乱に咲く花 29 作用・反作用

文聞亭笑一

今週は毛利家の奥御殿、女の世界が中心のようです。

諸外国の攻撃と、幕府による軍事圧力で窮地に陥った藩が、その存続を賭けてリストラに邁進すべく、なりふり構わぬ方針転換をする場面です。政治の流れ、歴史の流れと言うものは歴史物語に描かれる政治、軍事だけではなく「情」の世界も大切です。

昨今話題の安保法制もそうですが、集団的自衛権の問題が「徴兵制復活」に結びつくのですから、理性の範囲を大きく逸脱した摩訶不思議な動きになっていきます。私なども荒唐無稽な小説を書き、想像たくましく「もし…」を展開しますが、それは歴史でも未来予測でもなく、「小説」の世界です。天下の大新聞や、野党第一党が小説の世界を宣伝するようでは、国民は不幸ではないでしょうか。50年前の安保騒動と同じく、架空の世界に踊らされて虚脱感を味わうだけです。

あの時も「安保が通れば徴兵制になる」と、彼の・・・浅沼稲次郎氏は叫んでいました。

まぁ、人それぞれ…。本題に戻しましょう。

先週号で内外の圧力、前門の虎、後門の狼に狙われた長州藩が、先ずは四か国艦隊と講和し、幕府との対応に一本化したところまでお伝えしました。

英仏蘭米の四か国は、「賠償金は日本政府である幕府に要求する」「彦島の租借は求めない代わりに下関を開港する」という条件で横浜に去りました。前門の虎は高杉晋作の交渉力で回避しましたから、次は幕府との対応に専念できます。

この当時の全国の諸藩は、規模の大小にかかわらず二大政党的な意見対立を内在していました。保守派と開国派です。幕末の諸藩の歴史を見ると、戊辰戦争が始まった後まで「官軍に就くか、佐幕で行くか」で血を見る争いをしています。「薩長に就く」という決心が遅れた藩が「賊軍」と見なされて、後の明治政府から疎外されていますが、当時の藩主が貰った爵位で、それが見えるところが面白いですね。この当時の攘夷派のリーダであった水戸藩は佐幕保守派が政権を握り、水戸斉昭、藤田東湖を教祖とする攘夷派は、天狗党として野党になっています。

長州は、一気に佐幕派が政権を取ります。椋梨藤太が復活し、周布政之助・吉田松陰の尊皇思想を粛清に掛かります。「幕府に恭順し藩の存続を願う」という方針に転換します。

松陰の提唱した考え方は、「毛利家は天皇の臣下である」と言うものでしたが、椋梨は「毛利家は将軍の臣下である」という300年来の考え方に就きます。

長州藩はやり過ぎた。やり過ぎた分だけ反作用を受けねばならなかった。
「長州を亡ぼしてしまえ」という気分が幕府の上下にみなぎった。薩摩がその先頭に立つ。
「長州藩を奥州で5万石ほどの藩にしてしまえ」というのが薩摩の西郷吉之助の案で、幕府はその方向に進むべく、西郷を征長軍参謀に任命した。

作用・反作用の法則…理科、物理学の世界ですが、これはいつの世でも起きます。物理学の世界では天体の運行をはじめとして、色々な分野で常識化していますが、人間社会でも良く似たことが起きます。つい5年前ですが、期待させて…、期待させて…こけた…、前政権をはじめとして、枚挙にいとまがありません。

幕府は重厚な長州包囲網を敷きます。蟻の這い出る隙間もありません。

山陽道からは広島浅野藩を中心に、備中松山藩、備後藩、そして信州松代真田藩が向かいます。

山陰道からは鳥取藩を頭に浜田藩、津和野藩、津山藩が向かいます。

四国から海を渡って山口には阿波・蜂須賀藩、伊予・松山藩、高松藩など四国勢

九州からは熊本藩、小倉藩、中津藩、そして黒田節の福岡藩が小倉に向かいます。

そして長州の本拠地萩を海から攻めるのが薩摩藩、久留米藩、島原藩、栁川藩の海軍です。

袋の鼠ですねぇ。しかし、どの藩も戦争体験ゼロです。しかも戦争はやりたくないのです。

このことを一番良く知っていたのは薩摩の西郷です。幕末のこの時代、戦争体験者は薩英戦争、蛤御門を戦った薩摩と、会津・・・それに長州しかありませんでした。会津が遠征軍から外されたのは孝明天皇以下、公家たちが京都防衛に信頼できるのは会津しかなかったからです。

戦争がいかに悲惨なものであるか、そのことを知るものが僅かしかおらず、戦争を始めるのですから無茶な行為です。おのずから、薩摩の動きに皆が注目します。西郷吉之助(隆盛)の独断場と言っていいでしょうね。

西郷の意図は「長州の処分は、長州人にやらせたらよい」と云うもので、長州藩内にクーデターを起こさせることであった。「長州に恩を売る」という戦略的意図で、西郷という人物の謀略家としての凄みは、その一生の中でこの時期が最高潮であると言っていい。

この時期、長州藩の政治は大きな揺れ戻しになっていました。周布政之助を中心にした攘夷派が度重なる戦闘で、薩摩・会津に敗れ、外国軍隊に敗れ、さらには幕府からの追討を受ける立場に立たされました。藩の存続の危機を迎え、椋梨藤太を中心とする幕府への恭順派が政権に復帰しました。そして、幕府へのお詫び外交を展開します。

幕府の要求は責任者の処罰と、藩主親子の謹慎、さらには指名手配中の桂小五郎と高杉晋作の処罰です。椋梨は要求に応じて蛤御門の乱を指導した福原越後などの三人の家老を切腹させ、匿っていた三条以下の公卿たちも大宰府に移します。藩主も恭順の態度を示します。山口の城の打ちこわしにも応じます。実質上は幕府への降伏ですね。

が、桂と高杉の行方は藩にもわかりません。

桂は出石城下に隠れ、商家の入り婿になって役人の目を欺いています。この頃、桂がやり取りした文書のサインが「木圭」でした。桂という字を分解しただけですが、なんとなく俳人風で町役人などの目をごまかして、国許や京の仲間たちと頻繁に連絡を取り合っています。

全くの余談になりますが、私もこれを真似て短歌の会などでは「券月」という名を使います。名前の一字「勝」を分解しました(笑) 英語でいえばTicket for Moonですよ。下手くそな歌の割には格好良すぎますね。

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」
後に、伊藤博文が晋作の碑に書き残したように、晋作の動きの機敏さは常軌を逸している。
周布政之助が自決し、松陰派が次々と獄に繋がれ、斬首されるのを見て逃げた。
「勢い」と言うものの怖さを、晋作以上に知るものはなかったであろう。「潮が引いている」という現実を直視し、「おのれの人望は去った」と見きった辺りは、政治家として類を見ない。

家老であった周布政之助や、オピニオンリーダであった久坂玄瑞を失い、桂や高杉にも失踪されてしまった奇兵隊で、隊をまとめていたのは山県狂介です。松下村塾には最後の方でほんのわずか通っただけですが、松陰門下生の主だったところが次々に倒れて次第にリーダとして重きをなしていきます。

三田尻で山県に逢い、奇兵隊と合流して藩政のクーデターをしようと持ちかけた高杉晋作ですが、引用した部分にある通り奇兵隊士の晋作を見る目が「外国に頭を下げた裏切り者」であることを察知し、雲隠れを決意します。

高杉、井上門多、伊藤俊輔の3人は既に開国派の考え方ですから、攘夷に凝り固まっている奇兵隊士たちに受け入れられるはずがありませんでした。井上は攘夷派の闇討ちで瀕死の重傷を負わされています。伊藤も高杉同様に九州の別府に逃げて身を隠します。

灯火(ともしび)の 影細くみゆ 今宵かな

山県と別れ際に残した晋作の句です。

この後、晋作は下関対岸の小倉に逃れ、さらに九州を転々としています。谷梅之助と名乗り、学問修行の書生のような感じですから、博多や長崎では目立ちません。ドラ息子の放蕩旅、そんな風情で情勢が変わるのを待っています。大阪の橋下徹・・・高杉晋作の心境でしょうか。

高杉の潜伏先博多、福岡藩・黒田家52万石の大藩ですが、この地にも名の売れた攘夷の志士がいました。月形銑蔵という人物です。藩内での攘夷活動よりも京での活躍で知られた人物で、後のチャンバラ映画に出てくる「月形半平太」は、この月形銑蔵と土佐の武市半平太を組み合わせて作った活劇の主人公のようです。

晋作は九州に潜伏している3週間の間に、世の流れについて会得したことがある。
――天下は上げ潮・引き潮いずれにせよ長州によって動いている――
長州が京を席巻し朝廷を担いで立ったとき、九州諸藩は皆長州に靡いた。勤皇党を優遇した。そして今、長州が転落し、幕府が勢力を盛り返したら、どの藩も皆佐幕化し、勤皇党が追われている。となれば…長州の動きが天下の要ではないか。長州が俗論党を追い払い、再び勤皇の旗を掲げれば天下は再び長州に靡き、引いては幕府を倒すことになる。

かなり大胆な仮説ではありますが、藩内にあって政争の渦中にあった立場から一歩外に出て分かったことでもありました。この辺りから、高杉晋作のクーデター計画が始まります。

一方、長州藩の降伏を受けて、幕府は長州の扱いを協議します。

強硬方針を取り、藩主の切腹と割封・転封を主張したのが会津藩でした。一方、融和策を主張し、謹慎処分でよしとしたのが薩摩藩です。結果は西郷の主張が通り、藩主の謹慎とその他条件を受け入れる結果になりましたが、会津藩が藩主の切腹と領地の大幅削減を主張したという噂は長州の奇兵隊士たちを激昂させます。これが…やらなくても良かった戊辰戦争での、会津攻撃とその後の斗南への転封に繋がったのでしょう。150年後の、現在までしこりが残ります。