することです。彼らは江戸城で分捕ってきた赤、白、黒の唐牛の兜をかぶっていましたから、格好の標的でしたね。官軍は初めての土地です。会津兵には自分の庭です。夜襲は大成功でした。

が、この煙を落城と勘違いした白虎隊士は戦術、戦法も知りませんでした。白虎隊の悲劇は、若気の至りで暴走してはいけない…という教訓です。

104、24日の夜、夜襲に出撃しようとする八重の姿に気づいて、同行を乞う十数名の少年たちがあった。彼らはまだ11,12歳の子供である。彼らを率いるとなると、藩主の許しがいる。容保は「健気さは褒めて遣わすが、女子供だけの出撃では城中兵なしと侮られる。差し控えよ」と許可しなかった。

前日の戦果に続いて、もう一度と、単身夜襲を企画した八重に、子供たちが随行をせがみます。これも一種の熱気でしょうね。前日、前夜の八重の活躍は、城中に大きな期待と希望を醸し出していました。単身で夜襲をかけるなどは、まさに忍者働きですが、八重にしても無謀であることに気が付いていません。

容保も、八重が大活躍したことは聞いていましたが、女であることを知って驚きます。中止させたことは正しい判断ですね。無断で出撃したら、たぶん飯盛山の二の舞です。

この後、藩主から直々に照姫付を指示されます。これで、しばらくは男勝りの活躍は封印されますが、それもわずかな期間です。

城の後方の山頂から、真田藩が大砲を撃ち込んでくるに及び、八重の銃砲の知識が必要になってきます。真田藩の大砲は、佐久間象山が設計したものですが、その弾丸の仕組みを熟知していたのは川崎尚之助と八重しかいませんでした。撃ち込まれた砲弾を、爆発前に不発弾に換えてしまう手法で、損害を食い止めます。洋式砲は着弾時爆発の物もありますが、大半の大砲玉は導火線式でした。爆発前に導火線を消してしまえば不発弾になります。これで、会津城は一か月間、持ちこたえができたのです。