水の如く 25 東奔西走

文聞亭笑一

NHKの「軍師官兵衛」は一体どこまで黒田官兵衛の人生を追うのでしょうか。

なんとなく…秀吉の天下統一事業が終わったあたりで幕を引くような気がしてきました。初回、冒頭に小田原開城を迫る軍使役で登場していますので、あの場面が終盤のハイライトになりそうな気がしてきました。

というのも…、官兵衛の人生を最後まで描くと、秀吉の無謀な、2度にわたる朝鮮の役を描かざるを得ません。この侵略戦争で日本軍は残虐行為の限りを尽くしています。従軍慰安婦などというレベルではなく、虐殺というに等しい野蛮な行為を繰り返しています。

中国、韓国が太平洋戦争時代の日本軍の不確かな行為を持ち出して、外交問題化しようと躍起になっている時に、日本の国営放送が400年前の侵略行為と、野蛮性を宣伝することはないでしょう。敵に塩を送るのならまだしも、飛んで火にいる夏の虫になることはありませんよね。

そう思いついて、物語の進みの遅さが理解できました。関が原の天下分け目の戦争に賭けた官兵衛の最後の夢は…、今回の物語では無視されるかもしれませんね。それとも……朝鮮の役を一気に飛ばして、関が原前夜に飛ぶのか??

それでは息子の長政たち武将派と三成たち官僚派との確執が説明できません。豊臣政権の崩壊は、まさしく朝鮮の役をめぐる対立に根差したものであるからです。

まぁ、先のことは、先になってから考えましょう。

97、山崎には古風な城塞しかなかった。しかし、官兵衛はそれをわずかに補修して居城とし、家来たちの屋敷も、大仰な物を建てさせなかった。このことは官兵衛が生まれつき、無駄遣いが嫌いだったことにもよるし、いま一つは、長く山崎にいるわけではない、と思っていたからであろう。

官兵衛は秀吉から1万石を与えられて大名に出世しました。

「出世」と書きましたが、この立場を官兵衛がどう思ったかはわかりません。官兵衛は、小寺家が健在だったころは小寺10万石の筆頭家老で、信長の直臣でした。秀吉とは同列の織田家家臣でした。が、秀吉から碌をもらいましたから、秀吉の部下になります。本社の課長が子会社の部長になったようなものです。

ともかく、姫路は秀吉に譲ってしまいましたから領地のある揖保郡の山崎に移ります。

ここを選んだ理由は、秀吉の次の攻撃目標が鳥取になりますから、その途中の地に移り、毛利攻めの拠点にしようという配慮だったと思います。いわば戦陣代わりで長居をする気は全くなく、仮住まいのつもりだったのでしょう。

この城下建設に当たっては、官兵衛らしい逸話を残しています。後に黒田家の政治哲学、家訓にもなったものですから紹介しておきましょう。

山崎の建設現場で材木泥棒が頻発した。犯人を捕らえてみると隣国から出稼ぎに来ている大工3人だった。官兵衛は彼らに斬首の刑を宣告するが、なかなか執行命令を出さない。そこで奉行が「執行してよいか」と伺いを立てると、官兵衛は「人命の尊さを知らぬか」と奉行を叱りつけたと言うものです。

信長は極端にしても、人殺しばかりしていた戦国時代に、「思想」として人命の大切さを述べたのは、黒田官兵衛が最初の人だったかもしれませんね。

98、官兵衛は、直家や宇喜多の重臣たちから、毛利方の何十、何百という将官級の能力や性格を聞き、また在来、毛利氏がとってきた作戦の癖や、常套(じょうとう)戦法についても十分に聞いた。 一方、秀吉は山陰の平定に忙殺されていた。

官兵衛は着々と毛利攻めの情報収集に精を出します。新たに味方に加わった宇喜多直家の元を頻繁に訪ね、重臣たちとも昵懇(じっこん)になっていきます。信長の正式許可は受けていませんが、毛利との決戦のためには宇喜多の兵力は欠かせません。

宇喜多対策は官兵衛に任せて、秀吉は鳥取城攻略に向かいます。鳥取城は室町大名の名家・山名氏の城でした。山名の殿様は織田方でしたが、荒木村重謀反事件の時に家老以下がクーデターを起し毛利に寝返り、殿様を追い出して毛利軍を引き入れていた城です。

秀吉は三木城攻略で味を占めた兵糧攻めを開始します。三木での作戦に工夫を加え、今度は包囲する前に現地の米を市価の3倍という高値で買い占め、城内の米まで持ち出させるという事前工作をし、さらに、近在の百姓たちの帰順を認めず、城内に追い込んでいます。米がないうえに、米を食う人数ばかり増えましたから、瞬く間に兵糧が枯渇します。

鳥取城の「餓え(かつえ)殺し」というのは悲惨でしたね。日本史上最悪の虐殺事件ではなかったでしょうか。わずかな食料は武士たちが優先的に食いますから、百姓・町人たちは馬を食い、ネズミを捕まえ、草を食います。それに対して秀吉軍は、これ見よがしに柵の近くで魚を焼き、米を焚いて匂いを城内に送り込みます。ナチスのアウシュビッツでの処刑が史上最悪の虐殺といいますが、それ以上の残虐性だと思いますね。この戦いで餓死したのは非戦闘員が圧倒的に多かったのです。

多分、テレビには写しませんね。いや、写してほしくない事件です。

99、「四国でござるか」官兵衛も、さすがに二の句が継げず、押し黙ってしまった。
信長は腕のいい男をこき使い、それも時に多目的に使うと言った癖のある男で、このために秀吉や明智光秀などはへとへとになっていた。それにしても、鳥取にいる男に四国の面倒も見よ、というのはひどすぎると言うものであった。

信長のような上司を持ったら大変ですねぇ。「あっち行け」「こっち行け」「早くしろ」と、次から次へと命令を出します。鳥取を囲んでいる秀吉に、瀬戸内の海を渡った四国を片付けろというのですから無茶苦茶です。

この時期の四国ですが、高知の長宗我部元親が四国制圧の事業を完成させつつありました。土佐は勿論、伊予、讃岐と制圧し、阿波の三好一党を圧迫しています。その三好笑岩が、信長に援助を求めたのです。しかし、長宗我部はかつて信長に莫大な貢物をして「四国制圧許可」を受けています。さらに、明智光秀と姻戚関係を結びます。織田家の四国担当役員は光秀だったのですが…、三好を秀吉の担当にしていました。これは信長のミスですね。いや、ミスではなく読み違えでしょう。長宗我部がこれほど早く四国を制圧するとは想定外だったのでしょう。土佐は長宗我部、阿波は三好、そして瀬戸内側は直轄領にという構想だったようです。強すぎる、早すぎる長宗我部が煙たくなったのでしょう。

ともかく、官兵衛は四国に向かいます。官兵衛からすれば、いやな仕事ですが、これからの毛利攻めに当たって、播磨灘周辺の制海権を確保するためにも重要な役割ではあります。

100、秀吉は、信長からさきに近江半国をもらい、いま新たに播州を加えられた。
これだけの身上になった以上、子飼いの者も重用し始めた。たとえ半人前の男でも、 一人前の役を与え、少々の無理をしても、秀吉としては「譜代衆」を充実する必要があった。仙石権兵衛は少年のころから気が強く、機転も利いたが、しかし思慮の浅い所がある上に、異様に自己顕示欲が強かった。

秀吉は官兵衛を自分の名代として派遣する前に、仙石権兵衛秀久を淡路に派遣していました。淡路島は四国へ渡るための通路ですし、ここを抑えれば毛利水軍の動きを封止できます。淡路の安宅一族を制圧し、追い出すのが目的です。

淡路の安宅家…「あたか」ではなく「あたぎ」と読みます。関西に多い苗字ではないでしょうか。「あたぎ」と読む一族は、もともと熊野水軍の別れで、鳴門海峡、明石海峡を抑えていました。いわゆる海賊、海の関守ですね。本願寺、毛利水軍、紀州の雑賀党などと組んで、反信長派です。

仙石権兵衛、若い時は引用したような性格、性向だったかもしれませんが、豊臣、徳川の世を渡りきり、明治まで家を保っています。淡路・岩谷5万石から信州・小諸5万石、上田・6万石、但馬・出石5,8万石と300年間をしのぎ切りました。関西では有名な出石蕎麦ですが、その味を信州から持っていったのはこの仙石家です。江戸時代の大名家の転勤は、多くの文化を交流させていますね。

ともかく、この権兵衛の顔を立てながら、官兵衛は作戦の知恵を授けます。正攻法一本槍の権兵衛をなだめすかして、じわじわと安宅一族を締め上げます。強硬策に出なかったのは、長宗我部の外交パイプである明智光秀の意向を探る狙いもあったのでしょう。第一、官兵衛が連れていった兵員数では四国に渡っても、とても長宗我部とは太刀打ちできません。なんとも、はや、難しい役回りですが…、このことも光秀謀反・本能寺の変の伏線になった可能性があります。四国担当の光秀の顔が潰されています。