次郎坊伝 30 井伊家取潰し

文聞亭笑一

今川と武田の間がますます険悪になってきます。仕掛けているのは勿論、武田信玄ですがいつの時代でも戦争には名目が必要です。かつての太平洋戦争でも、日本は「八紘一宇」「大東亜共栄圏の建設」などの名目を掲げました。すべての戦争は「正義の旗印」がないと始めることができません。

ただ、その名目はこじつけや、言いがかりのようなものが多く、仕掛ける側が一方的に主張します。

戦う双方ともに正義の戦なのですが、勝った方の正義が正当化され、敗けた方の正義は邪道と蔑まれます。大東亜共栄圏という考え方は、TPP協定やASEAN、ユーロ圏、NATOなどと似た発想ですから決して邪道ではないのですが、ヨーロッパ諸国の植民地支配という既得権を侵害します。戦勝国は「日本はケシカラン」と処罰しましたが、その後は日本の真似をしてアジアの経済支配をもくろみます。金融支配をめぐって日米と中国が競争していますね。いずれもお題目は「大東亜共栄圏の建設」です。

テレビでは今川の事情を中心に描きますから、今回は武田の方に目を転じてみたいと思います。

武田24将

武田信玄の基本ポリシーの一つに「人は石垣 人は城 情けは味方 仇は敵」があります。三橋美智也の演歌「武田節」の一節で皆様も良くご存知かと思います。「人を大切にする企業」とでも言った感じのキャッチフレーズですが、部下に対しては、実はそうでもありません。結構厳しく対応し、24将と言われる面々とも盤石の信頼関係にあったと言えないような事件もままあります。飴と鞭、これをうまく使い分けたというところが名声を博した一因であり、生き残った部下たちに戦略面での高等教育を授けていたことが、徳川期に高く評価されることになった理由でしょう。

先般、皇太子殿下が世界河川学会で紹介した釜無川の信玄堤や、信濃に向かう高速道路「棒道」の建設など、インフラ整備という点では大きな功績を残しています。これが「情けは味方」の部分でしょうね。

信玄は父親を追いだし、息子を自殺に追い込んでいますから、いわゆる「良い人」ではありません。

目的のためには情をかなぐり捨ててでも邁進するといったタイプでしょう。

その信玄を支えた24将を列記してみます。

一門衆(武田家の分家など親戚筋)

武田信繁(典厩) 信玄の弟 川中島の合戦(八幡原の合戦)で戦死

武田信廉       〃  諏訪、伊那方面担当

穴山信君     親類筋  勝頼に反発、織田方に寝返り、本能寺の変で戦死

一条信龍     親類筋  文聞亭の先祖(市川頼鳳)もこの同族らしい

父の代からの旧臣

秋山信友     武田家の西部戦線担当 美濃、三河、遠江方面軍司令官

甘利虎康     父の追放に加担 上田が原の戦(対;村上戦)で戦死

板垣信方     信玄の守役   上田が原の戦(対;村上戦)で戦死

飯富虎昌     長男・義信の守役 義信謀反の責任を取って切腹

小山田信繁    佐久方面担当 上州攻略の軍司令官

馬場春信     深志、安曇、飛騨方面担当軍司令官 忍者部隊など情報部門担当

山県昌景     今川領攻略担当  相模、駿河、遠江方面担当軍司令官

横田高松     前線指揮官 砥石崩れ(対;村上戦)で戦死

他に甲斐衆と呼ばれる小幡虎盛、三枝守友、多田満頼、土屋昌次、内藤昌豊などの名がある

信玄が抜擢した人材

山本勘助     軍師、城作りの設計者として活躍 川中島合戦で戦死

真田幸隆   佐久・上州方面攻略に活躍、 その長男・信綱、次男・昌輝も24将に加わる

高坂弾正     海津城主 対;上杉担当 信玄の知恵袋・甲陽軍鑑の著者

この他に原虎胤、原昌胤なども名を連ねる。

次郎坊伝のこの時代には既に川中島の合戦も終わり、24将のうち6人は戦死しています。代わって  曽根昌世、昌清兄弟、武藤喜兵衛(真田昌幸)などが入っています。高坂弾正に彼ら3人を加えた者たちが「信玄の子飼い」と言われるエリート集団です。駿河攻略のストーリを始め、上洛作戦などは、彼らの企画、演出であろうと思われます。

甲駿相3国同盟の破たん

甲斐の武田、駿河の今川、相模の北条の間に締結された同盟は、相互不可侵条約的な性格を持っていました。つまり互いに相手の領土を侵略しないという性格が強く、どこかが攻められたら応援に出動するという攻守同盟の色合いは薄いものでした。

今川義元が健在の間は、

今川は西の織田勢力の駆逐・上洛に邁進する。

北条は関東制覇を目指して上野、下野、常陸の抵抗勢力を掃討する。

武田は上杉との決着を付ける。

という目標に集中していたのですが、義元の討ち死にで今川の戦力が弱体化しました。3国のバランスが崩れ、しかも今川は塩止めという経済封鎖を仕掛けてきました。更に、武田の事情を言えば

上杉は手ごわい。北進して日本海の商圏を得る可能性は薄い。

軍資金である甲斐の金山からの産金量が枯渇してきた。軍資金に不安が出てきた。

この二つが方針変更の理由です。戦を仕掛けるための口実を探します。そこに、寿桂尼の打った最後の一手である「駿越攻守同盟」が飛び込んできます。3国同盟では織田、上杉は仮想敵国ですから「それと結ぶのはケシカラン」という言い分ですが、であれば「織田と結んだ武田はケシカラン」となるのですが、自分のことは棚に上げます。

同盟締結と同時に上杉謙信は北信濃に侵攻してきます。国境の武田方の城を攻めますが、海津城を預かる高坂弾正は守りに徹して相手にしません。「上杉勢は雪が降ったら引き揚げる」という習性をしっかりと把握していて、兵力の損傷を避けます。

武田勢の駿河侵攻は永禄11年の12月ですが、信玄は越後勢が引き揚げるのを待っていました。越後が雪に閉ざされている間に駿河を席巻してしまおうと、電撃作戦を準備しています。北条を足止めするために上野、下野、常陸の小勢力に軍資金を供与し、活動を活発化させます。

そして駿河には、三国同盟を破ったのは今川であると罪をなじり、遠江に攻め込むかのような交渉を仕掛けます。信濃と遠江の国境で秋山信友の軍を動かしたりします。

「遠江が危ない」という危機感が今川陣営の目を西に向けさせます。井伊家はその最前線にいますから防衛の最前線として今川直轄管理の方向に巻き込まれます。